牛肉麺

臺灣でよく食べるのが牛肉麺(ニゥロゥミェン)。手軽で美味しいし食堂でも屋台でも食べられる。
Dsc07531


基本的要素であるところの麺、スープ、牛肉それぞれがちゃんとしていればいいのだが、面白いのはそれぞれがちゃんとしていても、組み合わせの妙で微妙に変わることがある。スープと牛肉は美味しいのだが麺がいまいちボソボソで…とかコシのあるいい麺なのにスープがねえ…とか。

これは宜蘭の街で食べた。麺、スープ、牛肉がみごとなハーモニーを響かせる名品。付け合わせの辣椒醤と生ニンニクが嬉しい。
Dsc07146

Dsc07145


続いて蘇澳の街で食べた牛肉麺。ちょっと薄味のスープと上品な味の牛肉片が良かった。
Dsc07076


最後は臺北の裏町で食べた四川牛肉麺。見た目のとおりスープが真っ赤。ひどく辛いのだがちゃんと美味しいところがまた凄い。臺灣の裏町で汗かきかき食べる牛肉麺は美味しい。
Dsc07533


おまけは臺灣名物・臭豆腐(チョウトウフ)…この臭いは好きな人にはたまらない。油で揚げると臭いは軽減されるが馴れると美味しい臭豆腐。
Dsc07544

| | コメント (0) | トラックバック (0)

温泉は世界だ

ふと思い立って列車に乗って蘇澳から礁渓に行ってみた。礁渓は温泉街として有名でご覧の通り温泉旅館だらけの街。
Dsc06923


温泉といえば日本、ということなのか日本の地名を冠した旅館が目立つ。まずは福岡
Dsc06946


長崎
Dsc06936


山口
Dsc06943


東京
Dsc06938


イタリア 
Dsc06939


トロント
Dsc06947


銀座…これは食堂。後に見えるはラブホテルらしい。
Dsc06944


福岡がやたらと目立つのだがこれはチェーン店らしい。躍進する福岡グループ。
Dsc06948


私はとりあえず足湯に浸かって礁渓を後にしました。
Dsc06953

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サヨンの鐘

蘇澳から一駅の蘇澳新で降りて北廻線に乗り換える。蘇澳新はかつては南聖湖という駅だったそうだ。北廻線は主に自強號、莒光號、太魯閣號など特急列車が頻繁に往来するが區間車(普通列車)はあまり運行しない。
Dsc06787


複雑な地形のため海沿いや断崖絶壁、トンネルと車窓もバラエティに富んでいる。二年前には絶滅寸前の普快車に乗って花蓮まで行ったが、普快車の旧型オンボロ車輛での旅は今でも忘れがたい思い出である。
Dsc01920
(2007年夏に乗った普快車の車内)


もちろん北迴線での普快車運行は消滅しており今回はお馴染みのEMU500區間車での旅。蘇澳新を発車して永楽ー東澳ー南澳を過ぎて無人駅の武塔で下車。ここに何があるのか全然知らないのだが地図を見て武塔から南澳まで散策するのもいいかな、と思っていたのである。
Dsc06803


さて武塔であるがここは無人駅であるどころか駅舎すら無い。断崖絶壁の下にあるホームから外に出ると夏草そよぐ殺風景な所だった。一緒に下車した都会から来たらしい若者の一団がいたがキャンプにでも来たのだろうか。
Dsc06806

Dsc06809


あてもなくうろうろと歩いているうちに北迴線の高架の先にある小さな集落にたどり着いた。歩いているうちに堤防らしき所の上にある小さな石碑が目に留まった。碑文には「愛国乙女○○遭難之碑」とあるが、うーん、何だろうこれ? なんで○○の部分が削り取られているのだろう? 
Dsc06819


夏の暑さにぼおっとし乍らまた歩き出す。武塔の駅に戻り更に南澳方面に進むと『莎韻紀念公園』という小さな公園があった。
Dsc06827

Dsc06828


「莎韻之鐘」??? ああ、これは『サヨンの鐘』だ! そうかあ、するとさっきの石碑は「愛国乙女莎韻(サヨン)遭難之碑」だったのか! 
Dsc06830


昭和13(1938)年、南澳の辺りに駐在していた日本人の巡査に召集令状が届いた。彼はふだんから現地の人たち(当時は高砂族と呼ばれた臺灣原住民)の面倒をよく見ていたため村人から慕われていたそうである。彼が村を出るときに見送りに同行した青年たちのなかにサヨンという少女がいた。ところが悪天候の中、サヨンは足を滑らせて激流に転落し命を落としてしまう。この事件が愛国美談として伝わりサヨンを讃える石碑が建てられた。
Dsc06832


さらにこの美談は『サヨンの鐘』という流行歌(詞:西条八十/曲:古賀政男/歌:渡辺はま子)になり李香蘭主演で映画化(1943年)もされた。戦後、国民党支配下にあってこの石碑も「植民地時代の象徴」として碑銘を削られ川底に捨てられてしまったのだが、近年の民主化とともに石碑も川底から引き揚げられ元に戻されたのだという。そうかあ、それで○○の部分が削られていたのだな。

『サヨンの鐘』の故事は知っていたがまさかここに石碑や公園があるとは知らなかった。適当に降り立った駅からこういうドラマにたどり着くとゾクゾクするなあ。こんなところにも臺灣と日本を巡る近代史が脈々と生きているのである。
Dsc06840

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺灣風ミントアイス

蘇澳の朝は暑い。ひええ、朝からこんなに暑いのか。それはそうと今日は蘇澳の街から南方澳へ行くのだ。地図を見てもらえばわかるが宜蘭線の終点である蘇澳の街は海からやや引っ込んだところにある。

蘇澳からタクシーで10分くらい走ると南方澳という港に着く。ここは遠洋漁業の重要な基地であり航海の神様である媽祖を祀った南天宮がある。水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を食べさせる食堂が林立していて観光客で賑わっている。もちろん魚介類を安く買って帰ることもできる。
Dsc06688


蘇澳の駅でヒマそうなタクシーのオッチャンに声をかけて南方澳まで行く。「あんた日本人か、そうかそうか、蘇澳は暑いって? そうなんだよ、今年は特別暑いんだ(笑)颱風は来なかったから被害はないよ、それにしてもあっち(高雄縣)の被害はひどいもんだね、怖い怖い」明るくてよく喋るオッチャンだった。
Dsc06686


まずは南天宮にお参りをしてから港をぶらぶらと歩く。外海から深く陸地に切り込んでいる南方澳は素人目でみても優れた港だ。これじゃあ海が荒れても港は安全、だと思う。
Dsc06708


魚河岸を歩くと水揚げされたばかりの魚がたくさん転がっている。どれもこれもカチンコチンに凍っているから遠洋漁業の船なんだろうなあ。獲物はマグロなのかなあ。私はさかなくんじゃないからよくわかりません。
Dsc06695

Dsc06697


食堂の前には水槽の中に放り込まれた蟹や海老がのたくっている。これから観光客の胃袋に収まる運命なのだ。
Dsc06701_2

Dsc06702_2


暫くブラブラしてから花生氷淇淋を買ってみた。溶かした砂糖にピーナッツをまぜてカチンカチンに固めた「大きなピーナッツの板」(?)をカンナで削る。春巻の皮にバニラアイスの塊をひとつ、ふたつ乗せて、例の鉛筆の削りカスみたいなやつをバラリ、と乗せて、更に更に香菜(パクチー)を乗せて(!)くるくると巻いて出来上がり。冷たいバニラアイスの甘みとピーナッツと香菜の香りが口の中でえも言われぬ味わいを…おお、これは美味しい。

まあアイスクリームにミントの葉を添えるくらいだからこういうのもアリか…しかし香菜嫌いにはたまらないアイスだろうなあ(苦笑)
Dsc06706_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

蘇澳冷泉

宿のすぐそばに蘇澳冷泉公園というのがあり、ここには冷泉を利用したプールと個室浴場がある。プールに入る気はないので迷わず個室浴場の券を買って入場。臺灣にはたくさんの温泉があるのだが日本と違って基本的に水着着用(例外有り)である。見ず知らずの他人と全裸で湯に浸かるなどという習慣はないのだそうだ。ま、日本の銭湯文化は必ず外国から奇異の目で見られるというからねえ。
Dsc06672


ゲートから中に入ると大きなプールがあって家族連れなどがワイワイキャーキャーと楽しそうに遊んでいる。
Dsc06670


プールの脇を歩いていくと長屋みたいな個室浴場棟がある。券を見せると受け付けのオネエチャンが案内してくれた。
Dsc06661


個室浴場はおよそ十畳くらいの広さで大きな冷泉の浴槽がある。裸になってさあ入浴、その前に身体を洗って入浴することという注意書きが……公衆浴場の基本中の基本、痩せても枯れても日本人、冷泉どんとこい!……冷たい…うだるような暑さに火照った身体には20度くらいの水はとても冷たい。ご丁寧に手桶があるのだがこれで水を浴びる気にはならぬ。しかたがないのでタオルを濡らして全身を拭くのだがこれがまた冷たい! 
Dsc06657


なんとか身体を洗ってからそろそろと足を浴槽に浸ける……冷たい……我慢して足先から太ももまで冷泉に浸けて暫し冷たさに慣れるのを待つ。徐々に腰まで浸かり、胸まで浸かり……うひょー、冷たい! 足下からシュワシュワと気泡が湧いている。見る見るうちに身体に気泡がまとわりついてまるでサイダー風呂に入っているみたい(笑) 暫く浸かっていると不思議なことに身体の芯からジワジワと暖かくなってくる。額には汗が浮き出してくる。ふーん、やっぱり温泉なんだなあ……隣室からは団体で入っているらしい歓声が聞こえてくる。ああ、今私は臺灣の冷泉に独り浸かっているのだなあ。
Dsc06659


暫く冷泉を堪能してから外に出た。だいぶ夕日は傾いて夕暮れが蘇澳の街に訪れてきた。不思議な湯上がり気分でサッパリしたら小腹が減ってきた。ぶらぶらと散策して街道沿いの食堂で担仔麺と炒空芯菜を食べ宿に戻って寝てしまう。
Dsc06674

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺北から蘇澳へ

午前中にホテルをチェックアウトし區間車に乗って東海岸の蘇澳という港町へ向かった。高雄縣と臺東縣は颱風と土石流で滅茶苦茶になっているが東部地域は何も影響がないらしい。いつもの東部幹線で臺北を発ち愛しの基隆へ向かう支線と別れ八堵を過ぎ宜蘭線に入る。立っている乗客もいた列車も平渓線と別れる瑞芳の駅で多くの乗客が下車。みなここから九份に向かうのだろう。一気に空いた車内でぼんやりとしているうちに區間車は三貉嶺に停車。いつも乍ら断崖絶壁にへばり着いた駅だ。便當で有名な福隆を過ぎるトンネルを出ると海が見えて来る。海岸線ギリギリに走る石城~大里~大溪辺りで若い女の子たちが嬌声を挙げて写真を撮り始めた。
Dsc06608_2

Dsc06617


頭城から線路は緩やかにカーブして宜蘭平野に入って行く。温泉で有名な礁溪を過ぎると東部地区では最大の都市である宜蘭に停車する。今回は宜蘭にも行ってみなくてはならない。ここは一昨年、絶滅寸前の普快車に乗るために来たので駅しか行っていないのだ(苦笑)
Dsc06971


宜蘭から羅東を経て蘇澳新に到着。蘇澳新駅は宜蘭線と北廻線が分岐する。北廻線はこのまま南澳を経て花蓮に向かうのだが私が向かう蘇澳はここ蘇澳新から分かれた宜蘭線の終点になる。
Dsc06620


蘇澳は臺灣東部どころか臺灣でも有数の港湾を有しており昔から日本の船舶が盛んに往来していたということだ。かつては蘇澳駅構内には転車台があり列車はここで向きを変えて再び臺北方面に向けて発車していたという。しかし北廻線の花蓮以南への延伸に伴い分岐駅として蘇澳新駅が設置されたのだろう。蘇澳は宜蘭線の終点ではあるが自強号も花蓮、臺東行きが目立ち、どうしても支線扱いのイメージは否めない。そういえば蘇澳新ー蘇澳間は未乗車だったのだ。林口線に続いて宜蘭線も乗車完了ということになる。
Dsc06621


これで臺灣鐵道乗車計画は臺灣高速鐵道(新幹線)の臺北ー桃園間及び嘉義ー左營間、内灣線の新竹ー竹東間、阿里山森林鐵路奮起湖ー沼平間を残すのみとなった。臺灣高速鐵道はなんとかなるとして、内灣線は新竹ー竹東間の高速化工事が終わるまでは乗れないし、阿里山森林鐵路に至っては今回の集中豪雨で線路がメチャメチャになり修復がいつになるかわからないとのこと。よし、これからはMRT臺灣捷運乗りつぶしをすることにしよう(苦笑)

さて區間車は終点の蘇澳に静かに滑り込んだ。改札を抜けて駅前に立つと臺北よりもずっと陽射しが強烈で暑い。うう。さて朝方に屋台で朝粥を食べただけなので腹が減った。何か食べようと駅前の通りを歩いて福隆便當の店に入る。売り場の姐ちゃんに「ここで食べるか?」と聞かれたので「ああ、ここで食べるよ」と答えて店内のテーブルに座りぬるくなったペットボトルのお茶を飲む。豚肉の煮込みと煮玉子、炒めキャベツ、干豆腐が乗ったボリュームたっぷりの福隆便當は美味しいなあ。
Dsc06625_2

Dsc06628


駅前にある金華冷泉旅館にチェックインする。小さいけれど清潔そうな部屋である。老板は日本語を操る初老のオジサンだったので日本語で話をしているうちに、実は私の國語(中国語)くらいに適当な日本語ということがわかった(笑)國語の方が会話が成り立つことがわかったので以後は國語で通す。ここは駅前だしすぐ近くにセブンイレブンもファミリーマートもあるし蘇澳に滞在するならここがベストなのだろう。重い荷物を置いて身軽になって蘇澳の街を散策。そろそろ夕暮れだというのに相変わらず陽射しは強烈で暑い。
Dsc06629


蘇澳は冷泉で有名な街。冷泉というのは冷たい温泉のことで、温泉成分が含まれていれば水温が20度であろうと温泉であり、これを特に冷泉と呼ぶのだそうだ。しかも蘇澳の冷泉は炭酸泉(サイダーみたいに絶えず気泡が出ている)であり世界でも珍しいのだそうだ。さてこれから名物の冷泉に浸かりに行こう。
Dsc06647

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺鐵林口線に乗りに行く

ときどき小雨が交じる臺北。今日も油飯の屋台で遅い朝食を食べる。今日も美味しい。屋台のおっちゃんは(あれ、また来たの?)って笑顔で油飯を出してくれた。

臺灣捷運に乗って龍山寺まで行き寺廟にお参りする。龍山寺は臺北でも最も古い街のひとつで東京で言えば浅草みたいなところ。こんどは夜に来てみようかな。
Dsc06463


公園の一画で爺さんたちが何やら熱中している。縁台将棋でもやっているのかと思って眺めていたがそれにしては異様な熱気。しかもみな片手に金を握ってああでもないこうでもないと言っている。目つきの鋭いオヤジがときおり周囲を気にしている。おお、これは賭博だ、賭博。ふらふらと近づいて覗き込んでみたら、何やら字が描かれた丸い牌を積み上げて出た目で勝ち負けが決まる仕組みらしい。目が出る度に勝った爺さんはニヤリと笑い負けた爺さんはチッと舌打ち。やっぱり金を賭けなきゃ面白くないよね(笑)
Dsc06451


さて今日のメインイベントは臺鐵林口線に乗ることなので午後はテツ活動。臺北車站から區間車に乗ってまずは樹林で下車。特に理由は無いが樹林は大きな操車場があり東部幹線など樹林が起点・終点になる編成が多いので降りてみただけ。暫く構内で写真などを撮り次は山佳に行く。臺鐵でも有数の古い木造駅舎なのだが構内は大工事中。建設資材に囲まれてあの木造駅舎は健在だった。続いて陶器で有名な鶯歌に降りる。駅を出てぶらぶら歩いていたら雨が強くなってきたので川沿いの四阿で雨宿り。そしていよいよ桃園に到着。念願の臺鐵林口線に乗るのだ。
Dsc06484

Dsc06504

Dsc06506


林口線というのはもともと工業地帯を走る貨物線。臺鐵の桃園から終点の林口を結んでいるため桃林鐵路とも呼ばれている。沿線にもたくさん人が住んでいるため沿線住民から旅客運行の要望が高まり、2005年になって漸く旅客運行が開始された。現在は桃園から海湖までが旅客運行対象で海湖から終点の林口までは相変わらず貨物線だ。ところでこの林口線、朝夕の2往復しか運行されない。まだまだ貨物線としての需要がメインのためこれ以上の運行は今のところ難しいらしい。しかも林口線は2009年8月現在で無料で乗ることが出来る。つまり試験運行扱いなのでタダなのだ。別に無料だから嬉しいわけではないが(苦笑)朝は6:55、夕方は17:10桃園発の2往復しかないのでなかなか乗るのが大変なのである。
Dsc06533


臺鐵桃園車站を出て右側に歩くとすぐに桃林鐵路という看板がある。
Dsc06536


さらに歩いていくと駐車場に入り込む。
Dsc06538


線路沿いのさして広くもないこの駐車場のどん詰まりに目指す林口線乗り場があるのだ。小さなプラットホームに10人くらいの人がぼんやりと列車の到着を待っていた。みな沿線住民なのかな?
Dsc06544


私も写真など撮り乍らブラブラしていたらお馴染みの區間車DR1000がやって来た。2輛編成なのだが1輛はロングシート、1輛はボックスシートという編成が泣かせる。気が利いてます。
Dsc06556


