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2011年1月

ナマコ酢は良い

椎名誠『ナマコのからえばり』(集英社文庫)読む。

思えば高校生のときに『さらば国分寺書店のオババ』を読んで衝撃を受け、その後、季刊のくせにいつ出るかわからない『本の雑誌』を、高校の近くの本屋で手に取って以来の(一方的な)おつきあいである。立て続けに『気分はだぼだぼソース』『かつをぶしの時代なのだ』『哀愁の町に霧が降るのだ』を読み、いつ出るかもわからない『本の雑誌』を読み続けたあの頃は、まだ出会わない膨大な活字の海に憧れ、かつ飢えていた、狂おしくも懐かしい時代であった(笑)

最近は椎名氏も痛風直前まで行って、本人曰く「いさぎの悪いベジタリアン」になったらしい。まあ椎名氏ももう古稀まであと数年なんだからしかたがない。とはいえ典型的な男性主義のおとっつぁんだから、この本でも「日本の幼稚な若い男たちよ」と叱りつけている。うざいオヤジなのだ(苦笑)しかしこのバンカラきめつけイズムが椎名誠の椎名誠たる所以なのである。

そっとしておいて欲しかったのに

いまチベットが熱い!ってプチマイブームなんですけどね。きっかけはピーター・ホップカーク『チベットの潜入者たち~ラサ一番乗りをめざして』(白水社)。

19世紀まで長い間鎖国状態にあったチベット、特に禁断の都と呼ばれたラサに到達することが、多くのヨーロッパ人の夢であり野望であった時代があった。世界で最も高いところにある国、そしてラサを目指した人々は、ときに未開の地に誰よりも早く足を踏み入れたいという冒険家、帝国の領土拡大や通商という政治的使命を負ったスパイたち、キリスト教を布教することに命を捧げる宣教師たちなどなど、様々な人が様々な目的と方法で、様々なルートからチベットに潜入しようと試みた記録だ。これが面白くてクイクイと読んでしまったわけだが、当然この冒険者の中には日本人僧侶の河口慧海が登場する。

河口慧海は仏教の梵語、チベット語訳の教典を求めるため、1901(明治34)年、中国人医師と身分を偽り、日本人として初めてラサに到達し1年以上潜伏した人だ。これは近代においてはヨーロッパ人よりも早い時期であった。私が小学生の頃に読んだ子ども向けの本の中に、河口慧海の『チベット旅行記』のダイジェスト版があって、私はこれが好きでたいそう熱心に読んでいた。子ども心にも凄い冒険譚だと興奮したことを覚えている。後に大学生になった頃に、旺文社文庫の『チベット旅行記』を読んでその全貌を知ったわけだが、旺文社文庫版は700ページ近い長さだったのに、それでも原本のダイジェスト版だったのにも驚いたが…。

しかし著者のホップカークは河口慧海についてわずか2ページしか記述していない。理由は、同書はヨーロッパ人たちのグレートゲーム(19世紀にイギリス・ロシア両国が、トルキスタン・チベットをはじめとする内陸アジアで繰り広げた勢力圏拡大抗争の総称, 同書p11)を記したものであり、河口慧海はアジア人であり、青い眼の西洋人よりもはるかに有利な位置にあったので「彼は厳密な意味でこのレースの勝者と言うことはできない」と素っ気ない。河口慧海は、ヨーロッパ人たちが勝手にゲームだのレースだのと呼んでいたものに参加していわけではないのだが、著者はそういうスタンスで書いているのである。そんなことよりも面白かったのが、河口慧海が入蔵する前に、チベット語の手ほどきを受けたサラット・チャンドラ・ダスのことである。

サラット・チャンドラ・ダスは「イギリス政府の手先で、しかもヒンドゥー教徒」「高等教育を受けたベンガル人」だったという。河口慧海はチャンドラ・ボースにチベット語の研究をしたいという話をしたところ、ボースから「ソレには大変好い処がある。チベットで修学した人で、今チベット語と英語の大辞典を著しつつあるサラット・チャンドラ・ダースという方がダージリンの別荘にいる。そこへ行けばあなたの便宜を得らるるだろう」(『チベット旅行記』旺文社文庫)という助言を受けた。そこで河口慧海はダージリンに赴きサラット・チャンドラ・ダスからチベット語の手ほどきを受けることになった。

河口慧海はそのうち、チベット語を教わっていたチベット人僧侶から、サラット・チャンドラ・ダスがイギリス政府の命を受けて仏教学者と身分を偽りラサに潜入、その後彼がイギリス政府のスパイだったことが発覚、何人もの関係者が処刑されたという事実を知った。当時、チベットは外国人のラサへの立ち入りを厳重に禁じており、これを犯すものには容赦ない制裁が加えられた。首謀者はもとより手引きをした者、知っていても黙認したもの、果ては自分が世話したものが外国人だということを知らなくても、身の毛もよだつような刑罰に処されたという。

