1989年6月4日
1989年6月4日、北京の天安門広場で起こったあの惨劇から19年が経った。連日の報道を食い入るように見つめていたあの頃からもう19年が経ったのだ。
いま日本のあちこちの大学で学んだり、さまざまな場所で働いている中国の若者たちの殆どは、天安門事件を“歴史的事件”として認識している。
あの日あの時、天安門広場を揺るがした中国人民のために、今夜は黙祷を捧げよう。
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1989年6月4日、北京の天安門広場で起こったあの惨劇から19年が経った。連日の報道を食い入るように見つめていたあの頃からもう19年が経ったのだ。
いま日本のあちこちの大学で学んだり、さまざまな場所で働いている中国の若者たちの殆どは、天安門事件を“歴史的事件”として認識している。
あの日あの時、天安門広場を揺るがした中国人民のために、今夜は黙祷を捧げよう。
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四川省で発生した大地震は日に日にその惨状が明らかになっている。それにしてもまたわるいタイミングに悪い場所で起こったものだ。
四川省は西藏自治区と境界を接し急峻な地形である。山岳地帯の大地震は土砂崩れや地滑り、幹線道路の寸断という被害をモロに受けるだけではなく、河川の下流地域にまで水害を誘発する可能性大。中国の建造物は日本人の目からみるとなんとも適当に造られており、倒壊した民家群を見ていると、そりゃ壊れるよなあ、と思ってしまう。官庁の庁舎はなんともないのに学校が全壊するなど手抜き工事も相当行われているとみた。
中国では政変が起きる前後に大規模な自然災害が起きる。有名なところでは、革命の英雄毛沢東と周恩来が逝き、四人組が失脚し文化大革命が終焉を迎えた1976年、河北省唐山で起こった唐山地震では24万人が犠牲となった。今年の春節の時期も異常寒波に見舞われるなどなんとも縁起の悪い年である。西藏暴動の衝撃も冷めやらぬなか、八月に開幕する北京五輪も聖火リレーで世界中に騒動を巻き起こしている。
1990年代以後、中国では都市部と内陸部の格差が広がるばかりで、抑圧された内陸部の不満はいつ爆発してもおかしくない情況にある。西藏自治区はもとより新疆維吾爾自治区でも漢族支配に対する抵抗運動が止まない。貧しくとも都市部に移住することを許されない農民たちは、退去して北京や上海に流れ込んでいる(民工潮)が、働いても働いても搾取されるばかり。まるで老舎の『駱駝祥子』のような世界が現代に蘇っているのである。
日本人にとって中国は良くも悪くも長くつき合っていかねばならぬ隣国。中国ウォッチャーとしてはなんとも憂慮に耐えない、というのが正直な心境だ。なんだかわからないくらい無茶苦茶なのに人なつこく、恐ろしく計算高いくせにどこか間が抜けている、あのエネルギッシュな中国人たちが、また前を向いて歩き出すことを祈りたい。とはいえ中国人とつき合うとくたびれるんですけどね…
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基隆から臺東へ向かう。
臺東は臺灣の東南部にあり、臺北から特急列車で5時間はかかる。臺北の朋友も「臺東は遠いから行ったことがないよ」という。今回はここにある國立史前博物館を見学に行くのが主な目的。昨日と同じく5:58に基隆を出て宜蘭に向かい、宜蘭から普快車に乗り換えて花蓮に到着。花蓮からキョ光號の切符を買って臺東へ向かった。
臺灣は南北に山脈が走っている。山脈の西側(臺中〜嘉義〜臺南)には広い平地が広がっていて、東側(宜蘭〜花蓮〜臺東)の大部分は山が海岸まで迫っている。特に花蓮から臺東にかけてはそれが顕著で、山岳地帯に住む原住民(アミ族、タロコ族など)が多く住んでいる。臺東は特に原住民の多いところで、あちこちにあきらかに漢民族とは違う風貌の人々を見かける。花蓮を過ぎると車窓から椰子の木が目立つようになり、異国情緒がふんだんに感じられてくる。
臺東駅に着いたのはもう夕方近かった。臺東駅は郊外にあるので、市内までバスに乗って行かなくてはならない。夕暮れの臺東郊外を走って終点のバスターミナルで下車。道端で、さて今晩はどこに泊まろうかと考えていたら、強烈に訛ったジイサンが声をかけてきた。
「あんた、今晩はどげんすると? ホテルは決まっとると? 予算はなんぼ出せるとね? うーん、そうかあ、そんならよかホテルがあるばい。そこの社長は日本語が話せるとヨ。案内するばってん、オラのタクシーに乗るばい、よかよか、金はいらんとヨ、サービスばい」
要するにこのジイサン、ホテルに客を紹介していくらか貰っているのだろう。めんどうくさいのでタクシーに乗る。乗ること数分、着いたホテルは見るからに怪しげなホテル(苦笑)、とはいえ街の中心部にあるし、一泊1000元というわりにはちゃんとしているので、ここに泊まることにした。オーナー社長は怪しげな日本語を話す兄チャンでしきりに話しかけてくる。といっても日本語はかなりいいかげんなので、会話の大部分は中国語で済ませる。ロビーの隅で茶をガブガブ飲まされておしゃべりにつきあっていたらだんだん腹が減ってきた。
とにかく飯を食おうと街に出る。さすがに臺東まで来ると地方都市らしい田舎っぽさがそこかしこに漂っている。だらだらと歩いていたら『福爾摩沙餐廳』(フォルモサ・レストラン)という看板が見えた。しかも日式食堂と書いてある。日本料理? それにしてはよくある“誤解されたニッポン”“エキゾチックジャパン”という感じではなく、落ち着いた外観のレストランという風情。臺東で日本レストラン? しかもシックな? どういうこと? 面白そうなので入ってみた。
店内はとても綺麗でシックな木目調で統一されている。私以外には誰も客がいなかったのだが、原住民らしいかわいい小姐が席に案内してくれる。メニューを見たらカレーセットとか海老フライセットとか、要するに洋食屋なのである。小姐に「『日式排骨加哩飯(日本式カツカレー)』とは、どのへんが日本式なのか?」と尋ねたら「日本風の味付けよ」と教えてくれたのでそれを頼んでみた。待つこと暫し、出てきたカレーは紛れもない日本の洋風カツカレーだ。実に美味しい。小姐が目をパチクリさせて「美味しい?」と聞くので「うん、美味しい」と答えたら嬉しそうに厨房へ駆けていった。
食後の珈琲を飲んでいたら厨房からオジサンが出てきて「日本の方ですか?」と声をかけてきた。彼は成田さんといって本職は日本の高校の先生とのこと。なぜ高校の先生が臺東でレストランを??? 珈琲を飲み乍らお話を聞かせてもらった。
「彼女(店員)が『中国語を話す日本人が来ているよ!』というんで…ようこそいらっしゃいました。ありがとうございます。どうしてまた臺東へ? ああ、そうですか、史前博物館がお目当てですか。だいたい市内は観光地じゃないからねえ、知本温泉とかあっちのほうが有名だし、あまり市内に外国人はいないですよ…」
