2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

貧乏人の経済学

 『貧乏人の経済学』を読んでいろいろと目を開かれる思いがした。その中からひとつ、、、

===以下、引用===

 蚊帳を売るべきか無料で頒布すべきかについて、サックスとイースタリーが正反対の見方をするのは、偶然ではありません。ほとんどの富裕国専門家たちが開発援助や貧困に関する問題で取る立場というのは、その人固有の世界観に左右されることが多いのです。これは蚊帳の値段と言った、厳密な答えがあるはずの具体的な問題の場合ですらそうです。ほんのちょっとだけ戯画化するなら、ジェフリー・サックスは(国連、WHO、開発援助業界の担当部分と同様に)援助額を増やしたいと思っていて、モノ(肥料、蚊帳、学校のコンピューターなど)は無料であげるべきだし、貧乏人はわたしたち(あるいはサックスや国連)が彼らにとってよいと思うことをするよう促されるべきだ、と一般に思っています。例えば、子供たちには学校で給食をあげよう、そうすれば親たちも子供を学校に通わせ続けたいと思うようになる、というわけです。
 その対極にいるのはイースタリーやモヨや、共和党系シンクタンクのアメリカン・エンタープライズ研究所などのような存在で、彼らは援助には反対です。それは政府を腐敗させるかたというだけでなくて、もっと基本的な部分で、彼らは人々の自由を尊重すべきだと信じているからです。向こうがほしがっていないものを、無理強いしても無駄です。子供が学校に通いたがらないのは、教育を受けても意味がないからにちがいない、というわけです。(『貧乏人の経済学』アビジット・V・バナジー、エスター・デュプロ著、山形浩生訳、みすず書房, 2012)

===以上、引用終り===

 学生たちに本を読め読めと常々言っているわけだが、果たして読書の無理強いは意味があるのだろうか?と思ったわけです。彼らにとって読書は「よいことだ」であるはずだから(言い方はどうあれ)「読め」と押し付けているのではないか。彼らの自由を尊重すべきであるなら、読書にたいして意味はないと思っているなら無理強いしても…と思ってしまう。難しいなあ。

本に関する本を薦めてみる

あのさ、もう読んだかもしれないけどさ、こんな本はいかがでしょうか? 長尾真『電子図書館 [新装版]』(岩波書店)…初版は1994年に刊行されてるんだよね、もうこれは予言の書と呼んでもさしつかえないくらいの本。それから長田弘『読書からはじまる』(NHKライブラリー)…長田弘は詩人なんだけど、読書についてもいろいろ発言したり文章を書いたりしている。この本は読書の本質を的確に捉えた読書論。まるで長編叙事詩を読んでいるかのような気分になります。

この夏に読もうと思っている本

龍應台『台湾海峡 一九四九』(白水社)
赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社)
ヤロスラフ・ハシェク『プラハ冗談党レポート:法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』(トランスビュー)
アラン・ムーアヘッド『恐るべき空白』(早川書房)
増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)
邱永漢『象牙の箸』(中公文庫)
堀田善衛『上海にて』(ちくま学芸文庫)
ルース・ベネディクト『菊と刀』(講談社学術文庫)