まずはボックスシートに座って終点の海湖を目指す。ガッタン、と動き出したDR1000はゆっくりと住宅街を走る。線路のすぐ脇に露地や玄関や裏口があったりしてなんか都電荒川線みたいだなあ。列車はすぐに桃林高中(高校)に停車。ここから高校生がぞろぞろ乗り込んできた。うん、これは通学の足として便利だね。寳山、南祥、五福を経て長興に停車。実はついこないだまで旅客運行の終点はこの長興までだったのだが、2009年6月のダイヤ改正で更に海湖まで延伸されたのだ。
Dsc06573


長興の辺りから風景が工場地帯や野原と郊外らしくなってきた。しかも曇天から薄日が射す夕方なので荒涼とした風景に…桃園国際空港が近いので時折離発着するジャンボジェット機の姿も見える。海岸近くでは海も見える。
Dsc06577


私はただ終点まで行って折り返してくるだけの旅人なのだが、私と同じように「ただ純粋に乗りにきた」という臺灣人もたくさんいるようだ。もちろん途中で降りたり乗ってきたりする、つまり生活の足として利用している人々もたくさんいるのだが、やはり無料ということもあって一種の観光列車みたいな認識になっているのだろう。小さな子どもを連れた家族や孫の手を引いたお爺さんもいる。「お爺ちゃん、電車乗りたい!」「よしよし、お爺ちゃんと電車乗ろうな」などというわけなのだろう(笑)
Dsc06579


やがて列車は終点の海湖に到着。さてここからどうするのかと思っていたら列車は更に前方に向けて走り始め周囲に何も無い野原で停車した。そして運転手が最後尾の車輛に移る。おお、ここで折り返して桃園に戻るのだな。さてさてと立ち上がり先頭車輛から眺めると線路は更に続いている。この先に林口線終点の林口車站があるのだなあ。行ってみたいけど列車はここから先は行かないのであった。どうしても行きたければ此処で降りて歩くかタクシーで行くしかないけどそういうことはしません。
Dsc06578


復路はロングシート車輛に移って列車の振動に身を任せるうちに車窓はどんどん暗くなり街の灯りが瞬き始めた。
Dsc06591


沿線風景も住宅街から郊外へ、鉄橋を渡ったり工場地帯や人気の無い野原を通ったり、終点辺りでは海も見えればジャンボジェット機も飛んでいるから退屈しない。わざわざ乗りに来る価値ある片道40分ほどの小さな旅である。次は早朝に乗りに来よう(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雨の臺北

桃園国際空港から臺北市内へ。今回は最初に臺北市内に二泊するので國光客運の長距離バスで市内へ向かう。颱風の影響で雨が降っているがホテルに荷物を放り込んで市内を散策。小腹が空いたのでウロウロしていたら晴光市場という小さなアーケード街の中に油飯(おこわ)の屋台があった。早速ここで油飯と花枝羹(イカ団子スープ)を食べる。美味しい(笑)

Dsc06427

Dsc06426


臺北捷運(MRT:Mass Rapid Train)の民権西路車站(駅)から臺北車站へ向かい駅周辺を散策。広い臺北車站の二階部分は微風臺北車站食尚中心という巨大なフードコート。ここで臺灣の腕自慢料理人たちが店を出してその味を競っている一画があり辣牛肉麺を食べてみた。まあ味はそれなり…かな。

Dsc06435

Dsc06436


8時頃にホテルに戻りシャワーを浴びてテレビを観る。颱風「莫拉克(Morakot)」が臺灣南部に驚異的な集中豪雨をもたらし各地で水害や土石流災害が発生している。毎年の夏には颱風が何処かで水害をもたらしているのだが今回はかなり深刻だ。一日で1000㎜近い雨が降るとは…毎年街が水浸しになったり屋根に非難したりしている映像を観ているが、そのうち臺東の知本温泉が映し出された。金帥大飯店という6階建てのビルが河の中に倒れて行く映像が何度も流される。

Dsc06422


おや、ここは一昨年に朋友の車で通過したところじゃないか。それにしても河沿いに建っているとはいえ6階建てのホテルが土台から傾いて倒れ込んでいく様の凄さ。これはひどい。さらに高雄縣の山間の村がまるごと土砂に埋もれ村人600余人が生き埋めか?という衝撃的な報道が…今回は南東部には行かないのだがそれにしても臺東の朋友はだいじょうぶだろうか? 昨年南投縣に連れていってくれた朋友の実家はだいじょうぶなのだろうか? 

Dsc06421


映像は次々と濁流に流される建物を映し出す。南東部は颱風の度に豪雨で水害に遭う地域なのだけどねえ。案の定、政府や行政の対応の遅れを非難する声がテレビの画面から聞こえてくる。臺灣はチャンネル数が100以上あり、ニュースチャンネルだけでも30近くあるから報道合戦が凄い。だいたい同じような映像なのだがこれでもかとばかりに深刻な被害状況や民衆の怨嗟の声を報道する。

もともと政府への非難ということでは遠慮がないお国柄、こんなに被害が拡大しているのに政府は何をやってるんだ! 家族も家も失ってしまった、オレはコレからどうすりゃいいんだ! 父さん母さんが濁流に流されてしまったの…まだ見つからない、どうしよう! いやあこんなにひでえ洪水は初めてだよ、何しろあっという間に村が水浸しだからな…とかなんとか。政府への非難から悲痛な叫びからボヤキから、どのチャンネルからも倒れるホテルの映像や雨にずぶ濡れになった被災者の姿。こりゃ馬英九政権は大変だナ。

「莫拉克(Morakot)」というのはタイ語でエメラルドを意味する言葉だそうだが、いやはやなんとも罪なエメラルドである。

Dsc06469

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アジワン in 臺灣 2009

今年もやります臺灣のアジワン2009。
まずは恒例の昼寝犬、名付けて臺灣睡狗 (Sleeping dogs in Taiwan)…いつでも何処でも昼間は寝るのが臺灣流。
もうホント何処でも寝てます。死んでるのか?と思うくらい寝てます。
これが日本なら「あら大変!ワンちゃんが倒れてる!」と大騒ぎでしょうな(笑)

Dsc06518

Dsc06527

Dsc06718

Dsc06719

Dsc06721

Dsc06972

Dsc06973

Dsc06975

Dsc07075

Dsc07086

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月4日

早いものであの日から20年が経つ。
私は毎年あの日が来ると日本の何処かで黙祷する。
別に民主中国支持者でも熱烈なリベラリストでも無い。
ただ海を隔てあの日を共にした同世代の日本人として。
他の人よりちょっとだけ中国という国に深くかかわった日本人として。
今夜も公園の桜の樹の下で黙祷したのであった。

Dsc00836

| | コメント (2) | トラックバック (0)

藝術の秋

『アヴァンギャルド・チャイナ〈中国当代美術〉二十年』を観に国立新美術館へ行ってきた。

Dsc05107

朋友のブログで紹介されていたので興味が湧いたのだが、これがまたとっても面白くて内容の濃い展覧会だった。黃永砯(Huang Yongping)、張暁剛(Zhang Xiaogang)、方立鈞(Fang Lijun)、馬六明(Ma Liuming)、張洹(Zhang huan)、曹斐(Cao Fei)という現代藝術の先鋭たちの作品がまとめて展示されるのだから興味津々。

特に気に入ったのが張暁剛の大家庭シリーズ。古い家族写真をモチーフにした作品は、精気のない人物の表情から漂う不思議な追憶と不安感が観る者の心を捉える。ノスタルジアと時間軸の断絶が不思議な効果を生んでいる。

笑っているような歪んだ表情の男が何人も登場する方立鈞の作品も面白いし、トイレに座り込み無数の蠅にたかられたり(『12㎡』)、天井から吊るされて血液を抜き沸騰させたり(『65kg』)する過激なパフォーマー張洹の映像も興味深い。

余談だが『12㎡』はかの有名な中国の「ニーハオ・トイレ」内部が映像に記録されたという点でも面白い。撮影中に用足しに来た青年が戸惑っている様子には笑った。

養魚池に多くの人々が入って行く『為魚塘増高水位』では、魚がビョンビョン跳ねて「魚だ、魚が飛んできたぞ!」と叫ぶ声が、張り詰めた映像を一瞬ほのぼのさせる。

何度観ても飽きない曹斐のビデオアート『Hip Hop Guangzhou(広州)』は傑作だと思う。

1989年2月に行われた中国現代藝術展の写真が展示されていたが、これが私にとってはなんとも懐かしくてならない写真だった。といっても私がこの現場にいたわけではないのだが、これらの写真に記録された当時の中国人青年の風俗が、まさに“あの頃の中国”なのである。

細いジーパンにざっくり編みのセーター、野暮ったい長髪にセルロイドの黒ぶち眼鏡…寒い時期なので公安はあの重くて暖かい軍大衣(jundayi)を着ている…改革開放の波のなかで力強く泳ぎ始めた中国人たちがここにいる。そしてこのわずか4ヶ月後、天安門広場は血に染まった。

秋なのでアートしてみた午後でした。

Dsc05109

| | コメント (2) | トラックバック (0)

この素晴らしき世界

寥亦武著;劉燕子訳『中国低層訪談録 インタビューどん底の世界』(集広舎発行 中国書店発売)を読む。


開催前から何かと騒動続きの北京五輪もめでたく閉幕。開幕式のイベントは練りに練られた演出で世界を沸かせた。後になっていろいろとヤラセがあったことも発覚したが、まあ中国ならそんなこともやるだろうな、と思うのであまり不快な気にもならない。メインスタジアムの「鳥巣」に集まった世界の来賓・報道関係者・そして切符を入手できた幸運な中国人数万人が、この一大イベントをその目で観るという幸福を味わった。


でもテレビの前で観ていた世界中の観客のほうが、より五輪を楽しめたのではなかったか。その場にいるよりも外界から観たほうが、意外と的確に中国を観察できるのかもしれない。自由化が始まった1980年代からもう30年近く経ったのに、中国ってあんまり変わっていないのだ。


さて、ここ数年来の報道で知られるとおり、中国国内ではあちらこちらでさまざまな社会事件が頻発している。チベット暴動、新疆ウイグル自治区暴動、貴州での警察署焼き討ち事件など多くの市民暴動、四川大地震や長江氾濫などの自然災害、吉林省松花江有毒物質汚染などの規模の大きな環境破壊、毒入りギョウザ事件やメラミン混入粉ミルクなどの食品汚染問題、これはもう中国の伝統ともいえる官僚の汚職などなど、数え上げたら切りが無い。インターネット社会では中国語のウェブサイトを検索するだけで、それこそ毎日のようにさまざまな事件が起きていることがわかる。


ひとむかしのことを思えば中国に関する情報は比較にならないほど増えている。私が学生だった頃、中国情報を知るためには、人民日報と北京放送、友好的な一部の機関紙ぐらいしかなかったが、インターネット社会の急速な発展により個人レベルでの情報が容易に届くようになってきた。中国は世界有数のインターネット規制国家だが、それでも毎日さまざまな情報が発信され続けている。まさに「上有政策、下有対策(上に政策あれば下に対策あり)」


いまでは少なくなったのであろうが、ちょっと前までは中国人を理想化する日本人が多かった。曰く中国は四千年の歴史を有し、深山幽谷に分け入れば水墨画の世界が広がり、シルクロードには悠久の歴史がいまもなお息づいている。中国人民はみな質素だが誠実な人々で早朝の公園ではゆったりと太極拳を舞っている。中国の若者はみな純朴で優しく年長者を敬い、日本の若者が失ってしまったものがここにある。老人たちは決してあせらず悠然と一日を送り、まさに大人(たいじん)の気風あり・・・・いやマジメにこんなことを言う日本人がたくさんいたのだ。


日本の知識人も中国政府のお膳立てのなかで人民中国を礼賛し、欧米の知識人もまた然りだった。Anna Louise Strong の『 The Rise of the Chinese People's Communes 』(邦訳『人民公社は拡がり深まる』)』や、Arthur W. Galston の『 Daily Life In People's China 』(邦訳『大地に息づく「中国」~人民公社に生活して』)を現在の視点から冷笑するのはたやすいが、それでも当時の中国は「鉄のカーテン」ならぬ「赤い未知なる国」だったのだ。


私も最初はこんなイメージを持っていたのだが、実際中国に行ってみるといやはやどうして、心優しい純朴な中国人もそれはそれはたくさんいるけれど、日本人が裸足で逃げ出すほどに大雑把でがめつく、乱暴で狡猾で非情で腹黒い中国人もそれはそれはたくさんいる、ということがわかり、なんだかとても安心してしまった。そりゃそうでしょう。国民がみな誠実で優しくて・・・・などという社会のほうが胡散臭い。


本書は反動詩人・作家として知られる寥亦武が、一般的に知られることの少ない「中国社会からはみ出した人たち」に対して行なったインタビューの数々を記録した稀有な一冊。


浮浪児/出稼ぎ労働者/乞食/麻薬中毒者/同性愛者/三陪/人買い/トイレ番/死化粧師/老地主/老右派/老紅衛兵/法輪功修行者/地下カトリック教徒/破産した企業家/冤罪の農民・・・・ざっと目次から拾ってみるだけでも興味は尽きない。一読三驚天下之奇書也

| | コメント (1) | トラックバック (1)

国慶節に想う

李振盛『紅色新聞兵』(ファイドン)を読む
数年前、NHKで李振盛に関するドキュメント番組が放映されていたのを見た。李振盛は1940年に遼寧省の大連で生まれ、吉林省長春の長春電影学院で学んだ。その後1963年、黒龍江省の『哈爾濱日報』でカメラマンとして活躍、1966年に始まったプロレタリア文化大革命(以下、文革)を記録し続け、自らも権力闘争でその地位を追われる。やがて職場に復帰し1976年に文革が集結した。1980年代以降、北京でジャーナリズムを講じ、現在は研究と執筆に従事しているという。


彼がフォトジャーナリストとして活躍し始めてまもなく、中国全土を破壊と混乱に陥れた文革が勃発、黒龍江省でも市民レベルまでも権力闘争に明け暮れることとなる。中国共産党や毛沢東の指示に従わないものは反革命分子とされ徹底的に打倒された。毛沢東主義を盲信する若き紅衛兵たちは教師や学校を大混乱に陥れ、農民たちは地主や金貸しを打倒し、共産主義に反する宗教寺院…仏教やキリスト教はいざ知らず、西藏や内蒙古のラマ教寺院、哈爾濱のロシア正教会…は破壊された。この時期に失われた貴重な歴史的文化財はどれほどあるのかいまでもわかっていない。


反革命分子とされた人々は…いかに立派な、あるいは高い地位にいるものであろうと…三角帽子を被せられ、首からは罪状を書かれた札を下げさせられて、大群衆の前に引きずり出された。この罪人はいかに反革命的であるか、どれほどの罪を犯したのか…たいていはでっちあげなのだが…辱めを受けた。そして自己批判を強いられた挙げ句、翌日からその地位を失い…地位どころか命を失うものさえ数知れず、一説には1000万人とも2000万人とも言われる人民が虐殺された。高名な作家の老舎、革命の功労者だった劉少奇や賀龍すら、文革の犠牲になったのである。数多くの知識人が弾圧・虐殺された損失は計り知れず、文革のために中国の発展は大きな遅れを取った。


李振盛も文革の魔の手から逃れることはできなかった。社内の権力闘争により批判のやり玉に挙げられ、とうとう妻ともども幹部学校に下放されることになったのである。幹部学校というのは「思想的に誤った者たち」を「正しい共産党員」に叩き直すための思想改造を目的とした施設。たいていは都市から遠く離れた辺境の地にあり、多くの知識青年たちがここに送られ辛酸をなめた。「下放」とは都市の知識青年(エリート)が農村に送られることをいう。知識青年が農村で肉体労働をしながら思想改造をし、社会主義国家建設の礎とならねばならない、という毛沢東の指導によるもの。本来なら大学や研究機関で高等教育を受けるはずだった知識青年たちは下放のために教育の機会を失い、文革終結後、改めて大学に入り直すという紆余曲折をたどることになる。


李振盛は文革のさまざまな現場を撮影していた。農村で地主を打倒する婦人、うなだれる老地主、反革命分子として頭から墨を浴びせかけられ、頭を丸坊主にされる市長、破壊される寺院、仏教を否定させられる僧侶、処刑される罪人、熱狂する市民や紅衛兵……これら「狂気の時代」が冷徹に記録された数千本のフィルムは、李振盛が自宅に隠し持っていたものだ。発見されれば間違いなく処刑されたであろうが、李振盛はフォトジャーナリストとしてこれらのフィルムを自宅に隠して守り通したおかげで、私たちは今この希有な写真集に圧倒されるという幸運を得たのである。


少しでも中国に興味のある方は是非この本…巨大な『毛沢東語録』を連想させる…を手に取ってほしい。そして、最後まで目を背けることなく写真を見つめてほしい。わずか40年前の出来事であり、そしてこの「狂乱の時代」はいまでも中国の深い傷痕となっているのだ。


10月1日は中華人民共和国の建国を祝う国慶節。1949年の今日、天安門に立った毛沢東は湖南省訛りで高らかに中華人民共和国の建国を宣言した。それから20年も経たぬうちに、この建国の指導者が亡国の指導者に変貌しようとは、この日天安門広場を埋め尽くした大群衆のいったい誰が予測し得たであろうか…


| | コメント (0) | トラックバック (0)

不管白猫黒猫、捉到老鼠就是好猫

荷物はちゃんとトランクに入れた? よしそれじゃ出発しよう。ドア閉めるよ…あんた今日帰国するのかい? 新竹はどうだった? そうかい楽しかったかい。そりゃよかった、おれは新竹人だからね。臺灣は暑かっただろう、うん、7月から8月にかけては暑いんだが、もう9月になるからね、今日はだいぶ涼しいよ。え? 今日も33度あったって? ははは、それでもだいぶ過ごしやすいんだ。新竹から臺灣桃園国際空港まではタクシーだと1時間かからないからだいじょうぶだよ。高速道路もあるしさ。