「ええ、私はふだんは日本にいます。いまは夏休みなんで1ヶ月ほど臺東に滞在しているんですよ…私は大学生のとき動物学を専攻していて、タイワンザルの生態調査のために臺灣に来たんです。もう40年もむかしのことですよ…ほら、臺東の沖に藍嶼(Lan yu)という島があるでしょ、あそこに暫く滞在してねえ、そのときに原住民の人たちにそれはそれはお世話になったんですよ。だからいつか恩返しがしたいなあ、って思って…ええあの娘もアミ族です。若い世代になるとアミ語を話せないのも増えてますけどね…臺東の原住民たちともつきあいが始まって、その後もなんだかんだと臺灣と日本を往復していつしか40年が経ちました」
「ここもネ、私と私の仲間が金を出し合って建てたんですよ。原住民の若者たちの就労援助とか、そんなことができたらいいな、と思いましてネ…ええ、それがなかなか儲けを出すまでにはいかないですよ(笑)…まあ原住民の連中はのんびりしてますから(苦笑)…商売をやる以上はあるていどガツガツしないと儲けが出ないでしょ。でもかれらはなかなかそこまでやらないんだなあ…でも赤字じゃあ困るんでね、まあもう少しもう少しって感じで…気の長いつきあいですなあ(笑)…」
「しかしあなたもよくこの店を見つけてくれました(笑)ありがとうございます。臺北ならともかく、臺東だからねえ…とにかく辺鄙だから、まず知っている人が少ない(苦笑)、また臺東にお越しの際にはぜひお立ち寄りください。お友だちにも宣伝してください……といってもねえ、臺東くんだりまで来るやつはそうそういないよねえ(苦笑)」
そんな田舎の臺東ですが、もしも行く機会があればぜひ『福爾摩沙餐廳』に足を運んでみてください。中華料理に飽きたときのいいアクセントになりますよ。
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アジワンというのは、アジアの国々で気ままにのんびり暮すわんこ(犬)たちを指す造語。片野ゆか著『アジワン−ゆるりアジアで犬に会う』という本のタイトルでもあります。
臺灣のあちこちに犬がいます。飼い犬もいれば野良犬もいます。洋犬もいればアジア犬もいます。というわけで、わんこを愛して止まぬサワコさんのリクエストに応えて今日はアジワン特集。
基隆駅前で寝ていた犬。
のんべんだらりと寝る犬の横を、人々が通り過ぎていました。

基隆駅のホームで電車の到着を待つ犬。
改札フリーパスで出たり入ったりしてました。

十分の線路沿いをうつむきかげんでとぼとぼ歩いていました。
疲れているのかしらん。

基隆の海岸でたわむれる犬たち。
涼しそうに見えますが、ものすごく暑い日でした。

後述しますが、お昼ごはんをご馳走になった船長さんの家にいた犬。
キリリとした美犬で名前はシヤオグヮイ(どういう字を書くのか聞き漏らしました)

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基隆−−八堵−−瑞芳−−三貂嶺−−十分−−菁桐
臺鐵支線平渓線の主な拠点は瑞芳である。実際、平溪線に乗り入れる運行本数は七堵発−菁桐行、八堵発−菁桐行が半数を占めているが、私的には瑞芳を拠点としたい。なお瑞芳から三貂嶺までは宜蘭線なので、実際の平溪線は大華−菁桐なのだろう。
基隆から臺北へ向かう途中、線路は八堵で基隆行きと宜蘭方面行きが合流する。八堵から宜蘭方面行き區間車に乗り、暖暖−四脚亭を過ぎて瑞芳に到着。ここで11:35瑞芳発菁桐行きに乗り換える。平渓線は全長約13キロ、渓谷に沿って山間部を走るローカル線だ。瑞芳に到着したのはお昼少し前。いったん改札を出てから窓口で平渓線一日周遊券を購い、売店で環島鐵路火車時刻表を購う。
平溪線の発車までしばらく時間があるので瑞芳の街をぶらぶらと歩く。瑞芳は基隆までバスで30分。乗り継ぎ時間にもよるが、宜蘭方面から基隆に向かうとき、八堵で乗り換えるよりは比較的早く基隆に着く。基隆から人気観光スポット九分へ行くバスは瑞芳を経由するため頻繁に発着している。今回の滞在中、私は何度もこの基隆−九分−金瓜石経由路線バスのお世話になった。乗り慣れるととても便利な路線バスである。
ふたたびホームに戻る。宜蘭方面行きの列車が入線するたびに、便當(弁当)立ち売りの小姐が「べーんとー」と声を張り上げる。そう、臺灣では駅弁のことを便當(鐵路便當)というのである。國語の発音は「ビェンタン:bian dang」だが「べんとう」で通じるのだ。まだ幼さの残る小姐が叫ぶ「べーんとー」という、どこか郷愁を誘う売り声が、ローカル線のホームにこだまする。
やがて平渓線がホームに入線してきた。車体側面は銀色、正面は黄色とオレンジのツートンのDRC1000柴油客車だ。
平渓線は三貂嶺から宜蘭方面行きと分岐し、山の中へと入っていく。しばらく渓谷沿いや山間をのんびりと走り、やがて十分に到着する。電車は十分の駅の手前の商店街を走る。線路の両側に商店と民家が立ち並び、まるで都電のような世田谷線のような風景で有名。
十分は侯孝賢監督の映画『戀戀風塵』のロケ地としても知られている。島式のホームから改札まで線路を渡って行き来するのも雰囲気だ。このアングル、このホーム、『戀戀風塵』を観た方なら記憶にあるのではないだろうか。
十分では列車が通過する度にタブレット交換を行うので近くまで見物に行く。駅員さんが持っている丸い輪がタブレット。
そして電車は終点の菁桐へとすべり込んだ。菁桐は1929(昭和4)年開業(1945年までの駅名は菁桐坑)という由緒ある駅。臺灣に残る日本統治時代の数少ない木造駅舎として知られている。
平日の昼間ということもあって駅前は閑散としており、おまけに颱風6号の影響でときおりバケツをひっくり返したような雨が降ってくる。とりあえず飯でも食おうと駅前の小さな商店街を歩き、オバアサンが声をかけてきた小さな食堂に入った。
ここは楊家鷄捲という名物料理がウリだそうで、オバアサンはにかにかと笑い乍ら「ゴハン、タベルカ?」と言い、楊家鷄捲といっしょにスープかけご飯を出してくれた。楊家鷄捲は豚の挽肉などが入った餡を湯葉で巻いて油で揚げたもの。鷄肉に似ているからこういう名前なんだそうな。
雨に煙る線路を眺め乍ら黙々と食事をしているうちに雨が止み薄日が射してきた。店を出て菁桐駅附近を暫く散策してから駅に戻る。待合室も古ぼけて良い感じ。窓口の奥では駅員が机に突っ伏して昼寝の真っ最中。まあそれくらいローカル線だということだ。
やがてホームに滑り込んできたDRC1000に乗り込み十分、平溪、三貂嶺を過ぎて瑞芳に戻る。ここから八堵まで行って乗り換えるよりも、ここから基隆行きの路線バスに乗ったほうが便利なのである。瑞芳駅前のバス乗り場で地元の人たちといっしょにバスに乗り、ガタガタと揺られ乍ら基隆へ戻った。これで平溪線瑞芳−菁桐間乗車完了。
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夕暮れの基隆は小雨に煙っていた。