「真実」に惑わされるな

徒然なるままに読んでいた片岡義男の名著に唸りっ放し。例えばこんな文章。時代を超えただいじなことが書かれていると思う。

==============================
 1968年に、ハンク・スノウ(Hank Snow 1914-1999)やマーティ・ロビンス(Marty Robbins 1925-1982)はジョージ・ウォレス(George Corley Wallace 1919-1998)に投票し、巡業さきではウォレスの宣伝を盛んにやった。テックス・リター(Tex Ritter 1905-1974)やロイ・エイカフ(Roy Acuff 1903-1992)は、ニクソン大統領の就任式に、大統領から個人的に招待された。ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash 1932-2003)は、「アメリカ政府がやっていることだから」という理由でヴェトナム戦争に賛成している。マーティ・ロビンスは、『ラヴシック・ブルース』をじつにうまくうたい、ヴェトナム戦争に反対している。理由は、「アメリカが勝ったら、またひとつやしなうべき国を背負いこむことになるから」なのだ。
 このようなメンタリティの人たちにとってたとえばジャン・ハワード(Jan Howard 1930- )がうたう『私の息子』という歌など、最も「真実」にちかいものなのだ。この歌は、ジャンが実際にヴェトナムへ戦争しにいっている自分の息子からもらった手紙を材料にしてつくった歌で、歌ができてレコードになってから、その息子は戦死してしまった。
 『私の息子』はジャン・ハワードのおハコになっている。感きわまって、途中で泣き出すこともあり、アナウンサーとかそのときのショウの主役が「じつはジャンの息子がヴェトナムでその命をアメリカにささげたのです、ジャンも息子も立派ですね」というようなことを、必ず言う。
 観客は、ワッとくる。きたところでジャンは泣きながらソデにひっこみ、バンドは『兵士の恋人』のような、アメリカを讃えるたぐいの曲を、派手に演奏する。また、ワーッと拍手や歓声がくる。『私の息子』のレコード売上げがあがり、ジャン・ハワードのリクエストがふえる。観客は、「真実」に同化したとたんに、カネを失っている。しかし、そのことには、まず気がつかない。気がついていたら、ナッシュヴィル・サウンドが、ナッシュヴィルに対して年間純益一億ドルの産業になるはずがないのだ。
 このような調子だから、「真実」であればどんなことでもソングになる。カントリー・アンド・ウェスタンにうたわれている世界の広さは、ここに原因がある。

(中略)

 戦争で息子が死んだら、かわいそうだと感じるのは人間として基本的な感情で、そのかぎりでは真実なのだが、かわいそうだ、ほんとだ、かわいそうだ、と言っているだけでは、どこへも出口のない袋小路でどうどうめぐりをしているにすぎず、基本的な感情の同化はあっても、その同化は、ヴェトナム戦争に対してはむしろ目かくしになるのだ。どちらかと言えば決して金持ちではないアングロサクソンの世帯持ち、つまり、サイレント・マジョリティの、保守性は、頑迷にここにある。『グランド・オール・オプリイ』のステージにはじめてドラムを登場させるとき、三脚にのせたスネアドラムひとつで演奏者は腰かけずに立って叩くのであればよろしいと、長い論争のあとで決定した保守性と同質だ。(片岡義男『ぼくはプレスリーが大好き』三一書房, 1971)
==============================

(筆者注)
ハンク・スノウ、マーティ・ロビンス、テックス・リター、ロイ・エイカフ、ジョニー・キャッシュ、ジャン・ハワード…いずれもカントリーミュージックの歌手。
ジョージ・ウォレス…元アラバマ州知事。人種差別主義者として有名。
グランド・オール・オプリイ…1925年から放送が開始されたラジオ番組。カントリーミュージックの公開放送番組として知られる。

神保町の夜

昨日は都内で会合があった。夕方に会合が終り都営地下鉄三田線に乗って神保町で降りた。半蔵門線に乗り換えると帰宅できるのだが、やはり私の足は改札を出てそのまま地上へと向っていた。神保町を素通りはできない(苦笑)。

もう外は夜の帳が降りていたので古書店のハシゴはせず、中国図書の内山書店と東方書店を覗いて数冊の本を購う。それから東京堂書店に足を踏み入れて驚いた。改装を控えて売場が縮小されているのに驚いたのではない。1階売場に「港の人」全点フェアが展開されていたことに驚いたのだ。

「港の人」とは妙な名だが鎌倉にある出版社の名前だ。日本語学、教育学の学術書や詩集や芸術など優れた人文書の出版でも知られる(あまり知られてないか…)出版社である。私が図書館員だから知っているというのもあるのだが、とにかく書店で「港の人」の全点フェアを打つなどという試みをすることじたいがすばらしい。ズラリと並んだ「港の人」の刊行物を眺めているうちに、あれもほしいこれもほしいという気持ちになってくる。危ない危ない(苦笑)高鳴る胸を鎮め有山達也『装幀のなかの絵』(四月と十月文庫)をレジに持っていった。渋い本だなあ。

その他に小池昌代と四元康祐の詩のリレー『対詩 詩と生活』(思潮社)を見つけて購う。これも良い本だ。暫く携帯して読もうではないか。ああ人里離れた一軒家で詩を読み乍ら暮らしたい。そのためにはいま一生懸命働かねばならんのお。