Dsc05033

臺灣料理はどうだった? 口に合ったかな? そうかい、もう何度も臺灣に来ているのか、それじゃあだいじょうぶだね、それにあんた國語も喋れるし、何処だってだいじょうぶだろうさ。新竹米粉も美味しかったかい? あれは今じゃ最初から最後まで機械で製造するのが主流なんだが、おれたちが子どもの頃はみんな人の手で作ってたもんさ。米粉を作る製麺機があってそれで作った米粉は美味しいよ。まだあるのかって? うん、まだあるよ。今度来たら手作り米粉を食べてみな、美味しいよお(笑)

Dsc04669

東京も暑いんだってねえ、地球温暖化の影響だな、ここ数年臺灣もひどく暑いよ、まあむかしだって暑かったけどねえ(笑)、こんど来るんだったら春や秋に来るといいよ、気候がいいからねえ、でも冬は寒いよ。昼間だって10数度くらいにしかあがらない。東京はもっと寒いって? それじゃあだいじょうぶだね、おれたち臺灣人は寒くていられないかもな。おれは一度だけ東京に行ったことがあるよ。東京はいいところだね、物価は高いけどさ、それでも給料が高いんだろうからしょうがないさ。

Dsc04559

ところで質問があるんだが…日本のサラリーマンはどうしてみんなスーツを着ているんだい(笑)夏なんか暑いだろ? あれがどうも不思議なんだよ。臺北のビジネスマンならともかく臺灣じゃあまりスーツは着ないなあ。それも揃いも揃ってみんなスーツ姿…不思議だなあ……そうかい、あれが制服みたいなものなのかい、みなスーツを着るのが常識なんだね、へえ、さすが日本だ。

Dsc04474

新竹は臺北や臺中に比べて物価が高いのさ。なんでかわかんないんだけど野菜ひとつ買うにも他の街より高いんだ。うーん、なんでかよくわからないんだけどね(笑)それよりも臺灣はいま物価高騰で困ったものだよ、失業も多いしさ、政治が悪いんだよ政治が。陳水扁のニュース観ただろ? 政治家が金を稼いで裕福に暮らしているのにおれたちは毎日たいへんさね。息子の学費も稼がなくちゃならないし、毎日仕事仕事だよ、また東京に行きたいねえ、でも金無しヒマ無しだからいつになるやら(笑)

Dsc05016

おれは国民党が嫌いなんだよ、いまさら中国と仲良くしたっていいこたあないよ、でも臺灣は小さい島だからねえ、このままじゃどうなるかわからない不安もある。でも民進党だってたいしたことはない。陳水扁を見りゃわかるだろ?(笑)、国民党だろうが民進党だろうが、おれたちの暮らしがよくなるんだったらどっちだっていいんだよ、つまり俺たちの暮らしをよくしてくれる政権だったら、それが良い政権だってことさ。

Dsc04362

さあもうすぐ空港に到着するよ。時間はだいじょうぶかい? またいつでも臺灣に来てくれ。そして新竹に来たときはまたおれの車に乗ってよ(笑)ああ、気をつけてね、一路平安! 

Dsc05052

長々と書き連ねて来た臺灣旅行記、これにて幕でございます。
駄文乱文におつきあいいただきありがとうございました。謝謝大家!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

彰化扇形車庫

彰化の駅からちょっと歩くと『交通部臺灣鐵路管理局彰化機務段(機関区)』に着く。ここには臺灣屈指の扇形車庫があり見学することができる。今回は是非ここに行きたいと思っていたので迷うことなく行ってみた。受付で入場手続きをして中に入ると真ん中に転車台が位置した扇形車庫が…おおこれは凄い。

Dsc04295

Dsc04254


扇形車庫にはおなじみのオレンジ色のディーゼル機関車がたくさん停まっている。そのなかに真っ黒い蒸気機関車が2輛停車していた。ひとつはDT668、もうひとつはCK101で、特にCK101は1916年に製造された骨董品ともいうべき蒸気機関車。さらに見かけたことがない南アフリカ製の電気機関車E101がいた。

Dsc04273

Dsc04275


ふだんは子ども連れのお父さんお母さんが見学に来るらしく、いい歳をしたヘンな日本人が興奮して写真を撮っているのを見た機関区のおじさんがいろいろと解説してくれた。

「このCK101蒸気機関車とE101電気機関車はもう国宝級の車輛なんだよ。もうすでに臺灣にはここ彰化機務段に1輛ずつ残っているだけなのさ。この車庫も戦前に日本が建てたんだけどね、921地震のときにもほとんど損傷を受けなかったんだよ。日本の技術は凄いなあって思ったよ(笑)…そうそう今日はこれから機関車が発車するから見学していきなさい。今日は1回だけだからちょうどよかったね」

Dsc04297

Dsc04332


超レアな列車が2台並んで私の眼前にいる。来てよかった……しかもそれだけでなく今日1回だけの転車台操作を見学できるとは、どうしてこの運の良さがふだんの生活に活かされないものかとちょっと苦笑い。

Dsc04324

Dsc04308


ゆっくりと転車台が回転を始め、これから出庫するR69ディーゼル機関車のいるレールにぴたりと連結した。そしてエンジン音も高らかにR69はゆっくりと転車台に乗る。転車台がふたたびゆっくりと回転して本線へ向かうレールに連結し、運転手と整備士が臺灣語で何やら言葉を交わして、機関車は彰化駅へ向かって走り去るのであった。

Dsc04303

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺灣の水力発電所

二水から集集線に乗って終点の車程で降りると朋友の知り合いの某氏が出迎えてくれた。彼の車に乗って水力発電所(水力電厰)を見学に行く。受付で軽く手を振って挨拶を交わして車は何事もなく施設の中へ。そんなに簡単に見学できるのか。まあ小学生の社会科見学でもダムに行くしね。

Dsc04882


終点の車程からさらに山の中へ入っていくと観光地としても有名な日月潭がある。日本統治時代に水力発電所を建設するため、もともとあった湖に濁水渓から水を引き込み現在の大きさになった。いわば半人造湖である。この水力発電所が戦後に大觀発電所(大觀電厰)となって現在に至っている。更に日月潭の下流に明潭ダム(明潭水庫)というダム湖があって、ここにも大きな鉅工発電所(鉅工電厰)がある。大觀発電所は日月潭から流れ出る水を使って発電しており、さらにここから流れ出た水が下流の明潭水庫に注がれる。そして明潭水庫から流れ出た水を使って発電しているのが、水里にある鉅工発電所なのだ。なんとも効率の良い構造だ。

Dsc04899


まず私が向かったのが鉅工発電所。車を降りて大きな建物に入ると巨大な発電機がぐわんぐわんと動いていた。おお、これはすごい。某氏がいろいろと説明してくれるのを聞き乍ら、おおこれは凄いこれは面白いとあちこち見て回る。

Dsc04893

Dsc04898


こっちに来いというので階段を降りていくと巨大なタービンがグルングルンと凄い勢いで回転している。さきほど1階で動いていた発電機のタービン部分なのである。さらにこの下に轟々と水が流れていてこれが明潭水庫から流れ出ているのだ。もっさりとしてどことなく蛭子能収に似た雰囲気を醸し出す某氏は、ヘンな日本人が凄い凄いと喜んでいるのをニヤニヤ笑って眺めている。

Dsc04892


ああ面白かった、と喜んでいたらまた車に乗せられてさらに山奥に入っていく。またもや受付をフリーパスで通り抜けてトンネルに入っていく。と、トンネルが行き止まりになっているところで車を停めここで降りろという。ん?何だここは? 

Dsc04901


ここは大觀発電所、トンネルの奥にある大きな扉から中に入ると巨大な体育館くらいの空間があった。奥にはステージがあり壁には『濁水渓流域水力電厰分布圖』というパネルが…やはり社会科見学で使ったり見学者に説明したりする空間なのだろう。床の真ん中には発電機があってぐわんぐわんと動いていた。

Dsc04902


「ありがとうございます。いいものを見せてもらいました」と言ったら、某氏はにっこり微笑んでまたこっちに来いと階段を降りていく。また地下を見せてくれるのかと後をついて行くと、さきほどと同じように巨大なタービンがグルングルンと凄い勢いで回転している。タービンの他、計器盤だの制御装置だの複雑な機械があっちこっちにあって盛大に発電しているのだった。

Dsc04905

Dsc04909

Dsc04913


某氏はさらに階段を降りていく。地下1階、地下2階……とうとう地下5階まで連れて行かれた。「ここが一番深いところだよ。ほら見てご覧なさい」と言って指差す場所を見ると金網の下を凄い勢いで水が轟々と流れている。私はいまどれくらい地底にいるのだろう?

Dsc04907


「この大觀発電所は戦前に日本が建設したんだよ。戦後は臺灣の発電所になって臺灣全島の水力発電の半分以上をここでまかなっているんだ。921地震のときもこのへんは被害を受けたんだけどこの発電所はびくともしなかった。日本の建設技術はたいしたものだよ(笑)」

朋友も「ふつうはここまではなかなか見ることができないんだ、今日はよかったね」と言ってくれた。それはそうと某氏はどういう人なの?と尋ねてみたら、彼は発電所の偉い人、それも相当な地位にいる人だった。それじゃ受付フリーパスも当たり前、蛭子能収だなんて失礼しました(笑) わざわざ私ごときのために時間を割いていただき感謝感謝である。

Dsc04959

| | コメント (2) | トラックバック (0)

歌仔戯

歌仔戯(ゴアヒ)を観に行った。と言ってもあちこちを巡業している劇団なので、たまたまそこに行ったら上演されていたというわけだが。

朋友に連れられて夕食に行く途中でお寺に寄ったら、きらきら輝くステージでマイク片手に大熱演の野外公演に遭遇。暫くじっと眺めていたがこれがまたなんとも面白くて釘付けになってしまった。歌仔戯のセリフは臺灣語だから何を言っているのかさっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれども面白くて面白くてしかたがない。

Dsc04523


歌仔戯は臺灣語で語られる臺灣の歌劇で臺灣オペラとも言う。ちなみに中国には地方劇がたくさんある。有名な京劇は北京や上海で発展したもの、粤劇(広東省)、川劇(四川省)、昆劇(江蘇省)……書ききれません。

Dsc04527


京劇のような洗練や技術はないけれど、街角のあちこちで地元の爺さん婆さんが楽しそうに観劇し、最初は物珍しそうに観ていた子どもはそのうち飽きて走り回り、トラックの荷台に連結された移動ステージの前を二人乗りのスクーターが通り過ぎたり、このどさ回り感がたまらない。ステージの上の舞台と客席(つまり街角)の渾然一体となった雑然とした雰囲気がたまらないのである。

Dsc04530


しかし何言ってるんだかさっぱりわからないな。きっとこの姐ちゃんは悪代官に迫られていて嘆き悲しんでおり、やがて後半ではかっこいい男が現れて彼女を救ってめでたしめでたし…とまあ、そんなふうに言い切ってもあながち間違いではないのだろう。

Dsc04533


歌舞伎や人形浄瑠璃、京劇や宝塚歌劇…演劇が民衆を非日常の世界に連れていくということが少しわかったような気がした暑い暑い臺灣の夜。

Dsc04525

| | コメント (0) | トラックバック (0)

敵国って…

一日余裕があったのでわが愛しの基隆へ行ってきた。新竹から基隆行きの區間車に乗って車窓を眺め乍らのだらだら旅。旅の基本はだらだらである。桃園、山佳、鶯歌と過ぎて臺北に到着。さすがに人の乗降が多い。臺北を過ぎると區間車は地上に出て松山、南港と市街地をひた走り東部幹線との分岐点である八堵を過ぎる。ここまで来ると基隆はもうすぐだ。

Dsc04766


基隆市街の三坑を過ぎて區間車は静かに終点の基隆に到着。一年ぶりの基隆だ。この街並みこの雑踏港の風景、ああ基隆は良いなあ。そろそろお昼なので迷わず廟口へと向かう。夕方ともなるとこの一帯は名高い廟口夜市として賑わうのだが、さすがに昼間は夜の賑わいはない。それでもかなりの人混みだ。まずは奠濟宮に拝拝をしてから油飯(中華おこわ)と蟹の餡かけスープを汗を流し乍ら食べる。やっぱりこのコンビは最高! 

Dsc04768


今回も和平島海浜公園へ行くために市内バスに乗った。相変わらずのおんぼろバスは基隆市内を走り抜ける。やがて終点の和平島で降りて公園に入り海岸の遊歩道をぶらぶら。そういえば昨年はこの海岸で尼さんからお数珠を貰ったのだった。今日はお姿が見えなかったがお元気でいらっしゃるのだろうか。ぼんやりと海岸を散策してからバス停に戻ろうと歩き出す。

Dsc04773


さてバス停はこのへんだったかな…とチンタラ歩いていたら道路脇に立つ警察官に「○△※■&#$!」と怒鳴られてしまった。だから私は臺灣語はわからないんだってばあ…ただ道を歩いているだけだし、何かしましたか? 私は日本人の旅行者なんですがいったいなにごとでしょうか?と丁重に尋ねたら、警察官は(ありゃ、こいつは日本人か)てな顔をして「『#○%▼』!…そこのベンチに座っていなさい。3時で終わるから」臺灣語と國語のチャンポンでそう言った。

Dsc04769


詳しく尋ねようと思ったがピリピリとしてそんな悠長な雰囲気ではない。「#○%▼」? 何それ? 臺灣語なので何だかわからないが、日本でも中国でも臺灣でも公安や警察に逆らってはいけません。おとなしく座って時計を見たら午後2時50分。あと10分で何やら終わるらしい。そういえば道路には車が一台も走っていないし、道路には人っ子一人おらず、街はひっそりと静まり返っている。いったい何が起こっているのだろうか? 

Dsc04779


やがて時計が3時になると港の向こうから大きなサイレンの音が港に響き渡った。もちろん未体験だが一瞬「空襲警報?」という単語が頭をよぎる。そしてサイレンによって魔法が解けたように車は動き出し、人々も家の中から外へ出てきて街はいつもの賑わいを取り戻す。まるで夢を見ているようなひとときだった。

Dsc04771


「ええ?『#○%▼』? ははは、それは『萬安演習』(と國語で発音してくれる)だよ。え、何だって? 違うよ『晩安(おやすみなさい)』じゃないよ!(爆笑) 今日は『萬安演習』だったんだけど、そうか、知らなかったんだ? 『萬安演習』というのは国防演習のことで、一年に一度臺灣全島で行われるんだ。30分くらいなんだけど、その間は人は建物のなかにいなければならず外に出ることはできない。車は高速道路などを除いてすべて運転禁止。鐵道は走行中の場合はいいけど駅にいる旅客はすべてじっとしてなくちゃならないんだ」

「まあ臺灣はいつ敵国(笑)から攻めてこられるかわからないから(苦笑)…というかそういう意識を常に持っていなければならない、ということなんだ。ホテルに戻ったらニュースを見てごらん。『萬安演習』のニュースを報道するはずだよ。むかしは同日同時刻に全島一斉に行われたんだけど、最近は地域ごとで行われるようになった。まあ臺灣人のなかには肯定・否定といろいろと意見もあるんだよ」

その夜、新竹の街で朋友が食事をし乍ら話してくれた。
うーん、敵国ねえ…いったいどこなんだろう、敵国…(苦笑) 

ま、たしかに臺灣の駅舎やいろいろな施設には空襲の際の避難経路図が目立つところに掲示されているから、臺灣はまだ戦時下なんだなあと思ったことを憶えているが、偶然乍らこういうことを体験してみて、臺灣が置かれている政治的情況はなかなかに複雑なんだなあ、と改めて実感した一日だった。

(注)「萬安」と「晩安」は同じ發音(wan an)

Dsc04780

| | コメント (0) | トラックバック (0)

内灣線と集集線

臺灣鐵路には主要幹線の西部幹線と東部幹線のほかいくつかの支線がある。

平渓線(瑞芳~菁桐)
内灣線(新竹~内灣)
集集線(二水~車程)
林口線(桃園~長興)

このうち平渓線以外は未乗車なので今回の旅を機会に内灣線と集集線に乗った。

内灣線は西部幹線の新竹から分岐して山の中へ入っていき終点の内灣まで行く路線。しかし現在起点の新竹から途中の竹東までが工事中のため竹東から内灣の間を往復している。これは臺灣高速鐵道の開業や旅客列車運行の改善にともなう工事計画の一環。再開は2012年ということなので、もっと早く乗ればよかったなあ…まあそれはそうと新竹駅からバスに乗って竹東へ向かう。

竹東の駅舎は戦前の日本統治時代の雰囲気をよく残した名駅舎でとても楽しい。ホームに入るとすでにDR1000形気動車の1輛編成が発車を待っていた。運転席にはタブレットが置かれていてローカル線の雰囲気満点。近年は臺灣でも鐵道人気が高まっており、内灣線もかつては寂れたローカル線だったが、一種のレトロブームもあいまって週末ともなると若い人達がこぞって訪れるという。今日もたくさんの若者たちで1輛編成のDR1000形は満員御礼。

Dsc04580

Dsc04586


竹東を発車してからしばらく田園地帯を走り抜ける。車窓からは水田や畑や椰子の木が現れては消えてゆき、川を渡ったと思えば県道と並走したりしてなかなか面白い。やがて山間部に入り取ってつけたような富貴を過ぎてトンネルを抜けると終点の内灣に到着。辺りを山に囲まれた静かな街…だったのだろうが、今では駅前は食堂や土産物店が林立する賑やかな商店街に変貌している。

Dsc04596

Dsc04608

Dsc04610

Dsc04618


侯孝賢監督の映画『川の流れに草は青青』で都会から田舎の小学校に臨時教員としてやってきた青年が降り立つ駅がここ内灣だ。青年が下宿することになる古ぼけた映画館はそのまま残っており、今は映画館兼レストラン兼土産物店になっている。地図を見ると小学校もこの近くにあるはずだ。

Dsc04646


駅の反対側の崖の上に日本家屋が見えたので行ってみるとここはかつて日本統治時代の駐在所だったところ。なんといまでも現役の駐在所として警察官が詰めている。こんどは一日ゆっくりと市街地も散策してみたいところだ。

Dsc04637


彰化から嘉義へ向かう途中に二水という駅があり、ここから山のなかへ集集線が走っている。集集線の終点は車程という街でここからほど近いところにダム湖としても名高い日月潭がある。ここにはかつて日本統治時代に建設された巨大な発電所(發電厰)があり臺灣全島に電力を供給している。

二水駅でDR1000形気動車に乗り換えていざ出発。本線と別れて鄙びた風景の中を走るとこぢんまりとした源泉の駅に着く。すぐに発車してお次は濁水、龍泉と停まっていく。このあたりは1999年の台湾大地震(921地震)で大きな被害を受けたところ。これから向かう集集の駅舎も大きな被害を受けたという。こぎれいな濁水の駅舎も地震後に再建されたのだそうだ。いまだに土台から傾いたままの鉄塔があって吃驚したりする。だいじょうぶなのか? 