今回は港町・基隆に腰を据えてあちこち経巡る計画。2年ぶりの基隆だが、街がそれほど広くないのと、前回は足が棒になるほど散策したおかげで土地カンはバッチリ(笑)。まずは宿探しということで適当に探し歩いて、中正路の路地裏にある安宿に投宿。実はこの宿の前で煙草を吸っていたら、店の前にいた初老のオジサンと目が合った。オジサンは流暢な日本語で「お泊まりですか?」と尋ねてきたので、まずは部屋を見せてもらう。狭い部屋だが1泊700元にしては割といい感じ。まあいいかとここに5泊することにした。
フロントに戻って手続きをして、オジサンに「日本語がおじょうずですね」と言ったら、オジサンは真顔で「私は日本人ですよ。仕事で来るときの定宿なんです。さっきまで老板(経営者)とコーヒーを飲みに言ってたんですよ」と仰る。それにしてもロビーの椅子に腰掛けて、半ズボンにサンダル姿でオバサンと雑談しているさまは、なんとも自然な感じでまるで現地人。
荷物を解いて身軽になるとさっそく廟口夜市へ繰り出した。運河にかかる橋を渡ると、向こう側には賑やかな夜市の灯と人だかり。まずは路傍の屋台で、基隆名物の蟹のあんかけスープと油飯(おこわ)を食べる。しみじみと実に美味しい。ああ、基隆に来たんだなあ、という実感が湧いてくる。続いて米粉湯(太めのビーフンが入ったあっさりスープ)
廟口夜市の角にある、これまた名物の一口吃香腸(ひとくちソーセージ)を貪る。3センチくらいのかわいいソーセージが1個5元。おまけの生ニンニクといっしょに熱々の焼き立てを齧るのが臺灣流(?)。
愛玉子果汁(オーギョーチジュース)を飲みつつ夜の街をぶらぶら。小雨に煙る蒸し暑い港町の夜は更けていくのであった。
宿に戻ってシャワーを浴びテレビを観る。ちょうど颱風6号(パブーク)が臺灣に接近中のため、西南気流が乱れているとテレビのニュースで言っていた。パブークとはラオス語で大きな淡水魚とのこと。ゆらりと臺灣に向けて泳ぎだしたパブークはどこを抜けるのかなあ。
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−−桃園−−山佳−−臺北−−八堵−−基隆
臺灣といえば中華民國交通部臺灣鐵路管理局、略して臺鐵である。臺鐵は森林鐵路阿里山線(嘉義−沼平)を除く、臺灣全土の鐵道の運行を管理している。ちなみに森林鐵路阿里山線は、農業委員会林務局嘉義林管處に所属している。
いままでに私が乗車した路線は、桃園−竹南(西部幹線縦貫線北段)、竹南−苗栗−臺中−彰化(臺中線)、彰化−嘉義−臺南−高雄(西部幹線縦貫線南段)、高雄−枋寮(屏東線)、枋寮−臺東(南廻線)、臺東−花蓮(臺東線)、花蓮−蘇澳新(北廻線)、蘇澳新−八堵−臺北、および八堵−基隆(東部幹線宜蘭線)・・・といえばもうお分かりであろうが、前述の西部幹線縦貫線北段の桃園−臺北間および竹南−大甲−追分−彰化間(海岸線)、成功−追分間(成追線)、平渓線、内灣線、集集線、林口線といった各支線、前述の森林鐵路阿里山線、そして臺灣高鐵(臺灣高速鐵道:臺北−左營)には未乗車。まだまだ私は臺鐵の経験も修行も足りないのである。
また臺鐵の客車も自強號(特急)、キョ光號(急行。キョはくさかんむり+呂)、復興號(準急)、區間車・普快車(各停)が運行されているが、まだキョ光號、復興號および普快車には乗ったことがない。そこで今回の旅では、西部幹線縦貫線北段桃園−臺北間および平渓線(瑞芳−菁桐間)と、キョ光號そして憧れの普快車乗車を達成すべく、酷暑の臺灣を目指して波濤を越えて(飛行機だけど)来たのである。
空港から路線バスで桃園へ向かう。相変わらず便が少なく臺北行きのバスに比べてオンボロ感は否めない。2年ぶりに桃園に到着しすぐに山佳までの近距離切符を購う。ロングシートの區間車(通勤電車)に乗り、陶磁器で有名な鶯歌を過ぎて山佳で下車。山佳は1903(明治36)年開業(1945年までの駅名は山仔脚)という由緒ある駅。この駅舎は文化遺産として保存されている、洋風と和風が折衷された駅舎なのである。数年前までは臺鐵本線で唯一、対面式ホーム間の跨線橋(天橋)も地下道もない駅として知られていたという。私が子どもの頃の日本でも普通に見られた、線路を渡って反対側のホームに行く構造だったのだ。首都圏なら東急世田谷線の各駅をイメージしてください。実になんとも味わい深い山佳の駅舎をご覧あれ。
ふたたび區間車に乗って樹林−板橋−萬華を経て臺北に到着。途中、樹林の操車場を通過。たくさんの車輌が停まっており、下車してじっくりと見学したい気持に駆られる。臺北からは松山−南港−汐止−五堵−百福−七堵−八堵と通過。八堵からは宜蘭方面行きと基隆行きが分岐する。宜蘭方面行きの線路に別れを告げて、私が乗った區間車は八堵−三坑を過ぎて終点の基隆に到着した。ひとまずこれで西部幹線縦貫線北段の桃園−臺北間乗車完了。
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2年ぶりに臺灣に行ってきた。
雨の港町・基隆で都合7泊、原住民の街・臺東で2泊という長丁場。おまけに私が臺灣に滞在中、颱風が連続してやって来るという椿事もあり、例年よりも涼しい臺灣…といっても日本人にとってはじゅうぶん暑い…なかなか密度の濃い臺灣独り旅。
いろいろなものを観て、いろいろなものを食べ、いろいろな人たちに出逢い、そして鐵道やバスにも乗りまくってきた。これから暫くのあいだ、時系列に沿ったり無視したりしつつ、臺灣の珍道中を紹介していきます。
まずはご挨拶として、基隆は廟口夜市の名物、蟹のあんかけスープと油飯(おこわ)という最強好吃コンビのご紹介。これこれ、これが食べたかったのだよ(笑) これを食べるためだけでも、基隆に来る甲斐があるというものだ。
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湖南省洞庭湖が洪水のために水位上昇。おかげで湖畔に棲息するネズミ約20億匹が、難を逃れて陸地へ移動して大問題になっている。20億匹とはまたなんとも中国らしいニュースだが、それでも20億匹も棲んでいたとは、さすが中国だ。ネズミが増えた原因は、一説によると、ヘビ、イタチ、フクロウなどの天敵を“住民が食べてしまったから”だという。要するに食物連鎖の一環が崩れたということだな。
冗談はともかく、田畑に押し寄せたネズミは農作物を食べてしまうため、地元では大問題になっている。さて、ここで中国人がとった手段は…そうです。ハブにマングース、ヘビにナメクジ、ネズミにはネコ! というわけで小さな島にネコを数匹送り込んだところ、ネコはネズミに食い殺されてしまったということである。まさに「窮鼠猫を噛む」だ。最近では共食いも始まったというから、さてこれからどうなるんでしょう。
しかしそこは中国人である。ここにも銭儲けの花が咲く。そうです。ネズミを捕獲して食用として売り始めたやつが出てきた。もうこうなると商魂逞しいというかなんというか…チベット地区では、貴重な「冬虫夏草」を巡って村どうしが対立、銃から手榴弾まで持ち出して血みどろの争奪戦を繰り広げている。
いんちきディズニーランドからダンボール入り肉マン、ネズミ対人間騒動と、北京五輪を来年に控えて、どうする中国?