電車で読む本

なんか忙しいので通勤電車で本が読めない。朝は新聞を読んでいるうちに最寄り駅に着くし、帰りはなんだか疲れて眠くて…というわけで、最近なんとか電車の中で読んでいるのは時刻表と『東北 鉄道地図帳』

電車の中で時刻表読むのはいつものことなのだが、この『東北 鉄道地図帳』はなかなか面白い。いわゆる地図帳ですが版元が地図の昭文社なので読み応えあり。線路が海岸線ギリギリに走っていたり、トンネルがたくさんあったり、等高線もバッチリなので高低差や車窓が想像しやすい。今後の東北鉄旅は三陸方面を攻める予定なのである。

あ、そうだ。北海道のJR江差線も早めに行っておかないと…北海道新幹線が開通したら廃線になる気配濃厚だしなあ。

雨が空から降れば…

「たとえ飢えに苦しもうと、ここは田舎よりよかった。ここには見るものもあったし、聞くものもあった。光があふれ、音があふれていた。働きさえすれば、金はつぎつぎにはいってき、食おうが着ようがなくなることのないすばらしいものが無限にあるのだった。乞食だって、ここならほっぺたがおちるようなものにありつけるのに、田舎ではとうもろこしパンにしかありつけないのだ」(老舎著『駱駝祥子』第4章 立間祥介訳)

ひさしぶりに老舎の『駱駝祥子』を読んだのだが、およそ70数年前に書かれたこの文章は、いまの中国にぴったりと当てはまるではないか。

農村を離れ北平(現在の北京)で働きづめに働いて報われることの無い貧しい車曳きのシャンズ(祥子)は、貧しい農村を離れきらびやかな都市部の工場で黙々と働き続ける現代の農民工と、さして変わるところが無い。

時は中華民国、戦争(政治)に明け暮れる政府、革命を叫ぶ知識人(学生)、どちらにも距離を置き、したたかに日々の労働に励む民衆…現代のシャンズたちはこれからの中国で報われていくのだろうか? 

シャンズが堕ちていったのは彼の誠実さと純朴さ故である。否、誠実さ純朴さのみならず、彼のそれらから来る頑迷さと無学も没落に拍車をかけた。シャンズは己の若さを過信し、そしてしたたかさが欠けていた。

上海からのニュースによれば「誠実」は「損をする」ということだと捉える人が圧倒的に多いという。現代のシャンズたちは『駱駝祥子』を踏まえてシャンズの轍を踏まぬ智恵を身につけているらしい。

「雨は金持ちの上にも降れば、貧乏人の上にも降る。善人の上にも降れば、悪人の上にも降る。とはいえ、雨はけっして公平とはいえぬ。もともとが不公平な世の中の上に降るからだ」(同書第18章)

先の四川省地震の被害を思い起こすにつけ、この言葉が胸に残る。そこに住む人々は金持ちも貧乏人も平等に地震で揺さぶられたが、その被害の多寡は「不公平な」現実によっていたからである。

気の毒なギリヤーク人

チェホフの『サハリン島』(中央公論社)を読んだ。

その前に暫く積ん読だった、チェホフの『シベリアの旅』(岩波文庫)を読んでから、それじゃ次は『サハリン島』を読もうかなと近所の図書館で借りてきた。『サハリン島』は、チェホフがはるかモスクワからシベリアを横断し、当時のサハリン島を歩いたルポルタージュである。19世紀末のサハリン島は流刑地であり、かれらを収容した刑務所は劣悪な環境であった。チェホフはその劣悪な環境と、流刑囚たちの悲惨な状況を克明に記録し、後にチェホフのルポが発表されるや驚きと賞賛の目で迎えられたという。

『サハリン島』の前段でもある『シベリアの旅』にも描かれているように、果てしない密林(タイガ)に埋め尽くされたシベリアも、極寒のサハリン島も、当時のモスクワ市民にとっては想像を絶する場所だったのだろう。華やかな都市の生活がまるで夢物語のような辺境の地、そこに暮らす人々はどうすることもできない自らの人生に諦観している。ま、それも作家の視点で描かれていることであり、そこに暮らす人々は意外とあっけらかんとしていたのかもしれない。