ところで、この本に登場するラサを目指した外国人たちは、みなどこかでチベット人を蔑んでいる。蔑んでいなければ憐れんでいる。キリスト教宣教師たちは、活仏のダライラマがいるにも拘らず、キリスト教の福音を伝えることでチベット人を救おうと思っていた。冒険家たちは、チベット人の迷惑よりも、自分がラサ一番乗りという名声を得ることを優先していた。ロシアが中央アジアにその版図を広げようとしていることに驚懼し、ロシアよりも先にチベットに到達することに汲々としていた。未開の地に住む民族の習俗を「非文明的」なものとして紹介するが、まあこれは冒険譚の宿命としてしかたないだろう。

結局イギリス政府がラサに到達しチベットと国交を結ぶものの、結局イギリスが「勝手に」憧れていた神秘的な「禁断の都」はそこにはなかった。後に中共がチベットに侵攻して、伝統文化を破壊しまくり、チベット人たちの尊厳をこのうえもないほど傷つけ、チベット人が中共に対して蜂起し、数知れない無辜の民が虐殺されたときも、イギリス政府はチベットに対してまったく支援も援助もしなかった。チベット人はどれだけ落胆したことであろう。中共もまた、チベットの農奴は封建社会で塗炭の苦しみに喘いでおり、それを偉大なる中共が農奴を解放する、という「勝手な」名目でラサに押し入ったのである。もちろん、かつてチベットは清朝の主権の下にあった(チベット人は迷惑だったが)という事実を根拠に、またこのままでは、宗教で結びついたチベット人たちが、偉大なる毛沢東主席の教えに従わないことを憂慮し、ダライラマやチベット高官を謀略で陥れた。

というわけで、チベットを巡る近代史が俄然面白くなり、あれこれと関連書籍を集めているというわけである。

陸奥阿房列車 阿仁合~山形

深い雪に埋もれたマタギの里の駅でストーブに当たり乍ら『最後の狩人たち~阿仁マタギと羽後鷹匠』を読む。著者は朝日新聞の記者で、本の内容は昭和50年頃に秋田支局にいた頃に取材したものだ。当時ですら衰退しつつあった阿仁マタギの伝統的な狩猟方法や独特の習俗が興味深い。熊狩りと解体の儀式がとても面白かった。
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厳しい自然のなかで縦横無尽に山を駆け巡るマタギは凄い。山の中を移動するときは驚く程少量の食糧しか持たず、しかも今からみるととても薄着なのだが、それは腹いっぱい食うと集中力が落ちるとか、厚着をすると汗をかいたら身体が冷えてかえってよくないという理由。もっとも動き回っているから身体もそれほど冷えないのだろう。
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東京の冬は建物も電車もやたらめったら暖房が効いているのでうっかりすると汗だくになる。私もこれに懲りて冬でもできるだけ効率のいい服装にしている。例えば冬は保温性の高い下履き(股引だ)、長袖シャツを下に着込んで手袋とマフラー、毛糸の帽子などで首や袖口、足下などで冷気を遮断したほうがいい。マタギの本はいろいろと勉強になるのであった。あ、そうそう新田次郎の『八甲田山死の彷徨』も寒さ対策の勉強になります、ってこっちは極限状態だけど。寒さは怖いねえ。

やがて角館行きの改札が始まり再び車中の人となる。
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ここからは笑内、比立内とアイヌ語由来の地名駅がある。そしてこの辺りが阿仁マタギ発祥の地なのだそうだ。なるほど深い山に囲まれたところだ。阿仁マタギからアテンダントのお姐さんが乗り込み沿線案内を担当。地方交通ならではの試みだ。由利高原鉄道でも女性アテンダントが活躍しているが、相変わらず経営の将来は楽観できない状態だという。地方交通は難しい局面にあるのだ。秋田内陸縦貫鉄道も楽観的な状況ではないのだろう。列車行き違いのため上桧木内で長いこと停車。雪の海に浮かぶ小島のような駅だ。やがて列車は終点の角館に到着。左側からJR田沢湖線が合流してくる。

陸奥の小京都と呼ばれる角館だがいつも乗り換えでしか降りていない(苦笑)大曲で奥羽本線に乗り換えて新庄へ向う途中、小腹が空いたので横手で下車し名物焼きそばを食べる。横手は駅舎改築中のため仮駅舎。列車に乗って新庄で乗り換え終点の山形に着いた頃、冬の日はとっぷりと暮れてすっかり暗くなっていた。

投宿してから夜の街に出た。山形といえば創業300年の老舗書店『八文字屋』だ。ここでは伊藤孝博『イザベラ・バードよりみち道中記』(無明舎出版)を購う。駅近くの居酒屋で郷土料理に舌鼓を打ち良い加減で酔っぱらう。
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陸奥阿房列車 青森~阿仁合