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職場の若いオネエチャンと雑談をしていたら、私が中国語を話せるという話題になった。実はこのオネエチャンも、話せるわけではないが読み書きができる。そういえば中国語わかるよね、中国語勉強してたの? と聞くと、専攻が東洋史学だったので初歩的なことは学んだらしい。それよりも私の度肝を抜いたのが、彼女は満文が読めるということだった。満文というのは満洲語の文字のことである。
満文
↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E6%96%87%E5%AD%97
http://mariyot.ld.infoseek.co.jp/manjuletter.htm
満洲語は満洲族(中国では満族)の民族言語で、モンゴル文字を改良した満洲文字(満文)で表記される。満洲族は清朝を興したツングース系民族である。日本の傀儡政権だった満洲国最後の皇帝愛新覚羅溥儀も満洲族だ。清朝も後期になるとしだいに中国語(漢語)が話されるようになり、民族の言語である満洲語もしだいに廃れていった。
現在の人口は約1000万人(2000年度調査)なのだが、満洲語を話せる人口は皆無に等しい。現在では黒龍江省の寒村にわずかに満洲語を話せる老人たちがいるだけの、文字通り絶滅に瀕している言語なのだ。それでも清朝の公文書や多くの書物は満文で書かれていて、清朝史を学ぶ研究者は満文を読む必要があり、現在でも研究や解読が続けられている。
「満文を読まなきゃいけない授業を取っていたので…まあいちおう勉強しましたから…でも何の役にもたたないですけどね、誰も話せる人いないし、日常で使う機会もないし(苦笑)」
満文フォントもあるそうです。すごいね。
↓
http://porocise.hp.infoseek.co.jp/memo/manju_tex.html
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今日で帰国。朝餐の後、部屋で荷造りをしていると電話が鳴る。北京在住の友人B嬢からの電話だった。私が北京にいるときに彼女は折悪しく仕事で出張中、残念乍ら北京での再会はかなわなかった。「せっかくの機会なのにお会いできなくて残念です、、、ああ、昨夜お電話をしていただいたんですか? 昨夜は急に通訳の仕事が入ってしまって、、、携帯電話がつながらなかったんですね、すいませんでした、、、ぜひまた北京にいらしてください、今度はホントにホントに熱列歓迎しますから(笑)」中国がずいぶんと近くなったことがわかったから、また近いうちに北京に来なくちゃならないな。天津駅10:30発の特急に乗って北京に向かう。朝方は小雨がパラついていたが正午に北京についたら晴れていた。
特に用事もないので早めに空港に入っておいたほうがいいと判断し、駅前でタクシーを拾って首都国際機場に向かう。空港に到着してさっさとチェックインを済ませ搭乗券を受け取る。空港内のレストランで麻婆豆腐に炒飯というベタな食事をして出発ロビーで搭乗を待つ。時間があるうえにどうせ遅れるだろうと踏んで空港内を探検、人民元がたくさん残っているのでいろいろとお土産を購う。案の定、出発が30分遅れるが中国だからちっとも驚かない。もう母も慣れてしまいぜんぜん慌てないようになった。首都国際機場は成田空港と違って滑走路が少ないらしく、窓から外を眺めていたら離陸を待つ飛行機が行列を作っていた。中国は飛行機まで並んでいる(笑)!