ぼちぼち読み進めていくうちに、ある日書店で岩波文庫の『サハリン島』がポップとともに並んでいるのを見かけた。おや、チェホフ・ブームなの?と思ったら、どうやら『1Q84』のなかに「気の毒なギリヤーク人」という段があって、その元ネタがチェホフの『サハリン島』なのだという。ま、新潮文庫でもチェホフのショートショート集が刊行されたりして嬉しかったりはしたが、チェホフ・ブームというより古典ブームなんじゃないのか?

例の光文社文庫古典新訳文庫効果がじわじわと浸透してきたのではないか、と思う。更に言えば、筑摩書房が立て続けに出していた、ちくま文庫版個人全集からかもしれない。新潮文庫は「掘り出し物」とか「おとなの時間」というマニアックなことをやっていた。角川文庫も角川クラシックスシリーズを刊行しているし、文春文庫でも芥川龍之介や太宰治を新編集で出したり、まあ団塊世代狙いと言えなくもないが、もともと岩波文庫のように、東西の古典を手軽に読めるのが文庫本本来の姿なのだから、今さら驚くことでもないか。やはり古典が連綿と受け継がれ読み継がれていくためには、それなりに出版する側の意欲と息の長い戦略が必要なんだな。

ちょっと気になるのは、『1Q84』の読者がギリヤーク(Gilyak)…現在はニブフ(Nivkh)と呼ばれるシベリアの少数民族に興味を持ち、そして今後はシベリヤがブームになるのだろうか? そして漂泊の舞踏家ギリヤーク尼ヶ崎がいちやくブームになるのだろうか…なるわけはないか…そういえば、ギリヤークといえば伊福部昭だ。たしか伊福部昭はギリヤーク人の音楽を採集したか、かれらをテーマにした曲を作っていた筈だ。宮沢賢治の詩にもギリヤークということばが出てくるものがあったと思う。『サガレンの八月』っていう作品(サガレン=サハリン)もあったなあ。いろいろ繋がるなあ、ギリヤーク…現在はニブフですが…

堤さんちの晩酌

昨晩は嵐かと思うような木枯らしが吹き寒さに震え乍ら帰宅。今日は朝から空気がひんやりとして気持ち良い。そろそろ立冬だから一足早い冬晴れってところか。

ふらりと神保町に出かけて古書店巡り。今日は神保町古本まつりの最終日ということで、靖国通り沿いには古書店の露店が立ち並び通り抜けるのもひと苦労だ。血眼になって古本を探すような情熱もすっかり薄れてしまったなあ。ひとまずぶらりと古書店巡りでもしよう。

小宮山書店で獅子文六の『海軍』を見つける。ひとまずこれを買おうと棚から抜いたら、すぐ近くに『箱根山』を見つけてしまう。数年前に巻き起こった獅子文六マイブーム再燃か?と思う間もなく持病の発作が起きてしまった…

獅子文六『海軍』(中公文庫)、『箱根山』(講談社大衆文学館)、今日出海『山中放浪』(中公文庫)、カフカ『ある流刑地の話』(角川文庫)、小松左京『地球になった男』(新潮文庫)、幸田文『闘』(新潮文庫)、佐伯一麦『ア・ルース・ボーイ』(新潮文庫)、ジョンストン『紫禁城の黄昏』(岩波文庫)、平山蘆江『蘆江怪談集』(ウェッジ文庫)、秦孝治郎『露店市・縁日市』(中公文庫)、朝日新聞新潟支局『越後の停車場』(朝日新聞社)、宮脇俊三/原田勝正編『奥羽・羽越JR私鉄1800キロ』『関東JR私鉄2100キロ』(小学館)、月刊カドカワ編『少女漫画家は眠れない:私の日常生活1』(角川文庫)、芳崎せいむ『鞄図書館』(東京創元社)、小池昌代編著『通勤電車で読む詩集』(NHK新書)、竹内一正『グーグルが本を殺す』(飛鳥新社)、稲葉振一郎『経済学という教養』(ちくま文庫)、橋本健二『「格差」の戦後史:階級社会日本の履歴書』(河出書房新社)、『四元康祐詩集』(思潮社)……