Dsc04827

Dsc04828


そしていよいよ集集に到着。集集線のハイライトはこの駅なのでほとんどの旅客はここで下車。地震で復元されたとはいえ日本統治時代の名建築名駅舎の白眉であろう。駅のそばに集集線のことを書いた石碑があり地震で倒壊したあとも地元の人々の要望や尽力でそのまま復元されたのだという。

Dsc04855

Dsc04847

Dsc04848


過去のことはどうあれ戦争を知らない日本人の私が素直に感じるのは、それほどこの駅舎は地元の人々に愛されていたのか、ということである。ありがたい話だ。それにしてもすばらしい駅舎である。一日中ここに居たいくらいだ。駅のそばにアメリカ製の古い蒸気機関車が展示されており、なぜか戦車も展示されている。

Dsc04869

Dsc04861


ふたたび集集から終点の車程へ行き暫く散策してから再び集集線に乗って水里で下車。水里の街を散策してからスコールの中を集集線は二水へ向かって走り出したのである。

Dsc04882

Dsc04953

Dsc04967

これにて内灣線(一部)と集集線乗車完了。残るは難攻不落の林口線(笑)だな。何しろ一日に二往復(早朝と夕方)しかないのだ。次回は必ず乗るつもりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

灼熱の臺灣に地獄を見た

臺灣中西部の街、彰化を訪れた。

市内には八卦山という山があり公園になっている。山の上には寺廟があって巨大な大仏がある。いちおう彰化の名所なので行ってみた。ちょうど中元節だったので朝から拝拝…お参り…の準備に大わらわ。境内は参詣の人々とお供物で埋め尽くされ盛大にお香が焚かれていた。

Dsc04990


巨大な大仏は中が空洞になっていて上まで登れるという。中に入ってみると象が柱を支えていた。

Dsc04984


大仏の上から眺めると広い境内いっぱいに赤い円卓がずらり。上に乗っているのはお供物。こういう構図が中華文明っぽい。

Dsc04989


八卦山を堪能してから山門を出て山を下る。ふと見ると脇道の坂の下に薄汚れた怪しげなお寺が…臺灣の街は寺廟だらけなので驚きはしないが、何かに引き寄せられるように私の足はその坂を下っていった。すると…

Dsc04995


もうこれは行かざるを得ない。いや行くべきである。なにしろ「全部電動」だ。

Dsc04996


八卦山の賑わいが夢幻のように思える寂しい境内、入り口のオバちゃんに50元払って中に入ると、期待を裏切らない、いやがうえにも期待が盛り上がる入り口が…

Dsc04998


さて十八地獄巡りの始まりだ。まずは真っ暗な回廊に足を踏み入れると、とつぜん足下の床がグラグラ揺れたり、暗闇から血みどろの人形が飛び出してきたり…お化け屋敷だよ(笑)

回廊を抜けると地獄のジオラマが並んでおり、人が通るとセンサーで感知して「全部電動」がその全貌を現す。機械音とともに人形たちが動き出し、見るだに恐ろしい、身の毛もよだつ地獄の光景が展開される。


腸を抜かれている
Dsc05000

首を裁断されている
Dsc05001

セイロで蒸されている
Dsc05002

頭を揚げられている
Dsc05004

舌を抜かれている
Dsc05005

お茶を注いでくれる天女(?)なのだが顔が怖い…
Dsc05007


ヘタクソなのでうまく撮れていないけれど、いやあこれは50元じゃあ安いくらいのワンダーランドだな、しかもユルユル。あまりにもユルいので暫し暑さを忘れてしまう。うーん、また行きたいスポットに出逢ってしまった。彰化に行くことがあったら絶対はずせない彰化南天宮である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺灣快樂!

日本の眼鏡ブランド『99.99』(フォーナインズ)が臺灣に!と思ったら…ヒトケタ足りないぞ(笑)
Dsc04060


ここは有名な嘉義車站阿里山森林鐵路キップ売り場です。
Dsc04078


阿里山森林鐵路の運行區間は「嘉義〜奮起湖~阿里山~沼平」です。阿里山森林鐵路は運行區間は基本的に「嘉義〜阿里山」なのです。

ところが春先の山崩れで奮起湖から先が一部不通になっていました。だから「嘉義〜奮起湖」間を折り返し運行しているわけです。

だから急遽、途中の奮起湖までしか行かないことになっても、車体にサボ(行き先表示板)が設置されていないので、思い切りチョークで書きなぐったというわけです。鐵道好きじゃないとわかりにくいか(苦笑)
Dsc04184


カタカナは間違いやすいよね。「ン」と「ソ」、「ツ」と「シ」をうまく書き分けられない日本人もいっぱいいます。わかるわかる…でも「ゴ」はないだろう「ゴ」は…
Dsc04349


カタカナは間違いやすいよね。「ン」と「リ」をうまく書き分けられない日本人もいっぱいいます。わかるわかる…でもなんか可愛いよね「パチリコ(笑)」
Dsc04519


蛙の屋台?と思いきや、これはタピオカの看板です。日本ならこういう表現はしない。たしかにカエルの卵塊に似てるけどさあ(苦笑)
Dsc04545

臺灣快樂(臺灣は楽しい)!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

頓知が効いてる

こんな看板につられて買ってみた…
Dsc04202


なるほど春巻だが…
Dsc04203


中には甘いソフトクリームが…
Dsc04204


奮起湖駅の近くで食べた春捲氷淇淋(春巻ソフトクリーム)…暑い午後に美味しいデザートでした。


これは何か…?
Dsc05025


甘い酢味噌の下にはさつまあげ、ちくわ、つみれ、大根…
Dsc05028


食後はスープを注いでもらいます。
Dsc05029


これは臺灣名物の甜不辣(テンプラ)です。おでんの具をカップに入れて、上から甘い酢味噌をたっぷりかけていただきます。ちなみに「甜不辣」とは「甘くて辛くない」という意味。

おでんは「関東煮」という名前で夜市(夜店)や便利商店(コンビニエンスストア)で普通に売られています。ちなみに鹿児島あたりでは「さつまあげ」のことを「てんぷら」と言うそうです。何か関連があるのかしらん。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

日活寫眞館

早朝の新竹市内をウロウロする。

新竹にもたくさんの日本統治時代の建物が残っていて散歩も楽しい。東京の街にも戦前の建物が残っており…たとえば神保町古書店街とか…現代の建物と戦前の建物が同居している。それでも古いアールヌーボー的建物はもう少数派。現代建築のなかにひょっこり顔を覗かせているのがふつうだ。

ところが臺灣にはいたるところに日本統治時代の建物が残っていて、それがいまでもちゃんと使われているところが面白い。「古いことは古いんだけど、でもしっかりしてるんだよ」と話す人もいる。

さてここ新竹の北門街は古い建物がたくさん残っていることで知られている。私も朋友に教えられて朝からウロウロと散歩。こんな建物がたくさん残っているのである。

Dsc04687_2


しげしげと眺めていたら建物の二階部分になにやら文字が彫ってあるのに気がついた。ナンダロウと近寄ってみると…『館眞寫活日』…じゃなくて(笑)『日活寫眞館』と彫ってあるのが見えた。

Dsc04568


Dsc04567


おお、ここは写真館だったのかあ、と写真を撮っていたら、近所に住んでいるオジサン(横縞のシャツを着ている人)が「そうだよ、ここは写真館だったんだよ」と話しかけてきた。

「ほらここにそう彫ってあるだろ。それにこの建物は、今じゃいくつかに分けられて人が住んでいるけれど、むかしはひとつの建物だったんだ。戦後に分割されてしまったけれどね。この下から奥に入っていくと小さな中庭があってね、古いことは古いけれどしっかり造ってあるんだよ。それから、ほらあそこに見える建物はむかしは医院だったんだよ」

Dsc04574


かつてここでたくさんの日本人や臺灣人が、家族写真や結婚写真や七五三の写真なんかを撮影したのだろうなあ。むかし新竹に住んでいた人には懐かしい場所なんだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺灣水果

南国臺灣は果物天国です。今まではあまり食べなかったのですが、今回はいろいろと食べてみました。

火龍果 「紅龍果」ともいうなんとも不思議な形状のフルーツ。見た目は強烈ですが味は淡白。
Dsc04954

中身はこんなです。
Dsc04683


香蕉 おなじみ臺灣バナナ。これは臺中産ですな。
Dsc04676


木瓜(パパイヤ)
Dsc04678


楊桃子(スターフルーツ)不思議な形状で横に切ると星形になります。甘くなくやや酸っぱめで水分が多く喉が渇いたときなど最適。
Dsc04969


龍丸 ライチみたいな果物です。
Dsc04977

Dsc04979


ドリアン、椰子、鳳梨(パイナップル)勢揃い
Dsc04956

| | コメント (0) | トラックバック (0)

海線山線

数回の訪臺で臺灣鐵路の大部分を乗車してきたが、今回の目標は未乗車の海線と成追線乗車。まず最初に説明しておくと、西部幹線というのは以下の路線の総称である。

縦貫線(北段)基隆ー臺北ー新竹ー竹南
臺中線(山線)竹南ー臺中ー成功ー彰化
海岸線(海線)竹南ー大甲ー追分ー彰化
成追線    成功ー追分
縦貫線(南段)彰化ー嘉義ー臺南ー高雄
塀東線    高雄ー竹田ー塀東ー枋寮

とりあえず新竹から大甲間の切符を買う。臺中まで買ってあとで補票(精算)してもいいのだが、大甲でも乗り換え時間があるし駅舎も撮影したい。新竹駅のそばで小龍包を買って朝食とする。うん、美味しい。

Dsc04699

自動售票機(自動券売機)で大甲までの切符を買い停車中の區間車(各駅停車)に乗り込んで発車を待つ。食後のデザートとして昨夜買った柚子…といってもラグビーボールみたいにでかい…を食べていたら、切符を持ったオネエチャンが不安そうに話しかけてきた。「この列車は香山に停まりますか?」彼女が持っている切符は「新竹ー香山」間だった。香山は新竹の次だしこれは區間車だから停まりますよ、と教えてあげたらホッとしていた。列車に乗り慣れていないんだろう。あるいは地元の人じゃないのかも?

これが臺灣の柚子…
Dsc04679

定刻どおりに発車。私がもぐもぐと柚子を食べているうちに香山に到着。件のオネエチャンは私に向かってニコッと笑って降りていった。やがて區間車は山線と海線の分岐駅である竹南に到着。車窓から赤い大魔神のような巨大な像が見えてきた。なんだこりゃ? 

あとでわかったことだがこれは五穀先帝とか神農大帝という農業の神様なのだそうだ。この像の下には寺廟があるというのでいつか行ってみようと思う。それにしてものっぺりとした町並みのなかにそびえ立つ五穀先帝はインパクト大。

Dsc04475

竹南を発車した區間車は山線と別れて海線に入るがここから油断はしていられない。竹南から大甲の間には、日本統治時代に造られた臺灣鐵路でも有数の木造駅舎が点在しているのである。區間車が走るにつれて車窓から海岸が見え隠れしている。

そして談文、大山、新埔、日南と点在する木造駅舎の素晴らしいこと…ただし運行本数の関係でこの4駅に下車するには事前計画が必要だ。しかも談文駅の周囲には田んぼしかないし食糧の準備も必要だ。というわけで次回は必ず全駅に下車することを誓った。ふたたび車窓から東シナ海が見えてきた。ロングシートの區間車はガッタンゴーと走り続ける。

Dsc04707

大甲に到着。いったん改札を出て駅前を散策し、大甲から臺中までの切符を買う。臺中ー大甲間を走る列車が多いのでここはそれなりに重要な駅なのだろう。

Dsc04703

こんどは大甲から臺中へ向かう。ここから先は海も見えずけっこう退屈、とはいえそれなりにローカル線ののんびりした雰囲気に浸っているうちに、やがて區間車は追分に到着。追分は小さな駅ではあるがここは重要な駅なのだ。

写真を見ていただければおわかりだが、この追分と山線の成功を結ぶわずかな路線がある。これが成追線という海線と山線を結ぶ連絡線なのである。彰化行きの海線は追分から成追線と分岐している。海線→山線あるいはその逆の場合も、いちいち彰化まで行くのは時間の無駄だしね。

Dsc04241

そもそもこの路線が開業した当初は、大甲方面からやってきた海線はいったん成功駅に入線し、スイッチバックで彰化へ行っていた。これを避けるためにも海線と分岐する追分駅を新設したのだという。追分(おいわけ)というのは、ひとつの道が二股に別れる場所のことだから、いかにも日本統治時代の産物という感じがする。

成追線と名前はついているが成追線じたいの時刻表というものは存在しない。あくまで連絡線としての存在でしかないのだ。かの宮脇俊三(1926-2003)も『台湾鉄路千公里』のなかでこの成追線……宮脇俊三は「循廻追分線」と書いている……に乗るか否かの逡巡について数頁を費やしているが、鐵道好きにとってこの気持ちはよくわかる。

もっともこの旅行記が書かれた当時(1980)はこの「循廻追分線」は「一日二往復の客車列車が走って」いたということで、今よりも乗るには時間がかかったのだろう。というわけで私は追分から成功までの間…あっという間に到着…を乗って無事成追線乗車完了。

やがて列車は烏日、大慶を過ぎて臺中に到着した。台湾第二の大都市である臺中、その荘厳な臺中駅舎は人をして感動せしめずにはおかない。

Dsc04233

ここで私は臺中の正面改札から出ることをせず、噂に聞いていた(笑)後駅(臺中後站)から出札することにした。臺中駅の地下通路をあまり人が行かない方向に歩いていき、階段をあがると目の前に小さな改札と小さな駅舎があった。ここが臺中後站…1905年建造の荘厳な臺中駅舎とはうらはらな、静かで小さな駅舎なのだった。駅の裏側にも街が広がっておりここを利用するひともけっこういるらしい。

Dsc04714

さて後站を出たはいいがここからどうやってメインの駅前に行けばいいのだろう。なんかどっかに通路か歩道橋があるはずだがよくわからない。腹も減ったことだしここらで昼飯にしようと歩き出して目についた小さな食堂に入り、鶏肉飯と貢丸湯というシンプルな昼餉をとる。

Dsc04745

店の老板(オーナー)に「駅前に行きたいのですがどうすればいいですか?」と尋ねると「後站の方向に戻って建設工事中の建物の角を曲がると地下道の入り口だよ」と教えてくれた。お礼を言って歩いて行くと、なるほど地下道の入り口があった。

臺中のメインの駅前に出て暫し散策した後、駅に戻ってこんどは新竹行きの切符を買った。ここから先はもう山線に乗って戻るだけ。昼飯を食べたし後はだらだら乗っていればいいや。

臺中を出た列車は豊原、三義を過ぎて銅鑼に停車。ああ銅鑼だ銅鑼。ここは侯孝賢監督の名作『冬冬の夏休み』(1984)の舞台となった街。夏休みを過ごすために臺北からお爺ちゃんの家にやってきた冬冬が、駅前で遊んでいた地元の子どもと、自分のラジコンカーと亀を交換する場面が可笑しい。いつかゆっくりと訪れたい街である。

そして列車は苗栗を過ぎ、再び現れた竹南の五穀先帝像を後にして、夕闇迫る新竹の街へと向かうのであった。これにて臺灣鐵路西部幹線全線乗車完了。

Dsc04705

| | コメント (2) | トラックバック (0)

臺灣好吃

まずは名物料理からご紹介。

米粉(ビーフン)と貢丸湯(コンワンタン)
Dsc04390

米粉は新竹と埔里が名産地。貢丸湯(豚肉団子)はつみれ団子を薄味スープに浮かべて熱々をいただきます。臺灣のあちこちにあります。写真は米粉の本場、新竹の新竹米粉!