現地時間17:00、飛行機はあっけなく離陸し、機内食を食べたり『理由』を読んだり居眠りしたりしているうちに、日本時間21:00成田空港に到着。3時間かあ、近いなあ。税関を通過して日本に戻ると外は湿度が高く蒸し暑い。空港近くのホテルにチェックインしてシャワーを浴びて寝てしまう。翌日、東京駅で母と別れて帰宅。家に着いて財布を開けたら人民元が400元ほど残っていた。うーん、これじゃまた北京に行かなくちゃならないな(苦笑)
今回は18年ぶりの訪中だったので最初は北京の変貌ぶりに吃驚してしまったが、よくよく考えてみるに現在は中国はバブル経済の真っ最中、しかも1980年代後半の民主化運動、1990年代の改革開放政策を経て、近代化が進んでいるのも当然だろう。そういうことはニュースなどで耳にしてはいたが、実際行ってみるとたしかにたいした発展ぶりだった。そりゃ18年も経てば、日本の地方都市だってずいぶんりっぱになっているのだから、なにもそんなに驚くこたあ、ない。
とはいえ、私の記憶にある中国は、人民服と自転車とクラシックな自動車とオンボロバスの中国。街頭で喉が乾いたら、道端で1杯5分(0.05元)のお茶を買って飲む中国。ミネラルウォーターのペットボトルなんざ影も形もなかった。そういえば、道端のお茶売りなんて一度も目にしなかった。あのお茶売りという職業はもう絶滅してしまったのだろうか? きっと辺境の地方都市に行けばまだ残っているのかもしれない。食事をしようと思ったら糧票(liang piao)が必要だったが、いまやそんなものはとっくに無くなった。中国人民にとって当時の日本は憧れの国だった。文化大革命を発動して中国全土を混乱に巻き込んだ毛沢東が逝き、江青を含む四人組を打倒したのは、毛沢東が後継者に指名していた華国鋒だった。その後、民主化に理解を示したといわれる胡耀邦時代に芽を吹いた自由への憧れは、隣国日本に向けられていたとも言えるだろう。なにしろ、私が当時出会った人びとは、おしなべて高倉健と中野良子と山口百恵の魅力を語り、日本映画『追捕(君よ憤怒の河を渡れ)』や『砂器(砂の器)』、テレビドラマ『阿信(おしん)』『血疑(赤い疑惑)』に熱狂していた。
しかし民主化への強い希望は天安門事件で無惨にも叩き潰された。天安門広場に座り込む学生たちに肉声で応えた趙紫陽は即刻解任され、上海のテクノクラート出身の江沢民が、民主化を抑え込みつつ改革開放への幕を開けた。1997年には植民地香港を取り戻し、次は臺灣の奪還を国是として砲声を響かせている。中国は経済の自由化は果したといえるだろうが、民主化にはまだまだほど遠いと思う。地球上で、中国ほど国家を挙げてインターネットの規制に取り組んでいる国は、無い。自由化、民主化というのは酒のようなものだ。飲めば良い気分になるが飲み過ぎると毒になる。いくら飲んでも酔わない人もいれば、匂いを嗅いだだけで酔っ払う人もいる。とはいえ人びとはビールもウイスキーも老酒も、好きな酒をいつでも好きなだけ飲むこと(飲まないこと)ができるのが、自由化、民主化というものではないか。老酒はいいが日本酒はダメ、などと国家に言われる筋合いは、無い。
私はもう20年以上も(たいしたつきあいではないが)中国とつきあい続けている。それでも18年ぶりの訪中、それもわずか数日の滞在で大きなことは言えないが、北京の変貌ぶりには驚かされた。見るもの聞くものすべてが新鮮だった。それでも駅の切符売場では相変わらず人びとが行列し、カウンターの服務員がこのうえなく不機嫌な顔で切符とお釣りを放り投げている。真っ黒に陽焼けした老婆が公園でアイスクリームを売っている姿と売り声はちっとも変わっていない。変わったのは、アイスクリームが綺麗な包装紙に包まれていることと、18年前に比べて値段がぐっとあがったこと。北京オリンピックを前に高層ビルがあちこちで建設されているが、一歩裏通りに入ると昔乍らの胡同があって、そこには市民の暮しが少しも変わらずに存在していた。夜ともなれば涼を求めて人びとが露店で酒を飲み飯を食い大声で楽しそうに喋っていた。きっと私はこれからもずっと中国とつきあっていくのだろう。
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五日目の朝餐。今日もパンと珈琲(笑)。ホテルの前でタクシーを拾い天津北駅裏にある北寧公園へ向かう。タクシーの運ちゃんによれば、この北寧公園は天津市内で最も古く、しかもほとんど変わっていないという。公園に入ってみたら確かに古ぼけた公園だった。母がスケートショーを観たとおぼしき池もちゃんと残っていた。細部までちゃんと記憶しているわけではないというが、それでもあちこちにかすかに見覚えがあるという。母が観たというスケートショーだが、『天津日本租界居留民團資料』によれば、昭和18年1月27日から31日にかけて「稲田悦子招聘模範型氷滑大會」がおこなわれた、と記されている。母が観たスケートショーとはたぶんこれだと思われる。稲田悦子は日本フィギュアスケートの草分けで、当時は天才少女として有名だった人。1936年、わずか12歳でドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された冬季オリンピックに出場して人気を博したという。
こんな古ぼけた公園のなかに動物園(上の写真)があった。木の上には「奇観人蛇同居驚険刺激」(訳さなくてもおわかりであろう)という横断幕。入り口には扇情的な看板が、、、うーん、入りたい! しかし母を連れてこんなところには入れないし、そもそもそんな時間はない。まあどうせキワモノであることは重々承知の助。どう見ても動物園には見えない、動物園というよりは妖しい見せ物小屋のような、妖しい忍者屋敷のような動物園。天津を訪れたときには是非とも見学されることをお薦めする。
公園を出て次に天津北駅に向かう。当然だが駅前もすっかり変貌しておりかつての面影はない。しかし母は駅前にある病院を見て「たしか駅前には病院があって、誰かのお見舞いに来たことを憶えている」という。これも昨日の中学校と同じで、当時の施設をそのまま戦後も病院として使用し、建て直したものであろう。駅前広場に立った母はしばらくあたりの風景を眺めていたが、たしかにあのへんから通りを右に曲がり、この駅を背にしてまっすぐな通りを歩いて通学していた、と言う。くだんの中学校までは1キロほどあるのでタクシーを拾おうかと思ったが、母が歩いていきたいというので同道する。
通学路とおぼしき裏通りを延々と歩くとここには昔からの建物がたくさん残っていた。通りの両側にはさまざまな屋台や物売りが店を広げており、棗売りを発見した母が「当時もこうやって路上で棗を売っていた」と言って懐かしそうに眺めていた。てくてくあるいて国民小学校跡地に到着。現在の中学校ではちょうど夏の講習がおこなわれているようで、校門の前にはたくさんの親たちが子どもを待っていた。そこから昨日の日本人住宅街を抜け、市場を通り抜けてホテルに戻る。旧日本人住宅街を歩き乍ら、たしかにこういう家々に日本人が住んでいた、と母が感慨深げに呟いていた。国民小学校も自分の家も確認できなかったが、もう二度と天津に来ることはないと思っていた母は、それでも満足であったという。