古本新本取り混ぜて以上が本日の収穫。いつものことですが病気です、病気。

小松左京の短編集は新潮文庫や角川文庫でたくさん出ていたのに、今ではすっかり絶版になってしまったなあ。私が中学生の頃は小松左京、筒井康隆、星新一、眉村卓、光瀬龍と日本SF黄金時代の名作・傑作がふんだんに読めた。おかげでハマったハマった。現在は角川春樹のハルキ文庫で過去の傑作群が復刊されているのでそちらでも読めるのだが、やはり新潮文庫版の装幀や手触りが懐かしい。

『少女漫画家は眠れない:私の日常生活1』は、昭和60年から『月刊カドカワ』に連載されていた、当時の女性著名人の日記をまとめたもの。執筆陣は楠田枝里子、大貫妙子、矢野顕子、沢口靖子、山田詠美、戸川純、原律子、松苗あけみ、新井素子、群ようこ、氷室冴子、黒木香、EPO、松任谷由実……黄金の80年代です。他には堤麻子(西武グループ・堤清二代表夫人)石原典子(石原慎太郎夫人)、大宅映子、芳村真理に宇野千代女史まで登場。堤麻子は、主人(堤清二)を門まで送り、経営に携わっていた六本木WAVEにあるカフェバーに行き、地唄舞の勉強会の準備をし、帰宅した主人(少々ゴキゲン)といつもどおり、二人でビールをお飲みになられている。優雅ですねえ。

凄いラインアップだなあと思っていたら、当時の『月刊カドカワ』編集長は見城徹(現在の幻冬舎社長)だった。なるほどねー、と納得する文化の日でありました。

私たちが諦めたもの

ジョン・クラカワー『荒野へ』(集英社文庫)を読む。

本のカバー写真を眺める。廃車になったバスが半ば雪に埋もれている。バスの後方には葉を落とした針葉樹が寒々と立っている。そしてアラスカ山中にあるこのバスの中で一人の青年が死んでいた。

ワシントンDC近郊の裕福な家庭に生まれ育ち優秀な成績で大学を卒業した青年は、大学を卒業してから家を飛び出しアメリカの各地を放浪してアラスカにたどり着いた。周囲と折り合いをつけることが苦手な、夢と理想に充ちた青年が、欺瞞と不条理な現代社会に背を向け、理想郷を大自然と荒野に求めて放浪の旅に出る。文字通り「青年は荒野をめざ」したのである。しかし幾つかの偶然と幾つかの必然が青年の人生に終止符を打った。

青年はなぜアラスカの荒野で死んだのか? 青年はなぜ荒野をめざしたのか? 青年を知る人々はみな彼を愛し、家族もまた青年を愛していた。しかし青年は彼らを愛していた(はずだ)が彼らのもとに留まることは好まなかった。周囲と折り合いをつけることが苦手な青年にはありがちなことである。著者はこの青年の人生をたどり、また自らの人生を重ね、そして感情に流されることなく、冷静に丹念にこの事件を掘り起こしていく。

この青年の行動に対しおそらく多くの読者は「自己責任」という言葉を想起するだろう。しかしやがて「この青年は私だ」と感じるようになるだろう。だからこそ当時この事件を報道したジャーナリズムに対して、青年の行動は無軌道で軽率で世間知らずのお坊っちゃん、という非難の声をあげた。たぶんこの青年の姿にかつて誰もが持っていた、そして大人になる過程で心ならずも諦め棄て去った「宝物」が垣間見えたからだろう。

青年というのはたいがい「無軌道で軽率で世間知らずのお坊っちゃんお嬢ちゃん」だ。ただその程度が個々に異なるだけで、だからこそ大人は青年の馬鹿げた行動に対して、半ば呆れながらも結局そのほとんどを許すのである。それは、今は慎重で世知に通じていると自認する大人はみんな「無軌道で軽率で世間知らずのお坊っちゃんお嬢ちゃんだった青年の成れの果て」だからだ。この本は年齢を超えた多くの人に読まれなくてはならない。

より以前の記事一覧