肉圓(バーワン)
Dsc04352

筍と肉の入った餡をでんぷん質の芋粉で包んで蒸したもの。臺灣では人気の点心でどこに行ってもみんな食べている。今回は新竹と彰化、水里で食べたがいずれも味わいが異なる。とにかく食べ応えがあり一杯でおなかいっぱい、と言ったら朋友に笑われた(苦笑)
國語では肉圓(ロウユァン)だが現地では臺灣語の「バーワン」でOK。写真は彰化肉圓。油でサクッと揚げてあります。新竹肉圓は紅麹入りなので紅い色。水里肉圓はモチモチでした。


油条(ヨウティアオ) & 豆漿(トウジァン)
Dsc04243

朝はお粥…というのもありだけど、私は絶対にこれ! 私はこれが大好きなんだなあ…揚げたての油条を豆漿(豆乳)に浸してかぶりつく。温かい豆漿との組み合わせが最高。

食堂はだいたいこんな感じ。
Dsc04244


肉粽(ロゥゾン)
Dsc04626

おなじみの「ちまき」です。これは内灣で食べた客家肉粽。客家人の伝統料理でとても爽やかな香りの強い笹の葉に包まれていて新鮮。


貢丸(コンワン)三種
Dsc04672

白い貢丸はイカ、黒いのはイカ墨入り、紅いのはタコだそうです。


嘉義鶏肉飯(チァイージーロゥファン)
Dsc04056

嘉義名物の鶏細切り肉かけごはん。淡白なのに味わい深い…

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アジワン in 臺灣 2008

臺灣の夏は朝から暑いので寝る。
Dsc04763

昼間も暑いので寝る。
Dsc04084

駅のホームでも寝る。
Dsc04178

仲良く寝る。
Dsc04171

親子でくつろぐ。
Dsc04744

たまには川にも入る。
Dsc04496

でもやっぱり暑いので寝る。
Dsc04638

(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

臺灣電視

臺灣のホテルに泊まったときの楽しみは、なんといっても電視節目(テレビ番組)である。臺灣は有線電視(ケーブルテレビ)が発達しているので頻道(チャンネル)数はゆうに100を超える。報道番組からバラエティ、ドラマ、アニメ、テレビショッピング…さらにアメリカや日本のドラマや映画、記録番組(吹き替えも字幕版もいろいろ)。

最近は韓流ドラマも人気らしく『チャングム』みたいな歴史ドラマもあった。さらには株式番組から仏教法話もある。またラブホテル兼用のホテルに泊まると無修正ポルノビデオがばんばん流れている。臺灣ではラブホテル兼用のホテルが多くふつうに友達同士や団体で泊まる。もちろん実質はラブホテルなのだが安いわりに設備がいいのでけっこう人気なのだとか。

報道番組はだいたい同じ形式で流暢な國語(中國語)で政府批判から街角のB級ニュースまで報道する。昨年から前総統の陳水扁(民進党:現在は離党)一族の選挙資金不正蓄財疑惑にからんだ洗銭案(マネーロンダリング問題)が臺灣全島を揺るがしている。昨年に訪臺したときもテレビ番組では熱烈報道だったが、今年も相変わらず熱烈報道の真っ最中だった。しかも今年は陳水扁や車椅子の愛妻呉淑珍、陳水扁の息子夫婦に娘、さらには資金提供したと噂される遠東集團董事長がSOGO百貨店の株式獲得に絡んだりと、どのチャンネルでも喧しいことこのうえない。

「私は総統の馬英九(国民党)が好き、だっていい男だし(笑)…でも国民党が政権を取っても物価高騰や雇用不安は止まらないんです…市民の不満もたまっているし、それもあって陳水扁が叩かれているんです」(ホテルのフロントの小姐)

新たな新証言が毎日のように報道され、弁護士だの法律家だの評論家だの有象無象が次から次へと現れる。だいたい臺灣の報道は苛烈なのだが、息子の陳致中夫婦がアメリカから帰国すれば、インタビュアーやカメラマンが空港にイナゴのごとくつきまとい、街角を歩く娘はテレビカメラの前で父親の無罪を絶叫。顔出しオールOK、人権意識などない(笑)もちろん当事者だってこそこそ隠れるという意識はないらしく、堂々とカメラの前で話をしたり叫んだり泣いたり怒鳴ったりする。人権意識はあるんだろうけど顔出しOKというのは意外と国民性なのかもしれないな。

「おれは陳水扁が嫌いだ。息子夫婦だってがっぽり金を手にしているはずさ。それにあの娘…ぎゃあぎゃあわめいてさ、おれは大嫌いなんだよ(笑)」(屋台のオジサン)

北京五輪では女子テコンドーの蘇麗文が一躍臺灣の英雄になった。脚の骨折と靭帯損傷に耐えて奮闘した姿が臺灣全土を感動と賞賛の嵐に包み、連日の報道でその勇姿が映し出された。三回戦で敗退しメダルには届かなかったが臺灣では英雄扱いである。馬英九総統も賞賛のコメントを発し、彼女が車椅子で帰国したときには、空港は熱烈歓迎の人々で埋まった。同じ日の午前中には件の陳致中夫妻が帰国したので、テレビや新聞では「午前中は疑惑の人物が、午後には臺灣の英雄が空港に現れた」という文字が踊っていた。試合直前で負傷退場した中国の劉翔(110メートル障害)にあてこすり、負傷に負けず戦った蘇麗文を賞賛するコラムもあったが、大陸寄りの政策をとる国民党政権下なので控えめな扱いだった。

臺灣ではさまざまな殺人傷害事件や事故が起こっても、よほどの事がない限りモザイク無しで報道する。傷害事件や殺人事件の犯人も顔出し当たり前で、こういうところは日本も見習うといいなあ、と思った。しかし交通事故報道にはいつも驚いてしまう。たとえば交通事故現場に急行した報道クルーは、道路に横たわる血まみれの男に近づいていく。

(もう死んじゃってるのかなあ…)と思って観ていると、インタビュアーが男にマイクを向ける。「どうですか、だいじょうぶですか?」(だいじょうぶじゃないよ)「…うう、痛えよ…なんてこった…ちくしょう…」(まだ生きている)「事故のときは誰が乗っていたのですか?」「おれと友人の2人だ…」まあ迫真の報道であるのは確か(苦笑)

バラエティ番組は揃って日本のそれと(たぶん)同じ構成だと思う。若いタレントや歌手があけすけな恋愛トークを繰り広げたり、ベテランタレントに叱られていたり、スター発掘コンテストがあったりする。若者向けの青春、恋愛ドラマがあれば、中高年向けの歴史ドラマ、歌仔劇(ゴアヒ)もべったべたの愛憎メロドラマも嫁姑ドラマもちゃんとあります。

また臺灣は漢字の国なので字幕を見ていると不思議な気持ちになる。例えば日本だったら若い女性タレントが「私は恋人としかエッチしないわ」というところが、臺灣では「エッチ」というぼかした表現をせず「性行為」と発言し同じ字幕が出る。若い女性タレントがやたらと「性行為、性行為」と連発しているところがなんとも面白い。

原住民チャンネルというのもある。臺灣原住民のアミ族やブヌン族といった南洋系の民族文化を紹介したり、原住民出身のタレントや歌手がトークを繰り広げたり、歌を歌ったりしてなかなか面白い。

ぼんやりと臺灣電視節目を観ているとたまに日本のニュースが流れる。そうかあ、六本木のヒルズ族は「丘族」というのかあ…ここは臺灣…

Dsc04359

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Ilha Formsa!

また今年の夏も臺灣へ行ってきた。8月下旬なら少しは涼しいかなと思ったのだが…やっぱり暑かった(苦笑)それでも7月から8月上旬までの気が遠くなるような暑さとは違い、まあこれなら死ぬことはないかもな…というくらいの気が遠くならないくらいの暑さ…やっぱり滝のように汗をかきまくってきた。

電視新聞節目(テレビニュース番組)を観てもあまり日本のことは報道されていないので、日本で何が起こっているのか全然知らないまま帰国。なんか大雨が降っていたらしい…北京五輪も後半は殆ど観なかったなあ。

今回は新竹を拠点に嘉義、彰化、鹿港、阿里山、臺中、内灣あたりを経巡ってきた。懸案の内灣線、集集線、西部幹線海線、成追線(支線)、阿里山森林鐵路に乗車して、これで臺灣の鐵路はほとんど乗車したことになる。ただし…内灣線の拠点である新竹〜竹東間は改修工事中のためあと数年は乗れない。阿里山森林鐵路は今年の春先に山崩れで一部区間が不通のままなので、私が乗れたのは嘉義〜奮起湖間と阿里山〜神木間。それから臺灣鐵路の林口線はさすがに今年も乗れなかったので、次回は是非乗るつもりである。

臺灣鐵路では今年6月のダイヤ改正により、西部幹線の普快(平快)車が全廃、東部幹線の宜蘭〜花蓮間の普快車も姿を消して、ついに花蓮〜臺東間のみの運行になってしまった。廃車寸前のおんぼろ客車(非冷房)の運行もあとわずかだ。あの楽しさを是非もう一度味わいたい。それから新型通勤車輛の區間快車はきれいで快適だった。おなじみの區間車よりもまだまだ運行が少ないが、使い方によっては便利な列車だと思う。それから例の臺灣高鐵(高速鐵道)にも少し乗った。日本の新幹線並みに綺麗で揺れが少ないし、臺北から左營(高雄)まで最短1時間半というから凄い。

朝から晩まで街の屋台や食堂で飯を食い、あちこちに残る日本統治時代の老建築を観察し、いろいろな人にお世話になり、さすがにくたびれたけれど充実した臺灣旅行になったと思う。ああ次回は是非夏以外に行きたい。さすがに暑いよ、夏の臺灣(笑)

というわけで暫く臺灣小吃、新聞(ニュース)、鐵路、列車、ヘンな看板、歌仔劇(ゴアヒ)、臺灣狗(イヌ)等々、臺灣ネタが続きます。


新竹米粉と名物の貢丸湯
Dsc04390

| | コメント (0) | トラックバック (0)

きみが五輪で金儲けしようと言ったから

さあいよいよ北京オリンピックの開幕が明日に迫りました。一昨年の中国旅行で見たどこもかしこも工事中の北京の街も、いよいよ明日の開幕を迎えることになる。世界各国から観光客やメディアが北京を訪れ明日の開幕を待っている。

2008年8月8日午後8時8分…八(ba)は発(fa: 広東語では ba)に通じ、発には「裕福になる」「金持ちになる」という意味がある。「他発財了」といえば「かれは金持ちになった」という意味。末広がりの八の字ということもあり瑞祥の文字。

「きみが五輪で金儲けしようと言ったから8月8日は五輪記念日」

まあこれは半分冗談だが、この期間にできるだけ金を儲けようとするたくさんの中国人が蠢いている。もちろんオリンピックの成功を願って働くたくさんのスタッフも市民もいる。西藏自治区や新疆ウイグル自治区の反政府運動組織もここを先途とゲリラ活動のチャンスを窺っているだろう。人民解放軍や国家公安局はどんなことをしてもかれらを押さえ込むだろう。

「祭りは終わった。後には何も残ってはならない」と言ったのは作家の虫明亜呂無だが、果たしてこの透徹な覚悟が中国政府にあるだろうか?「祭りは終わったが、後には中国の発展が待っている」と思っているのだろう。かつての東京オリンピックと高度経済成長の日本をイメージしているのだ。

しかし東洋の島国がちょっと転んだところで、世界にはたいした影響はないのだけれど、東洋の超大国がちょっと転んだだけで、世界は震撼する。

ときどきでいいから美味しくビールを飲みたい、という私のささやかな(おこがましい)願いのためにも、世界は平和であってほしい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

1989年6月4日

1989年6月4日、北京の天安門広場で起こったあの惨劇から19年が経った。連日の報道を食い入るように見つめていたあの頃からもう19年が経ったのだ。

いま日本のあちこちの大学で学んだり、さまざまな場所で働いている中国の若者たちの殆どは、天安門事件を“歴史的事件”として認識している。

あの日あの時、天安門広場を揺るがした中国人民のために、今夜は黙祷を捧げよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

天災人禍

四川省で発生した大地震は日に日にその惨状が明らかになっている。それにしてもまたわるいタイミングに悪い場所で起こったものだ。

四川省は西藏自治区と境界を接し急峻な地形である。山岳地帯の大地震は土砂崩れや地滑り、幹線道路の寸断という被害をモロに受けるだけではなく、河川の下流地域にまで水害を誘発する可能性大。中国の建造物は日本人の目からみるとなんとも適当に造られており、倒壊した民家群を見ていると、そりゃ壊れるよなあ、と思ってしまう。官庁の庁舎はなんともないのに学校が全壊するなど手抜き工事も相当行われているとみた。

中国では政変が起きる前後に大規模な自然災害が起きる。有名なところでは、革命の英雄毛沢東と周恩来が逝き、四人組が失脚し文化大革命が終焉を迎えた1976年、河北省唐山で起こった唐山地震では24万人が犠牲となった。今年の春節の時期も異常寒波に見舞われるなどなんとも縁起の悪い年である。西藏暴動の衝撃も冷めやらぬなか、八月に開幕する北京五輪も聖火リレーで世界中に騒動を巻き起こしている。

1990年代以後、中国では都市部と内陸部の格差が広がるばかりで、抑圧された内陸部の不満はいつ爆発してもおかしくない情況にある。西藏自治区はもとより新疆維吾爾自治区でも漢族支配に対する抵抗運動が止まない。貧しくとも都市部に移住することを許されない農民たちは、退去して北京や上海に流れ込んでいる(民工潮)が、働いても働いても搾取されるばかり。まるで老舎の『駱駝祥子』のような世界が現代に蘇っているのである。

日本人にとって中国は良くも悪くも長くつき合っていかねばならぬ隣国。中国ウォッチャーとしてはなんとも憂慮に耐えない、というのが正直な心境だ。なんだかわからないくらい無茶苦茶なのに人なつこく、恐ろしく計算高いくせにどこか間が抜けている、あのエネルギッシュな中国人たちが、また前を向いて歩き出すことを祈りたい。とはいえ中国人とつき合うとくたびれるんですけどね…

| | コメント (2) | トラックバック (0)

臺東のカツカレー

基隆から臺東へ向かう。
臺東は臺灣の東南部にあり、臺北から特急列車で5時間はかかる。臺北の朋友も「臺東は遠いから行ったことがないよ」という。今回はここにある國立史前博物館を見学に行くのが主な目的。昨日と同じく5:58に基隆を出て宜蘭に向かい、宜蘭から普快車に乗り換えて花蓮に到着。花蓮からキョ光號の切符を買って臺東へ向かった。

臺灣は南北に山脈が走っている。山脈の西側(臺中〜嘉義〜臺南)には広い平地が広がっていて、東側(宜蘭〜花蓮〜臺東)の大部分は山が海岸まで迫っている。特に花蓮から臺東にかけてはそれが顕著で、山岳地帯に住む原住民(アミ族、タロコ族など)が多く住んでいる。臺東は特に原住民の多いところで、あちこちにあきらかに漢民族とは違う風貌の人々を見かける。花蓮を過ぎると車窓から椰子の木が目立つようになり、異国情緒がふんだんに感じられてくる。

臺東駅に着いたのはもう夕方近かった。臺東駅は郊外にあるので、市内までバスに乗って行かなくてはならない。夕暮れの臺東郊外を走って終点のバスターミナルで下車。道端で、さて今晩はどこに泊まろうかと考えていたら、強烈に訛ったジイサンが声をかけてきた。

「あんた、今晩はどげんすると? ホテルは決まっとると? 予算はなんぼ出せるとね? うーん、そうかあ、そんならよかホテルがあるばい。そこの社長は日本語が話せるとヨ。案内するばってん、オラのタクシーに乗るばい、よかよか、金はいらんとヨ、サービスばい」

要するにこのジイサン、ホテルに客を紹介していくらか貰っているのだろう。めんどうくさいのでタクシーに乗る。乗ること数分、着いたホテルは見るからに怪しげなホテル(苦笑)、とはいえ街の中心部にあるし、一泊1000元というわりにはちゃんとしているので、ここに泊まることにした。オーナー社長は怪しげな日本語を話す兄チャンでしきりに話しかけてくる。といっても日本語はかなりいいかげんなので、会話の大部分は中国語で済ませる。ロビーの隅で茶をガブガブ飲まされておしゃべりにつきあっていたらだんだん腹が減ってきた。

とにかく飯を食おうと街に出る。さすがに臺東まで来ると地方都市らしい田舎っぽさがそこかしこに漂っている。だらだらと歩いていたら『福爾摩沙餐廳』(フォルモサ・レストラン)という看板が見えた。しかも日式食堂と書いてある。日本料理? それにしてはよくある“誤解されたニッポン”“エキゾチックジャパン”という感じではなく、落ち着いた外観のレストランという風情。臺東で日本レストラン? しかもシックな? どういうこと? 面白そうなので入ってみた。

0708125f15185f01

店内はとても綺麗でシックな木目調で統一されている。私以外には誰も客がいなかったのだが、原住民らしいかわいい小姐が席に案内してくれる。メニューを見たらカレーセットとか海老フライセットとか、要するに洋食屋なのである。小姐に「『日式排骨加哩飯(日本式カツカレー)』とは、どのへんが日本式なのか?」と尋ねたら「日本風の味付けよ」と教えてくれたのでそれを頼んでみた。待つこと暫し、出てきたカレーは紛れもない日本の洋風カツカレーだ。実に美味しい。小姐が目をパチクリさせて「美味しい?」と聞くので「うん、美味しい」と答えたら嬉しそうに厨房へ駆けていった。

食後の珈琲を飲んでいたら厨房からオジサンが出てきて「日本の方ですか?」と声をかけてきた。彼は成田さんといって本職は日本の高校の先生とのこと。なぜ高校の先生が臺東でレストランを??? 珈琲を飲み乍らお話を聞かせてもらった。

「彼女(店員)が『中国語を話す日本人が来ているよ!』というんで…ようこそいらっしゃいました。ありがとうございます。どうしてまた臺東へ? ああ、そうですか、史前博物館がお目当てですか。だいたい市内は観光地じゃないからねえ、知本温泉とかあっちのほうが有名だし、あまり市内に外国人はいないですよ…」

「ええ、私はふだんは日本にいます。いまは夏休みなんで1ヶ月ほど臺東に滞在しているんですよ…私は大学生のとき動物学を専攻していて、タイワンザルの生態調査のために臺灣に来たんです。もう40年もむかしのことですよ…ほら、臺東の沖に藍嶼(Lan yu)という島があるでしょ、あそこに暫く滞在してねえ、そのときに原住民の人たちにそれはそれはお世話になったんですよ。だからいつか恩返しがしたいなあ、って思って…ええあの娘もアミ族です。若い世代になるとアミ語を話せないのも増えてますけどね…臺東の原住民たちともつきあいが始まって、その後もなんだかんだと臺灣と日本を往復していつしか40年が経ちました」

「ここもネ、私と私の仲間が金を出し合って建てたんですよ。原住民の若者たちの就労援助とか、そんなことができたらいいな、と思いましてネ…ええ、それがなかなか儲けを出すまでにはいかないですよ(笑)…まあ原住民の連中はのんびりしてますから(苦笑)…商売をやる以上はあるていどガツガツしないと儲けが出ないでしょ。でもかれらはなかなかそこまでやらないんだなあ…でも赤字じゃあ困るんでね、まあもう少しもう少しって感じで…気の長いつきあいですなあ(笑)…」