午餐の後、独りでタクシーを拾って昨夜出かけた濱江道購物広場に行く。昼間もたいした賑わいであちこちのデパートに入ってみたが、どこもかしこも日本のデパートと変わらない。昨日は気がつかなかったが天津伊勢丹の裏に西洋風の教会があった。このあたりは戦前は列強の租界だったので西洋のゴチック建築がたくさん残っている。それなら教会もあるよなあ、と中に入ってみた。フランスのカトリック教会ということで、外の喧噪が嘘のように静かで荘厳な雰囲気だった。観光客に混じり信徒とおぼしき人が何人か静かに座っている。聖水を額につけてカトリック風の礼拝をするオジサンもいる。気がつくとどこからかグレゴリオ聖歌が流れてくる。どうやら隣接する事務所で聖歌隊が練習をしているらしい。なんとも荘厳な雰囲気で一瞬ここが中国・天津であることを忘れそうになってしまう。私は信徒でもなんでもないのだが、世界が平和でありますように、とマリア像に向かって祈りを捧げて外へ出た。
伊勢丹のすぐ前の歩道橋で片手のない物乞いに遭遇したので1元をあげる。一足600元(約1万円)もするサンダルを嬉しそうに買っていく若い女性がいるかと思えば、相変わらずの物乞いもそこかしこの路上に寝ていたり、うろついていたりする。
またも喧噪の巷を彷徨い繁華街をはずれて路地裏に入り込むと中国大劇院という古ぼけた劇場があった。単なる街の劇場かと思って案内番を読むと、実は70年前に建てられた由緒正しい歴史のある劇場だということがわかった。
さらに歩くと天津外文書店に遭遇。1階は思いきり工事中で閉鎖されているのかと思ったら、2階以上は営業中という貼紙があった。ここではカバンを預けて入店しろというのでカウンターに預ける。万引防止ということだろう。店内は薄暗くて服務員は揃いも揃ってやる気ゼロ。ああ、懐かしい。これがかつての中国の書店だ。うろうろして『延安:紅色名城旅遊指南系列叢書』『中国公路網地図册』の2冊を購う。北京の書店でもそうだったが、ここでも『江沢民選集』が平積みにされている。熱心な党員なのかなんなのか知らないが、手にとって読んでいる人が目立つ。北京の図書大厦ではマジで500冊くらい平積みになっていたので驚いた。日本で小泉純一郎の著作がこんなに売られているなんて考えられない。また繁華街に戻って、母にお土産用の十八街麻花と、おやつの天津名物揚げ団子を購い、タクシーに乗ってホテルに戻る。
夕方、散歩したいという母を連れて海河沿いを歩く。橋のたもとにこじんまりとしたゴチック建築の望海楼教堂という教会があった。
見学しようかと中にはいると管理人らしきオジサンに呼び止められる。「あんたたち、ミサに来たのかい?」ちょうど夜のミサがおこなわれていたので見学することはできなかった。それでも漢語を操る変な日本人と年寄りが珍しいのか、いろいろと話かけられる。「ここは昼間なら見学できるし、外国人でも信徒ならミサに出ることもできるよ。オレたちはここを管理したり掃除したりしているのさ。見学したいなら明日の朝にでも来ればいいよ。それにしても年寄りを連れて日本から来たのかい? そうかいそうかい、お母さんは天津に住んでいたのか、ふーんオレたちの生まれる前の話だね、天津もいろいろと変わったよ、もう帰るのかい? じゃあまた機会があれば来なさい、歓迎するよ」

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四日目の朝餐、バイキング形式のレストランでパンと珈琲。早くも中華料理に飽きてきた(笑)。ホテルのすぐそばの公園で京劇の演奏が聞こえてくるので行ってみると、四阿(あずまや)に老人たちが集まり名調子を披露している。二胡、琵琶、鳴りものの演奏に乗せて日に焼けた爺さんが朗々と京劇のセリフをうなっている。海河に架かる金鋼橋を渡って古文化街というテーマパークに至る。ここは清朝時代の街並を復元したショッピングモール。ぶらぶらし乍ら母の買い物につきあいタクシーで少し離れた鼓楼のそばにある広東会館へ行く。ここは100年ほどまえ広東地方の富豪によって建てられた建物。典型的な四合院様式で当時の雰囲気をよく保存していて見応えがある。この中心にひときわ目立つのが天津戯劇博物館。ここは京劇を上演するための戯楼で、広い内部には戯台(ステージ)が配置されている。天井はとても高く二階席の窓から射し込む光がいい雰囲気だ。精巧かつ繊細な彫刻が施されて圧巻、100年前の雰囲気が実によく保存されている。京劇の名優梅蘭芳(Mei, Lan Fang)もこの舞台に立ったことがあるそうだ。
鼓楼附近にはこれもまた古文化街と同じ清朝時代のショッピングモールがある。ついでだからとぶらぶら散策していたら、ある露店の隅に面白いものがあった。毛沢東バッジである。中国ではお土産として毛沢東バッジのレプリカがあちこちで売られているのだが、これらはどうもホンモノらしい。露店のオヤジ曰く「これはみんなホンモノさ。手放す人がいるんだよ。まあ、いまさらこんなもの後生大事に持っていたってしょうがないからな。あんた、コレクターかい? それならこれなんかどうだ。大きくてかっこいいぜ、一個10元でお買得だよ。これかい? ああこれは革命バッジだよ。これは小さいから5元。観光地で売られているのはみんなレプリカだけど、これはホンモノなんだ」ここだって観光地じゃねえか、とツッコミを入れたくなる(笑)。まあ中国のことだから精巧なレプリカかもしれないが、それにしても10個が1パックで売られているお土産品とは異なるいい雰囲気のブツなので購入。
ちょうどお昼どきに差しかかったのでタクシーを拾って天津伊勢丹百貨店に向かう。あちこちで建設中の高層ビルを見かけるので尋ねてみると、魁三太郎似の運ちゃんは「そうだよ、なにしろオリンピックが来るからね、いま天津じゃあちこちでその準備中だよ。ホテルも作らなくちゃいけないし、最近は地下鉄が開通したんだ。そうなんだよ、ここ数年は景気がいいからね、古い建物は壊して再開発の真っ最中だよ。伊勢丹は高過ぎてオレらは滅多にいかないね。それでも景気のいい連中や外国人で混雑しているよ」南京路に面した天津伊勢丹は高級ブランド品を買う富裕層たちでごったがえしている。日本とは違って地下食品売場というものはなく、中二階が食品売場とレストランになっていて面白い。日式焼鰻魚飯(鰻丼)を食べてみるがけっこういける。とはいえタレがちょっと勘違いしている気がするが、まあこれもご愛嬌、何しろ私たちがふだんスーパーで買っている蒲焼だって中国産なのだ。