早暁に青森を発ちJR奥羽本線で弘前へ。『東北「方言」ものがたり』を読み終える頃、列車は弘前に着いた。弘前で大館行きに乗り換えて『最後の狩人たち~阿仁マタギと羽後鷹匠』を読む。

弘前を過ぎるとだんだん雪が深くなってくる。奥羽本線も弘前を過ぎて白神山地の麓、秋田県境に来ると雪が深くなる。大館で短い乗り換え時間を縫って名物駅弁鶏めしを買い鷹ノ巣行きに乗り換える。地元の高校生が少しだけ乗っている鷹ノ巣行きのキハ110系で、車窓の雪景色を眺め乍ら鶏めしをわしわしと食べる。

鷹ノ巣で降りて秋田内陸線の鷹巣から阿仁合行きに乗り換える。秋田内陸線はかつての国鉄阿仁合線(鷹巣〜比立内)と角館線(角館〜松葉)。秋田内陸縦貫鉄道に経営が移ってから、未開通だった比立内〜松葉間が開通して鷹巣〜角館を結ぶ路線となり、同時に秋田内陸線の駅名が鷹巣となった。もともと同じ駅なので、JR鷹ノ巣駅とは同じホームで乗り換え可能なのだが、駅名がJRでは鷹ノ巣、秋田内陸縦貫鉄道では鷹巣と表記が異なる。
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秋田内陸線は沿線の雪景色が絶景。以前に乗ったときも感じたのだが、車窓から見える山や田畑は一面の白い雪、さらに林立する秋田杉が雪化粧してこれが幻想的なまでに美しいのである。阿仁前田で行き違いのため10分程停車。この辺りまで来ると更に雪が深い。やがて列車は終点の阿仁合に到着した。
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阿仁合は秋田内陸線の要所であり車庫も併設されている。駅舎には事務室の他、売店やそば屋も営業しており、待合室にはストーブがカンカンと燃えて暖かい。近所の爺様婆様の集会所的な役割も果たしているようで、待合室にたむろする客の中には、昼間からカップ酒を飲んでわいわい喋っている爺様がいる。特に列車に乗るわけではないようだ。
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次の角館行きまで約2時間の待ち合わせ、近所を散策して高台から駅や列車を撮影する。それにしても寒い。周囲を深い山に囲まれ、きれいな川が流れている小さな街。時折通る車の音しか聴こえてこない静かな静かな時間を過ごす。
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駅に戻り食堂「こぐま亭」でうどんを食べる。自然藷を練り込んだうどんの上に馬肉がトッピングされた素朴なうどん。隣の爺様たちは昼間から酒飲み乍らわいわい喋っている。駅員も食堂や売店のオバちゃんも爺様婆様と顔見知りのようで、みんな和気藹々と喋っているが、方言がキツくて何を喋っているのか半分以上わからない。待合室に戻りストーブに当たり乍ら『最後の狩人たち~阿仁マタギと羽後鷹匠』を読む。外は雪がしんしんと降っている。
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陸奥阿房列車 八戸~久慈~青森

八戸線に乗って終点の久慈まで往復した。
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八戸線には鮫、大蛇、侍浜と珍名駅がある。鮫なんていかにも三陸という雰囲気で良いではないか。「次はサメです!」という車掌のアナウンスが面白い。「次はクジラです!」「次はイルカです!」なんてことになるともっと面白い。どうせなら「次はホヤです!」「次はナマコです!」「次はキタフウセンイソギンチャクです!」というのも良いな。ナンダカヨクワカラナイ。
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大蛇はダイジャではなくオオジャ。音だけ聞いていると王者に聞こえる。名前に蛇がつく駅はここと蛇田(仙石線)ってのがある。蛇嫌いにはイヤな駅名。侍浜は、寒風吹きすさぶ浜辺に剣豪が佇んでいるようでかっこいいじゃないか。しかし駅周辺は寂しい林の中にあり浜辺からは離れている。岩手県に入ると有家(うげ)という駅があるが、駅の周囲には家が無い。
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途中で乗り込んでくる地元の爺様婆様たちの会話が聞こえてくるが、何言ってんだかさっぱりわからない。日本人は英語ができないとか下手だとか言われるが、方言だってなかなかのものである。津軽弁なんかフランス語みたいだしなあ。同じ冬の海でも太平洋はなんだか明るい。日本海とは違うんだなあ。なあなあといろいろなことをぼんやりと考えているうちに列車は三陸海岸を走る。