「しかしあなたもよくこの店を見つけてくれました(笑)ありがとうございます。臺北ならともかく、臺東だからねえ…とにかく辺鄙だから、まず知っている人が少ない(苦笑)、また臺東にお越しの際にはぜひお立ち寄りください。お友だちにも宣伝してください……といってもねえ、臺東くんだりまで来るやつはそうそういないよねえ(苦笑)」

そんな田舎の臺東ですが、もしも行く機会があればぜひ『福爾摩沙餐廳』に足を運んでみてください。中華料理に飽きたときのいいアクセントになりますよ。

『福爾摩沙餐廳』
0708125f15175f01
臺東市中正路331號(臺東醫院の近く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

菁桐のムカ竹筒

神社の絵馬にはさまざまな願い事が書かれている。なかには不届き千万かつ分不相応なことが書かれている絵馬もあり、これらは1990年代後半、漫画家のみうらじゅんによって「ムカ絵馬(ムカつく絵馬)」と命名された。
まあ、だいたいこういうものは万国共通のようで、何処だったか、金網に南京錠を取り付けて願掛けをするというのがあったが、あれも同じ類の習慣であろう。そしてここ菁桐の駅前にも竹筒に願い事を書いて吊るしてある一角があった。

Dsc01866
 
でもって菁桐の竹筒、大半はちゃんとした願いごとが書かれているのであるが、なかにはやっぱりこんな願い事も吊るされているのであった。

Dsc01867

これにいたっては地に落ちてるし・・・

Dsc01868
我要女朋友(彼女がほしい!)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

臺灣のアジワン

アジワンというのは、アジアの国々で気ままにのんびり暮すわんこ(犬)たちを指す造語。片野ゆか著『アジワン−ゆるりアジアで犬に会う』という本のタイトルでもあります。
臺灣のあちこちに犬がいます。飼い犬もいれば野良犬もいます。洋犬もいればアジア犬もいます。というわけで、わんこを愛して止まぬサワコさんのリクエストに応えて今日はアジワン特集。

基隆駅前で寝ていた犬。
のんべんだらりと寝る犬の横を、人々が通り過ぎていました。
Dsc01813


基隆駅のホームで電車の到着を待つ犬。
改札フリーパスで出たり入ったりしてました。
Dsc01829


菁桐駅前の軒下で雨宿り中です。
Dsc01848


十分の線路沿いをうつむきかげんでとぼとぼ歩いていました。
疲れているのかしらん。
Dsc01858


基隆の海岸でたわむれる犬たち。
涼しそうに見えますが、ものすごく暑い日でした。
Dsc02100


福隆駅前で空缶とたわむれていた黒犬。
Dsc01897


上の黒犬とケンカしてました。
Dsc01898


後述しますが、お昼ごはんをご馳走になった船長さんの家にいた犬。
キリリとした美犬で名前はシヤオグヮイ(どういう字を書くのか聞き漏らしました)
Dsc02053


基隆の街を流れる運河にかかる富狗橋のたもとにいます。
帰らぬ主人を待っている…わけではないようです。
Dsc02129

| | コメント (3) | トラックバック (0)

平溪線一日周遊券之旅

基隆−−八堵−−瑞芳−−三貂嶺−−十分−−菁桐

臺鐵支線平渓線の主な拠点は瑞芳である。実際、平溪線に乗り入れる運行本数は七堵発−菁桐行、八堵発−菁桐行が半数を占めているが、私的には瑞芳を拠点としたい。なお瑞芳から三貂嶺までは宜蘭線なので、実際の平溪線は大華−菁桐なのだろう。

Dsc01830

基隆から臺北へ向かう途中、線路は八堵で基隆行きと宜蘭方面行きが合流する。八堵から宜蘭方面行き區間車に乗り、暖暖−四脚亭を過ぎて瑞芳に到着。ここで11:35瑞芳発菁桐行きに乗り換える。平渓線は全長約13キロ、渓谷に沿って山間部を走るローカル線だ。瑞芳に到着したのはお昼少し前。いったん改札を出てから窓口で平渓線一日周遊券を購い、売店で環島鐵路火車時刻表を購う。

平溪線の発車までしばらく時間があるので瑞芳の街をぶらぶらと歩く。瑞芳は基隆までバスで30分。乗り継ぎ時間にもよるが、宜蘭方面から基隆に向かうとき、八堵で乗り換えるよりは比較的早く基隆に着く。基隆から人気観光スポット九分へ行くバスは瑞芳を経由するため頻繁に発着している。今回の滞在中、私は何度もこの基隆−九分−金瓜石経由路線バスのお世話になった。乗り慣れるととても便利な路線バスである。

Dsc01841

ふたたびホームに戻る。宜蘭方面行きの列車が入線するたびに、便當(弁当)立ち売りの小姐が「べーんとー」と声を張り上げる。そう、臺灣では駅弁のことを便當(鐵路便當)というのである。國語の発音は「ビェンタン:bian dang」だが「べんとう」で通じるのだ。まだ幼さの残る小姐が叫ぶ「べーんとー」という、どこか郷愁を誘う売り声が、ローカル線のホームにこだまする。

Dsc01834

Dsc01835

やがて平渓線がホームに入線してきた。車体側面は銀色、正面は黄色とオレンジのツートンのDRC1000柴油客車だ。

Dsc01843

平渓線は三貂嶺から宜蘭方面行きと分岐し、山の中へと入っていく。しばらく渓谷沿いや山間をのんびりと走り、やがて十分に到着する。電車は十分の駅の手前の商店街を走る。線路の両側に商店と民家が立ち並び、まるで都電のような世田谷線のような風景で有名。

Dsc01851

十分は侯孝賢監督の映画『戀戀風塵』のロケ地としても知られている。島式のホームから改札まで線路を渡って行き来するのも雰囲気だ。このアングル、このホーム、『戀戀風塵』を観た方なら記憶にあるのではないだろうか。

Dsc01857

十分では列車が通過する度にタブレット交換を行うので近くまで見物に行く。駅員さんが持っている丸い輪がタブレット。

Dsc01850


そして電車は終点の菁桐へとすべり込んだ。菁桐は1929(昭和4)年開業(1945年までの駅名は菁桐坑)という由緒ある駅。臺灣に残る日本統治時代の数少ない木造駅舎として知られている。

Dsc01865

平日の昼間ということもあって駅前は閑散としており、おまけに颱風6号の影響でときおりバケツをひっくり返したような雨が降ってくる。とりあえず飯でも食おうと駅前の小さな商店街を歩き、オバアサンが声をかけてきた小さな食堂に入った。

ここは楊家鷄捲という名物料理がウリだそうで、オバアサンはにかにかと笑い乍ら「ゴハン、タベルカ?」と言い、楊家鷄捲といっしょにスープかけご飯を出してくれた。楊家鷄捲は豚の挽肉などが入った餡を湯葉で巻いて油で揚げたもの。鷄肉に似ているからこういう名前なんだそうな。

Dsc01862

雨に煙る線路を眺め乍ら黙々と食事をしているうちに雨が止み薄日が射してきた。店を出て菁桐駅附近を暫く散策してから駅に戻る。待合室も古ぼけて良い感じ。窓口の奥では駅員が机に突っ伏して昼寝の真っ最中。まあそれくらいローカル線だということだ。

やがてホームに滑り込んできたDRC1000に乗り込み十分、平溪、三貂嶺を過ぎて瑞芳に戻る。ここから八堵まで行って乗り換えるよりも、ここから基隆行きの路線バスに乗ったほうが便利なのである。瑞芳駅前のバス乗り場で地元の人たちといっしょにバスに乗り、ガタガタと揺られ乍ら基隆へ戻った。これで平溪線瑞芳−菁桐間乗車完了。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

雨の廟口夜市

夕暮れの基隆は小雨に煙っていた。

新竹発基隆行區間車 
Dsc01811

落ち着いたロングシート 
Dsc01810

今回は港町・基隆に腰を据えてあちこち経巡る計画。2年ぶりの基隆だが、街がそれほど広くないのと、前回は足が棒になるほど散策したおかげで土地カンはバッチリ(笑)。まずは宿探しということで適当に探し歩いて、中正路の路地裏にある安宿に投宿。実はこの宿の前で煙草を吸っていたら、店の前にいた初老のオジサンと目が合った。オジサンは流暢な日本語で「お泊まりですか?」と尋ねてきたので、まずは部屋を見せてもらう。狭い部屋だが1泊700元にしては割といい感じ。まあいいかとここに5泊することにした。

フロントに戻って手続きをして、オジサンに「日本語がおじょうずですね」と言ったら、オジサンは真顔で「私は日本人ですよ。仕事で来るときの定宿なんです。さっきまで老板(経営者)とコーヒーを飲みに言ってたんですよ」と仰る。それにしてもロビーの椅子に腰掛けて、半ズボンにサンダル姿でオバサンと雑談しているさまは、なんとも自然な感じでまるで現地人。

荷物を解いて身軽になるとさっそく廟口夜市へ繰り出した。運河にかかる橋を渡ると、向こう側には賑やかな夜市の灯と人だかり。まずは路傍の屋台で、基隆名物の蟹のあんかけスープと油飯(おこわ)を食べる。しみじみと実に美味しい。ああ、基隆に来たんだなあ、という実感が湧いてくる。続いて米粉湯(太めのビーフンが入ったあっさりスープ)

Dsc01820

廟口夜市の角にある、これまた名物の一口吃香腸(ひとくちソーセージ)を貪る。3センチくらいのかわいいソーセージが1個5元。おまけの生ニンニクといっしょに熱々の焼き立てを齧るのが臺灣流(?)。

Dsc02131

愛玉子果汁(オーギョーチジュース)を飲みつつ夜の街をぶらぶら。小雨に煙る蒸し暑い港町の夜は更けていくのであった。

Dsc01824

宿に戻ってシャワーを浴びテレビを観る。ちょうど颱風6号(パブーク)が臺灣に接近中のため、西南気流が乱れているとテレビのニュースで言っていた。パブークとはラオス語で大きな淡水魚とのこと。ゆらりと臺灣に向けて泳ぎだしたパブークはどこを抜けるのかなあ。

Dsc01819

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明治36年開業

−−桃園−−山佳−−臺北−−八堵−−基隆

臺灣といえば中華民國交通部臺灣鐵路管理局、略して臺鐵である。臺鐵は森林鐵路阿里山線(嘉義−沼平)を除く、臺灣全土の鐵道の運行を管理している。ちなみに森林鐵路阿里山線は、農業委員会林務局嘉義林管處に所属している。

いままでに私が乗車した路線は、桃園−竹南(西部幹線縦貫線北段)、竹南−苗栗−臺中−彰化(臺中線)、彰化−嘉義−臺南−高雄(西部幹線縦貫線南段)、高雄−枋寮(屏東線)、枋寮−臺東(南廻線)、臺東−花蓮(臺東線)、花蓮−蘇澳新(北廻線)、蘇澳新−八堵−臺北、および八堵−基隆(東部幹線宜蘭線)・・・といえばもうお分かりであろうが、前述の西部幹線縦貫線北段の桃園−臺北間および竹南−大甲−追分−彰化間(海岸線)、成功−追分間(成追線)、平渓線、内灣線、集集線、林口線といった各支線、前述の森林鐵路阿里山線、そして臺灣高鐵(臺灣高速鐵道:臺北−左營)には未乗車。まだまだ私は臺鐵の経験も修行も足りないのである。

また臺鐵の客車も自強號(特急)、キョ光號(急行。キョはくさかんむり+呂)、復興號(準急)、區間車・普快車(各停)が運行されているが、まだキョ光號、復興號および普快車には乗ったことがない。そこで今回の旅では、西部幹線縦貫線北段桃園−臺北間および平渓線(瑞芳−菁桐間)と、キョ光號そして憧れの普快車乗車を達成すべく、酷暑の臺灣を目指して波濤を越えて(飛行機だけど)来たのである。

區間車(新竹−基隆)
Dsc01811_2

空港から路線バスで桃園へ向かう。相変わらず便が少なく臺北行きのバスに比べてオンボロ感は否めない。2年ぶりに桃園に到着しすぐに山佳までの近距離切符を購う。ロングシートの區間車(通勤電車)に乗り、陶磁器で有名な鶯歌を過ぎて山佳で下車。山佳は1903(明治36)年開業(1945年までの駅名は山仔脚)という由緒ある駅。この駅舎は文化遺産として保存されている、洋風と和風が折衷された駅舎なのである。数年前までは臺鐵本線で唯一、対面式ホーム間の跨線橋(天橋)も地下道もない駅として知られていたという。私が子どもの頃の日本でも普通に見られた、線路を渡って反対側のホームに行く構造だったのだ。首都圏なら東急世田谷線の各駅をイメージしてください。実になんとも味わい深い山佳の駅舎をご覧あれ。

Dsc01802_2

Dsc01804_2

ふたたび區間車に乗って樹林−板橋−萬華を経て臺北に到着。途中、樹林の操車場を通過。たくさんの車輌が停まっており、下車してじっくりと見学したい気持に駆られる。臺北からは松山−南港−汐止−五堵−百福−七堵−八堵と通過。八堵からは宜蘭方面行きと基隆行きが分岐する。宜蘭方面行きの線路に別れを告げて、私が乗った區間車は八堵−三坑を過ぎて終点の基隆に到着した。ひとまずこれで西部幹線縦貫線北段の桃園−臺北間乗車完了。

曇天の基隆駅
Dsc01814

| | コメント (0) | トラックバック (0)

FORMOSA 2007, SUMMER…

2年ぶりに臺灣に行ってきた。
雨の港町・基隆で都合7泊、原住民の街・臺東で2泊という長丁場。おまけに私が臺灣に滞在中、颱風が連続してやって来るという椿事もあり、例年よりも涼しい臺灣…といっても日本人にとってはじゅうぶん暑い…なかなか密度の濃い臺灣独り旅。
いろいろなものを観て、いろいろなものを食べ、いろいろな人たちに出逢い、そして鐵道やバスにも乗りまくってきた。これから暫くのあいだ、時系列に沿ったり無視したりしつつ、臺灣の珍道中を紹介していきます。
まずはご挨拶として、基隆は廟口夜市の名物、蟹のあんかけスープと油飯(おこわ)という最強好吃コンビのご紹介。これこれ、これが食べたかったのだよ(笑) これを食べるためだけでも、基隆に来る甲斐があるというものだ。

Dsc01815_2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

来年は五輪

湖南省洞庭湖が洪水のために水位上昇。おかげで湖畔に棲息するネズミ約20億匹が、難を逃れて陸地へ移動して大問題になっている。20億匹とはまたなんとも中国らしいニュースだが、それでも20億匹も棲んでいたとは、さすが中国だ。ネズミが増えた原因は、一説によると、ヘビ、イタチ、フクロウなどの天敵を“住民が食べてしまったから”だという。要するに食物連鎖の一環が崩れたということだな。
冗談はともかく、田畑に押し寄せたネズミは農作物を食べてしまうため、地元では大問題になっている。さて、ここで中国人がとった手段は…そうです。ハブにマングース、ヘビにナメクジ、ネズミにはネコ! というわけで小さな島にネコを数匹送り込んだところ、ネコはネズミに食い殺されてしまったということである。まさに「窮鼠猫を噛む」だ。最近では共食いも始まったというから、さてこれからどうなるんでしょう。
しかしそこは中国人である。ここにも銭儲けの花が咲く。そうです。ネズミを捕獲して食用として売り始めたやつが出てきた。もうこうなると商魂逞しいというかなんというか…チベット地区では、貴重な「冬虫夏草」を巡って村どうしが対立、銃から手榴弾まで持ち出して血みどろの争奪戦を繰り広げている。
いんちきディズニーランドからダンボール入り肉マン、ネズミ対人間騒動と、北京五輪を来年に控えて、どうする中国?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

人は見かけによらない

職場の若いオネエチャンと雑談をしていたら、私が中国語を話せるという話題になった。実はこのオネエチャンも、話せるわけではないが読み書きができる。そういえば中国語わかるよね、中国語勉強してたの? と聞くと、専攻が東洋史学だったので初歩的なことは学んだらしい。それよりも私の度肝を抜いたのが、彼女は満文が読めるということだった。満文というのは満洲語の文字のことである。

満文

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E6%96%87%E5%AD%97

http://mariyot.ld.infoseek.co.jp/manjuletter.htm

満洲語は満洲族(中国では満族)の民族言語で、モンゴル文字を改良した満洲文字(満文)で表記される。満洲族は清朝を興したツングース系民族である。日本の傀儡政権だった満洲国最後の皇帝愛新覚羅溥儀も満洲族だ。清朝も後期になるとしだいに中国語(漢語)が話されるようになり、民族の言語である満洲語もしだいに廃れていった。

現在の人口は約1000万人(2000年度調査)なのだが、満洲語を話せる人口は皆無に等しい。現在では黒龍江省の寒村にわずかに満洲語を話せる老人たちがいるだけの、文字通り絶滅に瀕している言語なのだ。それでも清朝の公文書や多くの書物は満文で書かれていて、清朝史を学ぶ研究者は満文を読む必要があり、現在でも研究や解読が続けられている。

「満文を読まなきゃいけない授業を取っていたので…まあいちおう勉強しましたから…でも何の役にもたたないですけどね、誰も話せる人いないし、日常で使う機会もないし(苦笑)」

満文フォントもあるそうです。すごいね。
 ↓
http://porocise.hp.infoseek.co.jp/memo/manju_tex.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中国大陸走馬観花記之六〜結語

今日で帰国。朝餐の後、部屋で荷造りをしていると電話が鳴る。北京在住の友人B嬢からの電話だった。私が北京にいるときに彼女は折悪しく仕事で出張中、残念乍ら北京での再会はかなわなかった。「せっかくの機会なのにお会いできなくて残念です、、、ああ、昨夜お電話をしていただいたんですか? 昨夜は急に通訳の仕事が入ってしまって、、、携帯電話がつながらなかったんですね、すいませんでした、、、ぜひまた北京にいらしてください、今度はホントにホントに熱列歓迎しますから(笑)」中国がずいぶんと近くなったことがわかったから、また近いうちに北京に来なくちゃならないな。天津駅10:30発の特急に乗って北京に向かう。朝方は小雨がパラついていたが正午に北京についたら晴れていた。

Dsc01061

特に用事もないので早めに空港に入っておいたほうがいいと判断し、駅前でタクシーを拾って首都国際機場に向かう。空港に到着してさっさとチェックインを済ませ搭乗券を受け取る。空港内のレストランで麻婆豆腐に炒飯というベタな食事をして出発ロビーで搭乗を待つ。時間があるうえにどうせ遅れるだろうと踏んで空港内を探検、人民元がたくさん残っているのでいろいろとお土産を購う。案の定、出発が30分遅れるが中国だからちっとも驚かない。もう母も慣れてしまいぜんぜん慌てないようになった。首都国際機場は成田空港と違って滑走路が少ないらしく、窓から外を眺めていたら離陸を待つ飛行機が行列を作っていた。中国は飛行機まで並んでいる(笑)! 