母は午前中にあちこち歩き回って午後はホテルで休息するというパターンなので、今日もいったんホテルに戻ってから私は独りで街を散策することにした。日本で探し出した戦前の天津市内地図のコピーを片手に、母が通っていた国民小学校や居住地域を下見に行く。昨夜、庶民で賑わっていた露地のどん詰まりに中山公園がある。ここを抜けて反対側に出ると市場に出くわす。地図に寄ればどうもこの界隈に日本人が数多く住んでいた旧住宅が残っているらしい。外国人など滅多に来ないであろう市場はごみごみして汚くて臭い。しかしちっとも嫌な気がしない。ああ中国だなあ、と思う。色とりどりの野菜、卵、魚介類、量り売りの肉屋では豚の半身がいくつもぶら下がっている。あたりをつけて一本の露地に入り込むと、いかにも古い建物群が現われた。煉瓦造りの長屋形式の家々が連なっている。かなりの風雪に耐えてきたような古びた建物をよく見ると、たしかに戦前ふうの一種モダンな意匠があちこちに施されている。たぶんこれらが旧日本人住宅街なんだろう。いまでは庶民が暮していて生活の匂いが充満している。家の前の共同露地に日に焼けた婆さんがぼんやりと座っている。家の中から孫らしき幼児が駆け出してきて、婆さんは「危ないから気をつけなさい」と一声かけて目を細めている。中国人を日本人に置き換えればそのまま戦前の光景になるのだろう。
かつて国民小学校があったとおぼしきあたりには立派な中学校が建てられていた。たぶん戦前に日本が造った国民小学校を戦後はそのまま中国が学校として使用し、そのうち老朽化が進んだので建て直したのだろう。さきほどの旧日本人住宅街からすぐ近くに位置しているのだが、母の記憶によれば「駅を背にして長い通りをまっすぐ歩いて通学していた」というので、どうも母が住んでいたのはさきほどの住宅街ではないらしい。まあきっとあちこちに日本人の住宅があったのだろう。そしてこの場合の駅というのは、私たちが到着した天津駅ではなくそのひとつ先にある天津北駅に間違いない。なぜならこの中学校の脇にある通りを1キロほどまっすぐ歩くと天津北駅に至るからである。さらに母は「駅の近くに大きな公園があって、ある年の冬、日本からアイススケートの選手が来て、氷結した池でスケートのショーがあったのを見物した」というが、天津北駅から歩いて数分のところにいまでも池のある公園がある。母はたぶん駅の裏あたりの何処かに住んでいたと思われる。
だいたい見当がついたのでこんどは当てもなく歩き出す。ギラギラと陽が照りつけてうだるような暑さ。汗がじわじさと吹き出してきた。適当に歩いていると目の前に大きなスーパーマーケットが現われた。ひと休みしようと中に入ってみたら、ここは日本でもお馴染みの郊外型の大型量販店。そうかあ、ついに中国でもこういう店ができたのか。二階にあがると広大なフロアに食料品が陳列されていて、買い物のカートを押す家族連れで賑わっている。街の小売部(商店)でミネラルウォーターを一本買うとだいたい2元だが、ここでは特売で1.3元で売られている。まとめ買いするとお得なので思わず買ってしまいそうになるが、よく考えると私はただの旅行者なのであった。3階にあがるとここは衣料品や生活用品の売場。ダイエーやイトーヨーカドーの衣料品売場とおんなじだあ。
夜、母を連れて天津市内の繁華街、濱江道購物広場へ出かける。広場といっても南京路と和平路を結んで延々と続く大繁華街のこと。ホテル附近の静かな光景とはぜんぜん違うネオンギラギラ、近代的デパートや洋服店、食堂、ファストフードが立ち並び、雑貨屋が密集しているあたりは吉祥寺を思わせる雰囲気。天津に来たら狗不理包子(Gou bu li bao zi)を食べねばならぬ。狗不理は中国でも有名な包子の名店、天津といえば包子、包子といえば狗不理なのである。18年前に訪れたときはむかし乍らの古い店内で、蒸籠から湯気を立てていた包子を貪り食ったことを思い出す。しかしいまではかなり儲けて手広く店鋪展開をしているらしく、フリの客は殺風景なファストフード的なフロアに通されるようだ。二階には雰囲気のある綺麗なフロアがあるらしいが、そこに通されるのは団体客、観光客なのであろう。まあ贅沢はいわずに名物の包子セットを買って食べる。殺風景ではあったが18年ぶりの狗不理包子はやっぱり美味しかった。
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三日目の午前中は天壇(tian tan)に行く。幼い頃に天津から天壇へ来たことがあるという母は、印象的な建築をうっすらと記憶しているらしい。ホテルの前で乗ったタクシーの運ちゃんが「いま、天壇の祈年殿は改修中だから頤和園(yi he yuan)はどうだい?」と言ってくる。まあそれもいいとは思うが、何しろ午後には天津行きの列車に乗らなければならないので、そんなに遠くまで行ってはいられない。ぼんやりと車窓から外を眺めていたら、車が天壇とは反対方向に向かっていることに気づいて運ちゃんに尋ねる。「頤和園には行かないんだったね、いや悪い悪い、ちかごろ歳のせいかうっかりしててさ、女房にも怒られるんだよ(苦笑)」おかげで北京城をほぼ一周するということになったが、それはそれで北京市内の発展変貌ぶりをつぶさに眺めることができて面白かった。天壇で降りてあたりを散策する。それにしても肝心の祈年殿が改修中、昨日の故宮博物院の太和殿といい、北京オリンピックに対する北京の入れ込みようがしのばれるというものだ。
ホテルに戻ってチェックアウトしA嬢にお礼を言って北京駅に向かう。恒基中心のなかの飲茶楼で午餐。宮保鶏丁(鶏肉とピーナツの辣椒炒め)が猛烈に辛くて美味しかった。午後の列車で天津に向かう。18年ぶりに北京駅に入場。どういうわけだか全員が荷物をX線でチェックされる。空港並みだネ。
駅前広場や駅構内には、中国全土から出稼ぎに来た労働者や出張のビジネスマン、若いカップルから老人子ども親子連れでごったがえしている。この光景は変わらないなあ。改札前でまたしても長い行列。なんでホームに行けないのだ、という母の問いに、出発の直前にならないと改札はしない、それが中国というものだ、と説明。
北京と天津間をわずか1時間ほどで走る特急列車「神州号」は二階建て、思いのほか綺麗で快適。私はくたびれてほとんど寝ていたが、母は車窓から見える高梁畑が懐かしくてずっと観ていたそうだ。
北京を出発して1時間ほどで天津駅到着。北京駅とは違って古くさく薄暗く、それでいてなかなか広くて風格のある駅舎。流しのタクシーを拾って天津暇日飯店(TIANJIN HOLIDAY INN)に向かう。ほどよく老けた運ちゃんは、私が日本人だとわかるとしきりに十八街麻花(shi ba jie ma hua)を買わないのかと聞いてくる。麻花というのは小麦粉を練って油で揚げたお菓子で、特に天津の十八街麻花は老舗中の老舗でたいへん有名なのである。「十八街麻花はよオ、あっちこっちにニセものがあッからね、河西区にあるのが総店(本店)だヨ、そこなら間違いない、正真正銘ホンモノの十八街麻花だア」
天津話は基本的に標準語に近いのだがちょっとクセがある。たとえば「公園」という単語の発音は標準語では gong1 yuan2 (数字は声調:音の高低を表わす)なのだが、天津訛りだと gong3 yuan2 に転調するようで、ついには私まで訛ってしまい、おかげでコミュニケーションがスムーズにいった、ような気がした。まあ北京には北京話(これがまた強烈な巻舌でさっぱりわからない)があるし、上海話や広東話は同じ中国人どうしでも理解不能だし、訛りなんて何処にでもある。北京から遠くない天津の訛りなんて東京弁と茨城弁くらいの違いしかない(と思う)。学生時代、中国語の教師に「みなさんがいま勉強している標準語を喋っている中国人には、中国ではまずお目にはかかれません(笑)」と言われたことを思い出した。
