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そっとしておいて欲しかったのに

いまチベットが熱い!ってプチマイブームなんですけどね。きっかけはピーター・ホップカーク『チベットの潜入者たち~ラサ一番乗りをめざして』(白水社)。

19世紀まで長い間鎖国状態にあったチベット、特に禁断の都と呼ばれたラサに到達することが、多くのヨーロッパ人の夢であり野望であった時代があった。世界で最も高いところにある国、そしてラサを目指した人々は、ときに未開の地に誰よりも早く足を踏み入れたいという冒険家、帝国の領土拡大や通商という政治的使命を負ったスパイたち、キリスト教を布教することに命を捧げる宣教師たちなどなど、様々な人が様々な目的と方法で、様々なルートからチベットに潜入しようと試みた記録だ。これが面白くてクイクイと読んでしまったわけだが、当然この冒険者の中には日本人僧侶の河口慧海が登場する。

河口慧海は仏教の梵語、チベット語訳の教典を求めるため、1901(明治34)年、中国人医師と身分を偽り、日本人として初めてラサに到達し1年以上潜伏した人だ。これは近代においてはヨーロッパ人よりも早い時期であった。私が小学生の頃に読んだ子ども向けの本の中に、河口慧海の『チベット旅行記』のダイジェスト版があって、私はこれが好きでたいそう熱心に読んでいた。子ども心にも凄い冒険譚だと興奮したことを覚えている。後に大学生になった頃に、旺文社文庫の『チベット旅行記』を読んでその全貌を知ったわけだが、旺文社文庫版は700ページ近い長さだったのに、それでも原本のダイジェスト版だったのにも驚いたが…。

しかし著者のホップカークは河口慧海についてわずか2ページしか記述していない。理由は、同書はヨーロッパ人たちのグレートゲーム(19世紀にイギリス・ロシア両国が、トルキスタン・チベットをはじめとする内陸アジアで繰り広げた勢力圏拡大抗争の総称, 同書p11)を記したものであり、河口慧海はアジア人であり、青い眼の西洋人よりもはるかに有利な位置にあったので「彼は厳密な意味でこのレースの勝者と言うことはできない」と素っ気ない。河口慧海は、ヨーロッパ人たちが勝手にゲームだのレースだのと呼んでいたものに参加していわけではないのだが、著者はそういうスタンスで書いているのである。そんなことよりも面白かったのが、河口慧海が入蔵する前に、チベット語の手ほどきを受けたサラット・チャンドラ・ダスのことである。

サラット・チャンドラ・ダスは「イギリス政府の手先で、しかもヒンドゥー教徒」「高等教育を受けたベンガル人」だったという。河口慧海はチャンドラ・ボースにチベット語の研究をしたいという話をしたところ、ボースから「ソレには大変好い処がある。チベットで修学した人で、今チベット語と英語の大辞典を著しつつあるサラット・チャンドラ・ダースという方がダージリンの別荘にいる。そこへ行けばあなたの便宜を得らるるだろう」(『チベット旅行記』旺文社文庫)という助言を受けた。そこで河口慧海はダージリンに赴きサラット・チャンドラ・ダスからチベット語の手ほどきを受けることになった。

河口慧海はそのうち、チベット語を教わっていたチベット人僧侶から、サラット・チャンドラ・ダスがイギリス政府の命を受けて仏教学者と身分を偽りラサに潜入、その後彼がイギリス政府のスパイだったことが発覚、何人もの関係者が処刑されたという事実を知った。当時、チベットは外国人のラサへの立ち入りを厳重に禁じており、これを犯すものには容赦ない制裁が加えられた。首謀者はもとより手引きをした者、知っていても黙認したもの、果ては自分が世話したものが外国人だということを知らなくても、身の毛もよだつような刑罰に処されたという。

ところで、この本に登場するラサを目指した外国人たちは、みなどこかでチベット人を蔑んでいる。蔑んでいなければ憐れんでいる。キリスト教宣教師たちは、活仏のダライラマがいるにも拘らず、キリスト教の福音を伝えることでチベット人を救おうと思っていた。冒険家たちは、チベット人の迷惑よりも、自分がラサ一番乗りという名声を得ることを優先していた。ロシアが中央アジアにその版図を広げようとしていることに驚懼し、ロシアよりも先にチベットに到達することに汲々としていた。未開の地に住む民族の習俗を「非文明的」なものとして紹介するが、まあこれは冒険譚の宿命としてしかたないだろう。

結局イギリス政府がラサに到達しチベットと国交を結ぶものの、結局イギリスが「勝手に」憧れていた神秘的な「禁断の都」はそこにはなかった。後に中共がチベットに侵攻して、伝統文化を破壊しまくり、チベット人たちの尊厳をこのうえもないほど傷つけ、チベット人が中共に対して蜂起し、数知れない無辜の民が虐殺されたときも、イギリス政府はチベットに対してまったく支援も援助もしなかった。チベット人はどれだけ落胆したことであろう。中共もまた、チベットの農奴は封建社会で塗炭の苦しみに喘いでおり、それを偉大なる中共が農奴を解放する、という「勝手な」名目でラサに押し入ったのである。もちろん、かつてチベットは清朝の主権の下にあった(チベット人は迷惑だったが)という事実を根拠に、またこのままでは、宗教で結びついたチベット人たちが、偉大なる毛沢東主席の教えに従わないことを憂慮し、ダライラマやチベット高官を謀略で陥れた。

というわけで、チベットを巡る近代史が俄然面白くなり、あれこれと関連書籍を集めているというわけである。

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