現地時間17:00、飛行機はあっけなく離陸し、機内食を食べたり『理由』を読んだり居眠りしたりしているうちに、日本時間21:00成田空港に到着。3時間かあ、近いなあ。税関を通過して日本に戻ると外は湿度が高く蒸し暑い。空港近くのホテルにチェックインしてシャワーを浴びて寝てしまう。翌日、東京駅で母と別れて帰宅。家に着いて財布を開けたら人民元が400元ほど残っていた。うーん、これじゃまた北京に行かなくちゃならないな(苦笑)

今回は18年ぶりの訪中だったので最初は北京の変貌ぶりに吃驚してしまったが、よくよく考えてみるに現在は中国はバブル経済の真っ最中、しかも1980年代後半の民主化運動、1990年代の改革開放政策を経て、近代化が進んでいるのも当然だろう。そういうことはニュースなどで耳にしてはいたが、実際行ってみるとたしかにたいした発展ぶりだった。そりゃ18年も経てば、日本の地方都市だってずいぶんりっぱになっているのだから、なにもそんなに驚くこたあ、ない。

Dsc00827

とはいえ、私の記憶にある中国は、人民服と自転車とクラシックな自動車とオンボロバスの中国。街頭で喉が乾いたら、道端で1杯5分(0.05元)のお茶を買って飲む中国。ミネラルウォーターのペットボトルなんざ影も形もなかった。そういえば、道端のお茶売りなんて一度も目にしなかった。あのお茶売りという職業はもう絶滅してしまったのだろうか? きっと辺境の地方都市に行けばまだ残っているのかもしれない。食事をしようと思ったら糧票(liang piao)が必要だったが、いまやそんなものはとっくに無くなった。中国人民にとって当時の日本は憧れの国だった。文化大革命を発動して中国全土を混乱に巻き込んだ毛沢東が逝き、江青を含む四人組を打倒したのは、毛沢東が後継者に指名していた華国鋒だった。その後、民主化に理解を示したといわれる胡耀邦時代に芽を吹いた自由への憧れは、隣国日本に向けられていたとも言えるだろう。なにしろ、私が当時出会った人びとは、おしなべて高倉健と中野良子と山口百恵の魅力を語り、日本映画『追捕(君よ憤怒の河を渡れ)』や『砂器(砂の器)』、テレビドラマ『阿信(おしん)』『血疑(赤い疑惑)』に熱狂していた。

Dsc00850

しかし民主化への強い希望は天安門事件で無惨にも叩き潰された。天安門広場に座り込む学生たちに肉声で応えた趙紫陽は即刻解任され、上海のテクノクラート出身の江沢民が、民主化を抑え込みつつ改革開放への幕を開けた。1997年には植民地香港を取り戻し、次は臺灣の奪還を国是として砲声を響かせている。中国は経済の自由化は果したといえるだろうが、民主化にはまだまだほど遠いと思う。地球上で、中国ほど国家を挙げてインターネットの規制に取り組んでいる国は、無い。自由化、民主化というのは酒のようなものだ。飲めば良い気分になるが飲み過ぎると毒になる。いくら飲んでも酔わない人もいれば、匂いを嗅いだだけで酔っ払う人もいる。とはいえ人びとはビールもウイスキーも老酒も、好きな酒をいつでも好きなだけ飲むこと(飲まないこと)ができるのが、自由化、民主化というものではないか。老酒はいいが日本酒はダメ、などと国家に言われる筋合いは、無い。

Dsc01017

私はもう20年以上も(たいしたつきあいではないが)中国とつきあい続けている。それでも18年ぶりの訪中、それもわずか数日の滞在で大きなことは言えないが、北京の変貌ぶりには驚かされた。見るもの聞くものすべてが新鮮だった。それでも駅の切符売場では相変わらず人びとが行列し、カウンターの服務員がこのうえなく不機嫌な顔で切符とお釣りを放り投げている。真っ黒に陽焼けした老婆が公園でアイスクリームを売っている姿と売り声はちっとも変わっていない。変わったのは、アイスクリームが綺麗な包装紙に包まれていることと、18年前に比べて値段がぐっとあがったこと。北京オリンピックを前に高層ビルがあちこちで建設されているが、一歩裏通りに入ると昔乍らの胡同があって、そこには市民の暮しが少しも変わらずに存在していた。夜ともなれば涼を求めて人びとが露店で酒を飲み飯を食い大声で楽しそうに喋っていた。きっと私はこれからもずっと中国とつきあっていくのだろう。

Dsc00857


| | コメント (2) | トラックバック (3)

中国大陸走馬観花記之五

五日目の朝餐。今日もパンと珈琲(笑)。ホテルの前でタクシーを拾い天津北駅裏にある北寧公園へ向かう。タクシーの運ちゃんによれば、この北寧公園は天津市内で最も古く、しかもほとんど変わっていないという。公園に入ってみたら確かに古ぼけた公園だった。母がスケートショーを観たとおぼしき池もちゃんと残っていた。細部までちゃんと記憶しているわけではないというが、それでもあちこちにかすかに見覚えがあるという。母が観たというスケートショーだが、『天津日本租界居留民團資料』によれば、昭和18年1月27日から31日にかけて「稲田悦子招聘模範型氷滑大會」がおこなわれた、と記されている。母が観たスケートショーとはたぶんこれだと思われる。稲田悦子は日本フィギュアスケートの草分けで、当時は天才少女として有名だった人。1936年、わずか12歳でドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された冬季オリンピックに出場して人気を博したという。

Dsc00988

こんな古ぼけた公園のなかに動物園(上の写真)があった。木の上には「奇観人蛇同居驚険刺激」(訳さなくてもおわかりであろう)という横断幕。入り口には扇情的な看板が、、、うーん、入りたい! しかし母を連れてこんなところには入れないし、そもそもそんな時間はない。まあどうせキワモノであることは重々承知の助。どう見ても動物園には見えない、動物園というよりは妖しい見せ物小屋のような、妖しい忍者屋敷のような動物園。天津を訪れたときには是非とも見学されることをお薦めする。

Dsc00986

公園を出て次に天津北駅に向かう。当然だが駅前もすっかり変貌しておりかつての面影はない。しかし母は駅前にある病院を見て「たしか駅前には病院があって、誰かのお見舞いに来たことを憶えている」という。これも昨日の中学校と同じで、当時の施設をそのまま戦後も病院として使用し、建て直したものであろう。駅前広場に立った母はしばらくあたりの風景を眺めていたが、たしかにあのへんから通りを右に曲がり、この駅を背にしてまっすぐな通りを歩いて通学していた、と言う。くだんの中学校までは1キロほどあるのでタクシーを拾おうかと思ったが、母が歩いていきたいというので同道する。

Dsc00990

通学路とおぼしき裏通りを延々と歩くとここには昔からの建物がたくさん残っていた。通りの両側にはさまざまな屋台や物売りが店を広げており、棗売りを発見した母が「当時もこうやって路上で棗を売っていた」と言って懐かしそうに眺めていた。てくてくあるいて国民小学校跡地に到着。現在の中学校ではちょうど夏の講習がおこなわれているようで、校門の前にはたくさんの親たちが子どもを待っていた。そこから昨日の日本人住宅街を抜け、市場を通り抜けてホテルに戻る。旧日本人住宅街を歩き乍ら、たしかにこういう家々に日本人が住んでいた、と母が感慨深げに呟いていた。国民小学校も自分の家も確認できなかったが、もう二度と天津に来ることはないと思っていた母は、それでも満足であったという。

午餐の後、独りでタクシーを拾って昨夜出かけた濱江道購物広場に行く。昼間もたいした賑わいであちこちのデパートに入ってみたが、どこもかしこも日本のデパートと変わらない。昨日は気がつかなかったが天津伊勢丹の裏に西洋風の教会があった。このあたりは戦前は列強の租界だったので西洋のゴチック建築がたくさん残っている。それなら教会もあるよなあ、と中に入ってみた。フランスのカトリック教会ということで、外の喧噪が嘘のように静かで荘厳な雰囲気だった。観光客に混じり信徒とおぼしき人が何人か静かに座っている。聖水を額につけてカトリック風の礼拝をするオジサンもいる。気がつくとどこからかグレゴリオ聖歌が流れてくる。どうやら隣接する事務所で聖歌隊が練習をしているらしい。なんとも荘厳な雰囲気で一瞬ここが中国・天津であることを忘れそうになってしまう。私は信徒でもなんでもないのだが、世界が平和でありますように、とマリア像に向かって祈りを捧げて外へ出た。

Dsc01004

伊勢丹のすぐ前の歩道橋で片手のない物乞いに遭遇したので1元をあげる。一足600元(約1万円)もするサンダルを嬉しそうに買っていく若い女性がいるかと思えば、相変わらずの物乞いもそこかしこの路上に寝ていたり、うろついていたりする。

またも喧噪の巷を彷徨い繁華街をはずれて路地裏に入り込むと中国大劇院という古ぼけた劇場があった。単なる街の劇場かと思って案内番を読むと、実は70年前に建てられた由緒正しい歴史のある劇場だということがわかった。

Dsc01028

さらに歩くと天津外文書店に遭遇。1階は思いきり工事中で閉鎖されているのかと思ったら、2階以上は営業中という貼紙があった。ここではカバンを預けて入店しろというのでカウンターに預ける。万引防止ということだろう。店内は薄暗くて服務員は揃いも揃ってやる気ゼロ。ああ、懐かしい。これがかつての中国の書店だ。うろうろして『延安:紅色名城旅遊指南系列叢書』『中国公路網地図册』の2冊を購う。北京の書店でもそうだったが、ここでも『江沢民選集』が平積みにされている。熱心な党員なのかなんなのか知らないが、手にとって読んでいる人が目立つ。北京の図書大厦ではマジで500冊くらい平積みになっていたので驚いた。日本で小泉純一郎の著作がこんなに売られているなんて考えられない。また繁華街に戻って、母にお土産用の十八街麻花と、おやつの天津名物揚げ団子を購い、タクシーに乗ってホテルに戻る。

夕方、散歩したいという母を連れて海河沿いを歩く。橋のたもとにこじんまりとしたゴチック建築の望海楼教堂という教会があった。

Dsc01052

見学しようかと中にはいると管理人らしきオジサンに呼び止められる。「あんたたち、ミサに来たのかい?」ちょうど夜のミサがおこなわれていたので見学することはできなかった。それでも漢語を操る変な日本人と年寄りが珍しいのか、いろいろと話かけられる。「ここは昼間なら見学できるし、外国人でも信徒ならミサに出ることもできるよ。オレたちはここを管理したり掃除したりしているのさ。見学したいなら明日の朝にでも来ればいいよ。それにしても年寄りを連れて日本から来たのかい? そうかいそうかい、お母さんは天津に住んでいたのか、ふーんオレたちの生まれる前の話だね、天津もいろいろと変わったよ、もう帰るのかい? じゃあまた機会があれば来なさい、歓迎するよ」
Dsc01055


| | コメント (0) | トラックバック (0)

中国大陸走馬観花記之四

Dsc00939_1


四日目の朝餐、バイキング形式のレストランでパンと珈琲。早くも中華料理に飽きてきた(笑)。ホテルのすぐそばの公園で京劇の演奏が聞こえてくるので行ってみると、四阿(あずまや)に老人たちが集まり名調子を披露している。二胡、琵琶、鳴りものの演奏に乗せて日に焼けた爺さんが朗々と京劇のセリフをうなっている。海河に架かる金鋼橋を渡って古文化街というテーマパークに至る。ここは清朝時代の街並を復元したショッピングモール。ぶらぶらし乍ら母の買い物につきあいタクシーで少し離れた鼓楼のそばにある広東会館へ行く。ここは100年ほどまえ広東地方の富豪によって建てられた建物。典型的な四合院様式で当時の雰囲気をよく保存していて見応えがある。この中心にひときわ目立つのが天津戯劇博物館。ここは京劇を上演するための戯楼で、広い内部には戯台(ステージ)が配置されている。天井はとても高く二階席の窓から射し込む光がいい雰囲気だ。精巧かつ繊細な彫刻が施されて圧巻、100年前の雰囲気が実によく保存されている。京劇の名優梅蘭芳(Mei, Lan Fang)もこの舞台に立ったことがあるそうだ。

鼓楼附近にはこれもまた古文化街と同じ清朝時代のショッピングモールがある。ついでだからとぶらぶら散策していたら、ある露店の隅に面白いものがあった。毛沢東バッジである。中国ではお土産として毛沢東バッジのレプリカがあちこちで売られているのだが、これらはどうもホンモノらしい。露店のオヤジ曰く「これはみんなホンモノさ。手放す人がいるんだよ。まあ、いまさらこんなもの後生大事に持っていたってしょうがないからな。あんた、コレクターかい? それならこれなんかどうだ。大きくてかっこいいぜ、一個10元でお買得だよ。これかい? ああこれは革命バッジだよ。これは小さいから5元。観光地で売られているのはみんなレプリカだけど、これはホンモノなんだ」ここだって観光地じゃねえか、とツッコミを入れたくなる(笑)。まあ中国のことだから精巧なレプリカかもしれないが、それにしても10個が1パックで売られているお土産品とは異なるいい雰囲気のブツなので購入。


Dsc00944_1


ちょうどお昼どきに差しかかったのでタクシーを拾って天津伊勢丹百貨店に向かう。あちこちで建設中の高層ビルを見かけるので尋ねてみると、魁三太郎似の運ちゃんは「そうだよ、なにしろオリンピックが来るからね、いま天津じゃあちこちでその準備中だよ。ホテルも作らなくちゃいけないし、最近は地下鉄が開通したんだ。そうなんだよ、ここ数年は景気がいいからね、古い建物は壊して再開発の真っ最中だよ。伊勢丹は高過ぎてオレらは滅多にいかないね。それでも景気のいい連中や外国人で混雑しているよ」南京路に面した天津伊勢丹は高級ブランド品を買う富裕層たちでごったがえしている。日本とは違って地下食品売場というものはなく、中二階が食品売場とレストランになっていて面白い。日式焼鰻魚飯(鰻丼)を食べてみるがけっこういける。とはいえタレがちょっと勘違いしている気がするが、まあこれもご愛嬌、何しろ私たちがふだんスーパーで買っている蒲焼だって中国産なのだ。


Dsc00973_1

Dsc00998_1

Dsc00960_1


母は午前中にあちこち歩き回って午後はホテルで休息するというパターンなので、今日もいったんホテルに戻ってから私は独りで街を散策することにした。日本で探し出した戦前の天津市内地図のコピーを片手に、母が通っていた国民小学校や居住地域を下見に行く。昨夜、庶民で賑わっていた露地のどん詰まりに中山公園がある。ここを抜けて反対側に出ると市場に出くわす。地図に寄ればどうもこの界隈に日本人が数多く住んでいた旧住宅が残っているらしい。外国人など滅多に来ないであろう市場はごみごみして汚くて臭い。しかしちっとも嫌な気がしない。ああ中国だなあ、と思う。色とりどりの野菜、卵、魚介類、量り売りの肉屋では豚の半身がいくつもぶら下がっている。あたりをつけて一本の露地に入り込むと、いかにも古い建物群が現われた。煉瓦造りの長屋形式の家々が連なっている。かなりの風雪に耐えてきたような古びた建物をよく見ると、たしかに戦前ふうの一種モダンな意匠があちこちに施されている。たぶんこれらが旧日本人住宅街なんだろう。いまでは庶民が暮していて生活の匂いが充満している。家の前の共同露地に日に焼けた婆さんがぼんやりと座っている。家の中から孫らしき幼児が駆け出してきて、婆さんは「危ないから気をつけなさい」と一声かけて目を細めている。中国人を日本人に置き換えればそのまま戦前の光景になるのだろう。


Dsc00976_1


かつて国民小学校があったとおぼしきあたりには立派な中学校が建てられていた。たぶん戦前に日本が造った国民小学校を戦後はそのまま中国が学校として使用し、そのうち老朽化が進んだので建て直したのだろう。さきほどの旧日本人住宅街からすぐ近くに位置しているのだが、母の記憶によれば「駅を背にして長い通りをまっすぐ歩いて通学していた」というので、どうも母が住んでいたのはさきほどの住宅街ではないらしい。まあきっとあちこちに日本人の住宅があったのだろう。そしてこの場合の駅というのは、私たちが到着した天津駅ではなくそのひとつ先にある天津北駅に間違いない。なぜならこの中学校の脇にある通りを1キロほどまっすぐ歩くと天津北駅に至るからである。さらに母は「駅の近くに大きな公園があって、ある年の冬、日本からアイススケートの選手が来て、氷結した池でスケートのショーがあったのを見物した」というが、天津北駅から歩いて数分のところにいまでも池のある公園がある。母はたぶん駅の裏あたりの何処かに住んでいたと思われる。