タクシーは天津駅前広場から、市内を流れて渤海に至る海河(hai he)に沿って走り、金鋼橋という大きな橋を渡ってホテルに到着。母は海河のことも憶えているようでここでも懐かしげに眺めていた。チェックインを済ませ荷物を放り出して晩餐。めんどうくさいのでホテルのレストランで済ませ、夜の市街を散策に出かける。
ここらへんは中心地からはずれたところなので、庶民の暮しの風景がそこかしこにある。店も外国人が行くようなところではなく鋪道もでこぼこ。人が集まってがやがやしているので行ってみると、屋外映画上映会の準備をしているのだった。煙草をくわえたオジサンがビルの壁を即席のスクリーンにして映写機の点検をしている。周りでは老若男女が集まって楽しそうに談笑し、ガキどもはあちこちを走り回っている。夏の夜の屋外映画上映会かあ、椎名誠の世界だな。
ひときわ明るい路地があったので足を踏み入れてみる。50メートルほどの路地の両側に食堂がずらりと並んでおり、路地にテーブルと椅子を出してたくさんの庶民がわいわいがやがや、テーブルにはビール瓶が林立し、餃子、包子、麺条、各種名菜、注文を受けた店員が忙しく立ち回りまことに賑やか。夏の夜に夕涼みがてらここに集まってくるのだろう。回族食堂の前では、串焼きの羊肉を炙る煙りがもうもうと立ち込め、なんとも美味しそうなのである。今回は食べなかったが、実際これは美味しい。いわゆる中近東名物シシカバブだ。中国国内には回族(hui zu)と呼ばれるイスラム教徒が860万人ほど住んでいる。回族はイスラム教(清真教:qing zhen jiao)を信奉するひとびとの総称なので、いわゆる民族的分類にはあてはまらない。長い歴史のなかで民族融合をおこなわれてきたため、見るからにペルシャ系の顔をした回族もいれば、どう見てもふつうのアジア人の顔をした回族もいる。
かれらは宗教的理由で豚肉を食べない。したがって中国全土に居住している回族のためにあちこちの街には回族食堂が点在している。一目で見分けられるように、回族食堂は青い装飾が施されており、たいがい「清真食堂」とか「回民食堂」という看板がある。気温が氷点下に下がる北方の冬、道端で焼いている串焼き肉をハフハフ食べるのはまことにこたえられない。いつかまた冬に来てハフハフしたいものだ。
路地の終点から引き返しホテルに戻る途中、屋外映画上映会の場所を通りかかると、ビルの壁にサスペンスドラマが上映されていた。かっこいい警官役の俳優が神妙な顔つきで事件解決にあたり、楽しそうにそれを観ている庶民たち。なんだかいい光景だった。
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二日目の朝はホテルのラウンジで朝餐。寝起きでぼんやりとし乍らバイキング形式の朝食を摂る。パンと珈琲を啜っているうちに母がお粥があったわよ、と言う。北京の朝餐がパンと珈琲なんてマヌケなもんだ。明日はお粥にしよう。地下鉄に乗って母が行きたいと言っていた故宮博物館へ向かう。
初めて中国の地下鉄に乗る母が興味津々で構内を眺めているうちに地下鉄登場。相変わらず古くさい車輌だ。北京の地下鉄は相変わらず切符売場で直接買う形式。母は自動券売機はないのか、と言うがなかなかそういうものは普及しないようだ。まあここは中国だからいちいち驚いてはいられない。
まずは王府井大街(wang fu jing da jie)で下車。北京の銀座通り、王府井もすっかり近代的に変貌していて驚いた。私の記憶にある王府井は人民服と自転車の洪水、古い街並と商店が立ち並んでいる通り。“現在の日本の銀座”みたいな雰囲気に変貌した風景を見て暫し感慨に耽る。
長安街を歩いて天安門広場に出る。ニュース映像などでお馴染みのあの天安門広場である。1949年10月、毛沢東がコテコテの湖南省訛りで中華人民共和国建国を宣言したあの天安門がどーん、と聳え立っている。1989年6月4日、中国全土を揺るがせた民主化運動、若者たちで埋め尽くされた広場、市民と人民解放軍が衝突して多くの血が流された場所だ。ひさしぶりに天安門を眺める。巨大な毛沢東の肖像画が広場を見つめている。あのときは日本のアパートでテレビを観乍ら呆然としていたことを思い出した。天安門をくぐって端門をくぐっていよいよここから故宮博物院。ここからは切符を買って入るのである。動かないでここで待っているように、と母に言い渡して切符売場の行列に並ぶ。ああ、ひさびさの排隊(pai dui)だ。なんだかちょっと嬉しい。
中国で切符を買うためにはとにかく並ぶ(排隊)のである。かつて私は哈爾濱(ハルビン)駅で切符を買うために3時間並んだことがある。人民元を握りしめた人びとは切符売場の服務員と怒鳴り合い、後ろからはヤジが飛び、行列は遅々として進まず、私は持参した饅頭(man tou)を頬張り乍ら人の波に揉まれていた。あと数人で私の番というところで服務員はカウンターに札を立てて高らかに宣言する。「今日の汽車の切符は売り切れ!」
目の前で切符を買い損ねた男は激高してカウンターに飛び上がり、間仕切りを叩いて「ふざけるな! 朝から並んでいるんだ、売り切れとはどういうことだ!」と怒鳴る。たちまち周囲から、オレだって朝から並んでいるんだ、売り切れだあ? 嘘つけ、まだあるんだろう? ●●●●! どこに切符をまわすつもりだ! この●●●め! そんなもん役人にまわすに決まってるだろ、●●●! 金持ちにゃ勝てない、しょうがないよ、看板には「為人民服務(人民のために働く)」って書いてあるじゃないか、あの女を引きずり出せ!、てめえの●●を●●するぞ! 罵詈雑言と嘆息と怒号飛び交う駅構内の喧噪はいつ果てるともなく続く。まったくもって懐かしい想い出である。あの頃は気力も体力も時間もたっぷりとあったんだなあ。
ここではわずか20分ほど並んだだけで切符が買えた。さすがにここで3時間並ぶ気力も体力も今はない。午門から太和門をくぐると目の前に聳え立つのが太和殿。映画『ラストエンペラー』でもお馴染みの、あの巨大な宮殿だ。残念乍ら現在修復中であの壮大な姿は拝めないが、その巨大さはじゅうぶんに窺うことができる。保和殿、乾清門、乾清宮、坤寧宮、、、さすが中国、無駄に広い。なにしろ72万平米もあるのだ。隅から隅まで堪能しようと思ったら数日かかると言われるくらいである。母がもうこれでじゅうぶんだと言うので、また最初に戻るために歩き出す。裏の神武門から出てもいいのだが、そうなるとこんどは故宮をぐるりと半周することになるので、めんどうだが天安門まで後戻り。天安門広場を横切って前門に向かう。また天安門広場ってのがこれまた無駄に広い。
北京駅前の恒基中心という近代的なショッピングモールのファストフード店で午餐