終点の久慈駅構内に立ち食いそば屋があった。「こはくそば」というのがあったので食べてみる。カウンターのお嬢さんに尋ねてみると「菊とキノコが入ってるソバです。久慈は琥珀が採れるんですよ。菊の花を琥珀に見立ててるんです」とのこと。とても美味しいというものではないが暖かいそばが腹に沁みる。
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JR久慈駅構内は三陸鉄道北リアス線と共有なので、三陸鉄道のカラフルな車輛が数台留置されている。これに乗り換えて宮古・釜石方面に行きたいのだが、これはまた次回の楽しみとしよう。
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久慈から折り返し八戸から青い森鉄道に乗り換えて青森へ向う。12月4日の青森新幹線開通に伴い、JR東北本線の八戸~青森間は、JR東日本から経営分離されて第3セクターになったわけだ。いくら地方は自動車が普及しているとはいえ、由緒正しい東北本線の一部が第3セクター化され、栄枯盛衰なのだなあとぼんやり思う。

夕暮れの車内で『昭和東北大凶作~娘身売りと欠食児童』の続きを読む。昭和初期の三陸で生まれ育った著者だけに、貧困と飢餓に苛まれた実体験が反映されていて凄い。そうこうしているうちに三沢、野辺地、浅虫温泉を過ぎて夕暮れの青森駅に到着。さすが青森、けっこう雪が積もっていた。

宿に荷物を置いて地元の『成田書店』に向う。ここの郷土出版物コーナーはとても充実しているので好きだ。長田雅彦『最後の狩人たち~阿仁マタギと羽後鷹匠』(無明舎出版)を購い、店を出て駅前の居酒屋に入る。定番のじゃっぱ汁、ホタテの貝焼き、店のお姐さんオススメの下北のイカとソイの刺身を肴に酒が美味い。ほろよい加減で店を出たら粉雪が舞っていた。
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陸奥阿房列車 盛岡〜八戸

年末の仕事を無理矢理納めて旅に出た。
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東北新幹線盛岡駅ホームに降り立って、在来線の改札にふらふら歩いて行ったら、JR山田線が大雪のため運休していた。駅員さんに尋ねてみるに「ええ動いでません、宮古まで代替バスが出ますけど、釜石まではわがらないですね、ええJR釜石線も運休です、今日は宮古方面には行がないほうがいいですよ」しかたないので宿泊予定の釜石の宿に電話したら「三陸鉄道も止まってますね…ええ事情が事情ですからキャンセル料はいりません…まだ今度いらしてください」

ま、雪が降れば列車は遅れるのである。線路が雪に埋まったら列車は止まるのである。何も不思議なことはない。とは言え、明日はJR八戸線に乗らねばならぬ。しょうがないので IGRいわて銀河鉄道で八戸に向うことにした。

ぽっかりと時間が空いてしまったので駅の構内をうろうろしていたら、盛岡を代表する書店『さわや書店』の支店があった。ちょっと覗いてみたら、なんともセンスの良い内装で嬉しくなってしまう。郷土出版物コーナーも充実していて、ついつい山下文男『昭和東北大凶作~娘身売りと欠食児童』(無明舎出版)、毎日新聞地方部特報版『東北「方言」ものがたり』(無明舎出版)、田中忠三郎『下北忘れえぬ人びと』(荒蝦夷)と3冊も購ってしまう。これから旅に出ると言うのに何をしておるのか。

盛岡駅前は後から後から雪が降り積もりけっこうな雪景色になっていた。銀河鉄道に乗って八戸へ向う。途中の好摩から分岐するJR花輪線も運休とのこと。車中、先ほど購った『昭和東北大凶作~娘身売りと欠食児童』読む。ここからJR八戸線で本八戸下車。暫し歩いて市内のホテルに投宿、人心地つく。
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市内の屋台村で一杯。気さくな八戸のおばちゃんが勧める八戸名物、サメの酢味噌和え、サバの冷燻、辛味噌(青唐辛子を漬け込んだ味噌)などに舌鼓。これがまた酒によく合う。

常連の二人連れのおっちゃんが酎ハイを頼んだら、おばちゃんが「シガ入れっかね」「おお、あだりめだ、シガ入れでくれや」というやりとりがあった。ぼんやりと聴いていたらおばちゃんが「お客さん『シガ』ってわがる? 氷のこど、このへんで『シガ』って言うんです」と解説してくれた。おっちゃんも「秋田もね、氷のこど『シガ』て言うよ」と教えてくれた。東北方言なのだろう。新潟方言では氷は「こおり」だよなあ。

「お兄ちゃん『ダダミ』てわがる?」おっちゃんがまた尋ねてきた。「何ですか?それ?」「タラのシラコのこどだよ、秋田さ仕入れに行ぐと、シラコのこど『ダダミ』て言うんだ」「へえ、ここ(八戸)では言わねなあ」「んだ、こごらでは言わねけどな」おっちゃん、秋田によく仕入れに行くらしい。

方言飛び交うカウンターで、独りとろとろと酔う八戸の夜であった。

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