Dsc00980_1

だいたい見当がついたのでこんどは当てもなく歩き出す。ギラギラと陽が照りつけてうだるような暑さ。汗がじわじさと吹き出してきた。適当に歩いていると目の前に大きなスーパーマーケットが現われた。ひと休みしようと中に入ってみたら、ここは日本でもお馴染みの郊外型の大型量販店。そうかあ、ついに中国でもこういう店ができたのか。二階にあがると広大なフロアに食料品が陳列されていて、買い物のカートを押す家族連れで賑わっている。街の小売部(商店)でミネラルウォーターを一本買うとだいたい2元だが、ここでは特売で1.3元で売られている。まとめ買いするとお得なので思わず買ってしまいそうになるが、よく考えると私はただの旅行者なのであった。3階にあがるとここは衣料品や生活用品の売場。ダイエーやイトーヨーカドーの衣料品売場とおんなじだあ。


Dsc01016_1

夜、母を連れて天津市内の繁華街、濱江道購物広場へ出かける。広場といっても南京路と和平路を結んで延々と続く大繁華街のこと。ホテル附近の静かな光景とはぜんぜん違うネオンギラギラ、近代的デパートや洋服店、食堂、ファストフードが立ち並び、雑貨屋が密集しているあたりは吉祥寺を思わせる雰囲気。天津に来たら狗不理包子(Gou bu li bao zi)を食べねばならぬ。狗不理は中国でも有名な包子の名店、天津といえば包子、包子といえば狗不理なのである。18年前に訪れたときはむかし乍らの古い店内で、蒸籠から湯気を立てていた包子を貪り食ったことを思い出す。しかしいまではかなり儲けて手広く店鋪展開をしているらしく、フリの客は殺風景なファストフード的なフロアに通されるようだ。二階には雰囲気のある綺麗なフロアがあるらしいが、そこに通されるのは団体客、観光客なのであろう。まあ贅沢はいわずに名物の包子セットを買って食べる。殺風景ではあったが18年ぶりの狗不理包子はやっぱり美味しかった。


| | コメント (0) | トラックバック (2)

中国大陸走馬観花記之三

三日目の午前中は天壇(tian tan)に行く。幼い頃に天津から天壇へ来たことがあるという母は、印象的な建築をうっすらと記憶しているらしい。ホテルの前で乗ったタクシーの運ちゃんが「いま、天壇の祈年殿は改修中だから頤和園(yi he yuan)はどうだい?」と言ってくる。まあそれもいいとは思うが、何しろ午後には天津行きの列車に乗らなければならないので、そんなに遠くまで行ってはいられない。ぼんやりと車窓から外を眺めていたら、車が天壇とは反対方向に向かっていることに気づいて運ちゃんに尋ねる。「頤和園には行かないんだったね、いや悪い悪い、ちかごろ歳のせいかうっかりしててさ、女房にも怒られるんだよ(苦笑)」おかげで北京城をほぼ一周するということになったが、それはそれで北京市内の発展変貌ぶりをつぶさに眺めることができて面白かった。天壇で降りてあたりを散策する。それにしても肝心の祈年殿が改修中、昨日の故宮博物院の太和殿といい、北京オリンピックに対する北京の入れ込みようがしのばれるというものだ。

ホテルに戻ってチェックアウトしA嬢にお礼を言って北京駅に向かう。恒基中心のなかの飲茶楼で午餐。宮保鶏丁(鶏肉とピーナツの辣椒炒め)が猛烈に辛くて美味しかった。午後の列車で天津に向かう。18年ぶりに北京駅に入場。どういうわけだか全員が荷物をX線でチェックされる。空港並みだネ。

Dsc01079

駅前広場や駅構内には、中国全土から出稼ぎに来た労働者や出張のビジネスマン、若いカップルから老人子ども親子連れでごったがえしている。この光景は変わらないなあ。改札前でまたしても長い行列。なんでホームに行けないのだ、という母の問いに、出発の直前にならないと改札はしない、それが中国というものだ、と説明。

Dsc01064

Dsc01069

北京と天津間をわずか1時間ほどで走る特急列車「神州号」は二階建て、思いのほか綺麗で快適。私はくたびれてほとんど寝ていたが、母は車窓から見える高梁畑が懐かしくてずっと観ていたそうだ。

北京を出発して1時間ほどで天津駅到着。北京駅とは違って古くさく薄暗く、それでいてなかなか広くて風格のある駅舎。流しのタクシーを拾って天津暇日飯店(TIANJIN HOLIDAY INN)に向かう。ほどよく老けた運ちゃんは、私が日本人だとわかるとしきりに十八街麻花(shi ba jie ma hua)を買わないのかと聞いてくる。麻花というのは小麦粉を練って油で揚げたお菓子で、特に天津の十八街麻花は老舗中の老舗でたいへん有名なのである。「十八街麻花はよオ、あっちこっちにニセものがあッからね、河西区にあるのが総店(本店)だヨ、そこなら間違いない、正真正銘ホンモノの十八街麻花だア」

天津話は基本的に標準語に近いのだがちょっとクセがある。たとえば「公園」という単語の発音は標準語では gong1 yuan2 (数字は声調:音の高低を表わす)なのだが、天津訛りだと gong3 yuan2 に転調するようで、ついには私まで訛ってしまい、おかげでコミュニケーションがスムーズにいった、ような気がした。まあ北京には北京話(これがまた強烈な巻舌でさっぱりわからない)があるし、上海話や広東話は同じ中国人どうしでも理解不能だし、訛りなんて何処にでもある。北京から遠くない天津の訛りなんて東京弁と茨城弁くらいの違いしかない(と思う)。学生時代、中国語の教師に「みなさんがいま勉強している標準語を喋っている中国人には、中国ではまずお目にはかかれません(笑)」と言われたことを思い出した。

Dsc01054

タクシーは天津駅前広場から、市内を流れて渤海に至る海河(hai he)に沿って走り、金鋼橋という大きな橋を渡ってホテルに到着。母は海河のことも憶えているようでここでも懐かしげに眺めていた。チェックインを済ませ荷物を放り出して晩餐。めんどうくさいのでホテルのレストランで済ませ、夜の市街を散策に出かける。

ここらへんは中心地からはずれたところなので、庶民の暮しの風景がそこかしこにある。店も外国人が行くようなところではなく鋪道もでこぼこ。人が集まってがやがやしているので行ってみると、屋外映画上映会の準備をしているのだった。煙草をくわえたオジサンがビルの壁を即席のスクリーンにして映写機の点検をしている。周りでは老若男女が集まって楽しそうに談笑し、ガキどもはあちこちを走り回っている。夏の夜の屋外映画上映会かあ、椎名誠の世界だな。

Dsc00933


ひときわ明るい路地があったので足を踏み入れてみる。50メートルほどの路地の両側に食堂がずらりと並んでおり、路地にテーブルと椅子を出してたくさんの庶民がわいわいがやがや、テーブルにはビール瓶が林立し、餃子、包子、麺条、各種名菜、注文を受けた店員が忙しく立ち回りまことに賑やか。夏の夜に夕涼みがてらここに集まってくるのだろう。回族食堂の前では、串焼きの羊肉を炙る煙りがもうもうと立ち込め、なんとも美味しそうなのである。今回は食べなかったが、実際これは美味しい。いわゆる中近東名物シシカバブだ。中国国内には回族(hui zu)と呼ばれるイスラム教徒が860万人ほど住んでいる。回族はイスラム教(清真教:qing zhen jiao)を信奉するひとびとの総称なので、いわゆる民族的分類にはあてはまらない。長い歴史のなかで民族融合をおこなわれてきたため、見るからにペルシャ系の顔をした回族もいれば、どう見てもふつうのアジア人の顔をした回族もいる。

Dsc00858

かれらは宗教的理由で豚肉を食べない。したがって中国全土に居住している回族のためにあちこちの街には回族食堂が点在している。一目で見分けられるように、回族食堂は青い装飾が施されており、たいがい「清真食堂」とか「回民食堂」という看板がある。気温が氷点下に下がる北方の冬、道端で焼いている串焼き肉をハフハフ食べるのはまことにこたえられない。いつかまた冬に来てハフハフしたいものだ。

路地の終点から引き返しホテルに戻る途中、屋外映画上映会の場所を通りかかると、ビルの壁にサスペンスドラマが上映されていた。かっこいい警官役の俳優が神妙な顔つきで事件解決にあたり、楽しそうにそれを観ている庶民たち。なんだかいい光景だった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

中国大陸走馬観花記之二

二日目の朝はホテルのラウンジで朝餐。寝起きでぼんやりとし乍らバイキング形式の朝食を摂る。パンと珈琲を啜っているうちに母がお粥があったわよ、と言う。北京の朝餐がパンと珈琲なんてマヌケなもんだ。明日はお粥にしよう。地下鉄に乗って母が行きたいと言っていた故宮博物館へ向かう。

Dsc00918

初めて中国の地下鉄に乗る母が興味津々で構内を眺めているうちに地下鉄登場。相変わらず古くさい車輌だ。北京の地下鉄は相変わらず切符売場で直接買う形式。母は自動券売機はないのか、と言うがなかなかそういうものは普及しないようだ。まあここは中国だからいちいち驚いてはいられない。

Dsc00824

まずは王府井大街(wang fu jing da jie)で下車。北京の銀座通り、王府井もすっかり近代的に変貌していて驚いた。私の記憶にある王府井は人民服と自転車の洪水、古い街並と商店が立ち並んでいる通り。“現在の日本の銀座”みたいな雰囲気に変貌した風景を見て暫し感慨に耽る。

長安街を歩いて天安門広場に出る。ニュース映像などでお馴染みのあの天安門広場である。1949年10月、毛沢東がコテコテの湖南省訛りで中華人民共和国建国を宣言したあの天安門がどーん、と聳え立っている。1989年6月4日、中国全土を揺るがせた民主化運動、若者たちで埋め尽くされた広場、市民と人民解放軍が衝突して多くの血が流された場所だ。ひさしぶりに天安門を眺める。巨大な毛沢東の肖像画が広場を見つめている。あのときは日本のアパートでテレビを観乍ら呆然としていたことを思い出した。天安門をくぐって端門をくぐっていよいよここから故宮博物院。ここからは切符を買って入るのである。動かないでここで待っているように、と母に言い渡して切符売場の行列に並ぶ。ああ、ひさびさの排隊(pai dui)だ。なんだかちょっと嬉しい。

Dsc00841

中国で切符を買うためにはとにかく並ぶ(排隊)のである。かつて私は哈爾濱(ハルビン)駅で切符を買うために3時間並んだことがある。人民元を握りしめた人びとは切符売場の服務員と怒鳴り合い、後ろからはヤジが飛び、行列は遅々として進まず、私は持参した饅頭(man tou)を頬張り乍ら人の波に揉まれていた。あと数人で私の番というところで服務員はカウンターに札を立てて高らかに宣言する。「今日の汽車の切符は売り切れ!」

目の前で切符を買い損ねた男は激高してカウンターに飛び上がり、間仕切りを叩いて「ふざけるな! 朝から並んでいるんだ、売り切れとはどういうことだ!」と怒鳴る。たちまち周囲から、オレだって朝から並んでいるんだ、売り切れだあ? 嘘つけ、まだあるんだろう? ●●●●! どこに切符をまわすつもりだ! この●●●め! そんなもん役人にまわすに決まってるだろ、●●●! 金持ちにゃ勝てない、しょうがないよ、看板には「為人民服務(人民のために働く)」って書いてあるじゃないか、あの女を引きずり出せ!、てめえの●●を●●するぞ! 罵詈雑言と嘆息と怒号飛び交う駅構内の喧噪はいつ果てるともなく続く。まったくもって懐かしい想い出である。あの頃は気力も体力も時間もたっぷりとあったんだなあ。

Dsc00842

ここではわずか20分ほど並んだだけで切符が買えた。さすがにここで3時間並ぶ気力も体力も今はない。午門から太和門をくぐると目の前に聳え立つのが太和殿。映画『ラストエンペラー』でもお馴染みの、あの巨大な宮殿だ。残念乍ら現在修復中であの壮大な姿は拝めないが、その巨大さはじゅうぶんに窺うことができる。保和殿、乾清門、乾清宮、坤寧宮、、、さすが中国、無駄に広い。なにしろ72万平米もあるのだ。隅から隅まで堪能しようと思ったら数日かかると言われるくらいである。母がもうこれでじゅうぶんだと言うので、また最初に戻るために歩き出す。裏の神武門から出てもいいのだが、そうなるとこんどは故宮をぐるりと半周することになるので、めんどうだが天安門まで後戻り。天安門広場を横切って前門に向かう。また天安門広場ってのがこれまた無駄に広い。

Dsc01082

北京駅前の恒基中心という近代的なショッピングモールのファストフード店で午餐。うーん、紅焼牛肉麺がしみじみと不味い。決して美味しくない。しかしこれが一般市民の味だ。慣れればけっこういい感じなのだが、まあツアーでは味わえない午餐ということでよしとしよう。独り旅なら路地裏の汚い食堂で紅焼牛肉麺を啜るのだが、さすがに年寄りにそんなところでものを食わせるわけにはいかぬ。ほぼ同じ味だとしてもこちらのほうがずっと衛生的。

Dsc00854

暑さと疲れで午後は休息するという母をホテルまで送り私は独りで北京の街を散歩。地下鉄に乗って西単(xi dan)へ出る。お目当ての北京図書大厦(BEIJING BOOKS BUILDING)で本を買うつもりなのである。まったく何処に行っても本屋に寄るという病気は治らない。さてさて北京の書店はどのように変わっているのだろう。なにしろ18年ぶりなので見るもの聞くものすべてが新鮮だ。(写真は店の前にあるオブジェ)

店内に足を踏み入れて驚いた。予想はしていたのだが、なんとすべての本を自由に手に取って眺めることができる! 当時の書店では客が自由に本を眺めることができなかった。そういうフロアもあったが、たいていの本はカウンターの後ろに並んでいて、仏頂面の服務員に「あの本を見せてください」と頼むと、服務員のお姐さんが無言で書架から本を抜き出し、客に向かって放ってくれるというありがたいシステムだった。

ここで『重走長征路』『北京交通地図册』『理由』(宮部みゆきのアレです)の3冊を購い、音像売場では池袋の知音書店で見当たらなかったCD『中国60年代経典歌曲』を発見、ついでにDVD『東方紅』を購う。『理由』の臺灣版を持っているのだが、中国版のほうがページ数が少ないような気がしてならぬ。気になってしかたないので比較のために購う。収銀台(レジ)に本を持っていくと仏頂面のお姐さん(18年前よりずっと美人)が釣り銭を放ってよこした。おお、まだまだ中国名物「必殺釣り銭投げ」は健在。なんだかちょっと嬉しい。西単の胡同をぶらぶらとうろついて王府井書店を覗いてホテルに戻る。

追記:帰国して『理由』の臺灣版と中国版を比較してみたら、臺灣版は逐語訳、中国版はかなり省略が多く翻訳もちょっと雑だった。とはいえなかなか中国らしくてこれはこれでよい。

Dsc00861

Dsc00876

Dsc00879

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中国大陸走馬観花記之一

夏休みを利用して北京〜天津に行ってきた。
今回は独り旅ではなく老いたる母を連れての旅行。母は戦時中、当時の中華民国河北省天津市に住んでおり、終戦後に天津から引き揚げ船で帰国したので、いつか天津を再訪したいと言っていたのである。北京ならともかく天津というところは観光地ではないのでツアーもない。だから個人旅行で行くしか方法はない。だんだん歳をとってきて無理も効かなくなるし、そもそも漢語が喋れない。そこで多少なりとも漢語を操ることができる愚息をガイド役に、これ幸いとばかり天津再訪とあいなったという次第である。

初日は成田エキスプレスで空港へ。さすがに帰国ラッシュは峠を越しているようだが、それでもかなりの混雑である。まあいつもはこんなもんなんだろうな。早めにチェックインを済ませ、しばらく和食にはありつけないからと、空港内の食堂で鉄火丼を食べる。午後3時のフライトが30分ほど遅れる。まあ中国だからしかたがない。かつては中国と韓国の国交がなかったため、北京行きの飛行機はいったん南下して上海あたりを経由していたので、かなり時間がかかったと記憶している。やはり朝鮮半島の上空を飛ぶのは抜群のショートカット。朝鮮半島の上を飛べば早く着くのになあ、などと友人とぼやいていた頃が懐かしい。

ぼんやりとしているうちにやや曇りがちの北京首都国際機場に到着。実に18年ぶりの訪中である。おぼろげな記憶のなかの北京空港は薄暗くて古くさい建物だったが、さすがに18年の歳月を経て明るく近代的な空港に変貌していた。日本の空港係官より数段厳しい表情の係官に入国を許される。空港からタクシーに乗ってホテルへ向かう。曇りがちと思っていたがやはりけっこうな塵埃が舞っているようだ。2008年の北京オリンピックを控え、あちらこちらで急ピッチで工事がおこなわれているという情報を北京在住の知人から聞いていたとおりだ。何しろ中国は世界に冠たる環境汚染大国。もともと乾燥しているうえに黄砂が降りそそぐ量が年々歳々増えている。ホテルに着いたらまずはうがいだ。

東四十条の北京港澳中心瑞士酒店(SWISSOTEL BEIJING)に到着。ヨーロッパ資本の高級ホテルらしく立派な建物だ。なにしろ私はリュック担いでの独り旅専門なので、行き当たりばったりの中級ホテルに飛び込むのが常。やはりスポンサーがいると旅のランクも違う。明後日の天津行の列車の切符を買わねばならないところでA嬢登場。彼女は私の北京在住の友人B嬢の老朋友。私たちが泊るホテルがたまたまA嬢の勤務先だったので、B嬢から「日本から来る妖しい男とその御母堂をよろしく世話するように」と言い付かっていたという。いやはやなんとも申し訳ない。さっそくA嬢は事務室に交渉してくれて、天津行きの切符は別フロアのカウンターで無事受け取ることができた。謝謝! 部屋の窓から見える北京の夜景は18年ぶりという時間差もあってか、明るく賑やかに見えた。


Dsc00849

| | コメント (2) | トラックバック (0)