2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 砂の民 | トップページ | 杞憂で済めばよいが… »

義理が廃れば…

中国の反日デモ報道が少なくなってきた。官製デモと揶揄されながらも、各地で投石などが相次いで国内のネトウヨを苛立たせているが、まあ所詮中国共産党内の権力闘争、党内反日派が穏健派に揺さぶりをかけているわけで、そんなにイライラする必要はあまりないと思う。

同じ頃に民主活動家の劉暁波氏にノーベル平和賞授与というオプションが追加され、ノルウェー政府がとばっちりを喰わされた。中国人と思しきネトサヨが「中国の大都市並みの規模しかないノルウェーは生意気だ」などとネットに書き込むなど、中国は意気軒昂だ。

連日マスコミが中国=「乱暴な国」「理不尽な国」「理解不能な国」vs日本政府(民主党)=「弱腰外交」「不透明な対応」「売国奴」という図式で報道を繰り返している。殆ど大本営発表(苦笑)…ここぞとばかりに中国(中国人)には(世界の)常識が通用しないというスタンスでの喧伝が多いように思うが、そんなことは昔からわかっていたことである。

世界の中心は中華皇帝の住まう王宮であり、皇帝の威光は都を中心にして同心円状に及び、都から遥か遠く皇帝の威光が及ばない未開の地には、東夷、西戎、南蛮、北狄というまつろわぬ蛮族が住んでいるのである。東夷(日本)だの北狄(ノルウェー)だのが何をほざいておるのか、笑止千万、と言う伝統が脈々と息づいているわけで、中国とは「そういう国」であると理解しなければ、とてもつきあえるものではない。

中国思想史の溝口雄三が興味深いことを書いている。

たとえば、清朝中葉の戴震(1723-77)は、理の名の下に圧迫されている貧者賤者に同情して「人、法に死なば、猶これを憐れむ者あり、理に死なば、其れ誰かこれを憐れまん」(『孟子字義疏証』巻上)といっている。これは、法は人が作り人が裁くものだから間違いもあるし永久的なものでもない、だから法にふれて殺されてもまだ憐れんでくれる者がいる、しかし理に背いて死にいたったとなると、これは非人道的な行為を犯したとみなされるため、誰も憐れんでくれない、というのである。ここではあきらかに理は法に比べて上位にある。(溝口雄三『中国思想再発見』左右社)

このように「法」と「理」の問題ひとつをとっても日本人は「法」を遵守する傾向が強い。「それこそ日本は法治主義だからだ」という日本と、「法」より「理」が上位にあり巷間「人治主義」と言われる中国が、相互のコミュニケーションに齟齬を来すことは当然なのである。

つまり、尖閣諸島は中国固有の領土であり、それを主張・奪還する行為は理である。即ち日本の法律などというものは日本の都合であり、たとえ法に背いたとしても、尖閣諸島を日本に奪われることは理に背くことである……

ところがこれは、実は日本人にも理解できる感覚なのだ。そうです、一連の任侠映画です。ヒロイズムです。「悪法もまた法なり」と理性的にふるまっても、高倉健が「義理が廃ればこの世は闇だ」と独りで殴り込みに行く姿に、われわれは喝采を贈ったのではなかったか。

例えばこういうことをまるごと納得できれば、中国人とは何とオモシロい人々かと思えるようになるのだけどねえ……

« 砂の民 | トップページ | 杞憂で済めばよいが… »

中華世界」カテゴリの記事

コメント

日本でも成功した中国人実業家がテレビで面白いことを言っていました。
日本人は自分で規則を作って、自分を規制するのが好きだと云うのです。マンションの前庭に芝生を植えても、自ら立ち入り禁止にしたり、公演でもキャッチボール一つ出来ないと嘆いていました。
そればかりでは無いんでしょうけど、初めて日本に来たころ、彼にはそう見えたようです。

また、冤罪から解放されて晴れて記者会見した方は、当局批判もしたけどメディア批判もかなり喋ったそうです。でも、報道ではその部分はカットされたようです。
法治国家とは言いますが、最近の検察不祥事や日本メディアの独特な情報操作も、そろそろヤバいかもしれません。

中国思想学者の溝口雄三は、日本人にとっての「公」は自律的な個人間の相互関係として形成されず、殆どの「公」はすべて「私」の関与できない、あるいは「私」の権利が主張できない、「私以外」の領域であるのに比べ、中国人の「公」はちょっと違っていて、「公」はすべてその中に「私」の関与を含み、個々の「私」の自由な目的の集積、あるいは個々の自由意志によってとりきめられた共同目的である、と述べています(『公私』三省堂, 1996)

これを受けて社会学者の園田茂人は、日本の農山漁村にある「入会地」を例に取ります。「入会地」は村落や集落のメンバーであれば誰でも利用することができる空間ですが、だからといって個人が好き勝手に利用することはできない。つまり「みんなの物を自由勝手にしてはいけない」という暗黙のルールが生じます。ところがこれが中国人には理解できない。「公」は「私」の関与するものであるから、「みんなの物なのになぜ自分が利用できないのか?」と考える。(『中国人の心理と行動』NHKブックス, 2001)…つまりそこには日本的な「公共のルール」というものが存在しないわけですね。更に園田は、中国人の「公」を紡ぐ基本単位となっているのが「関係(guan xi)」だと主張しています。

日本人は「ここは公園(公共の場所)だから『キャッチボール禁止』というルールをみんなが守りましょう」、つまり「公私」の区別を厳しく捉えます。だから「電車の中で化粧をする女を非難する」という論調が生まれます。ところが中国人は「私はキャッチボールしたい」「私は芝生に寝転がりたい」とそれぞれが主張し、実行します。それはその公園が個々の「私」の集積としての「公」ということになるからですね。ここでは「公私」の区別は非常に曖昧です。中国人や中国人社会を知っている人は「そうそうっ!」と納得してしまいます(笑)

「電車の中で化粧をする女」については中国人は基本的に無関心です。それはその女とは「没関係(mei guan xi : 無関係)」な状態だからで、しかも「没関係」とはなんとも凄絶なまでに、みごとに「没関係」です。その人がどうなろうと、仮に誰かに注意されて喧嘩になって目の前で殺されても知ったことではない、と言っても言い過ぎではありません。

日本のメディア操作はすでに巷間言われているとおりで、無条件に信用してはいけません。バイアスの無い報道など無いのです。生の情報が欲しいなら、せめて解説抜きで映像だけ流して、意味は視聴者が各自で考えればいいかもしれません。

かつてNHKのプロ野球中継で、アナウンサーも解説者も一切発言しないで淡々とゲームを中継したことがありました。あれはすごく刺激的で新鮮でした。野球は野球場で観戦すべきなのです。理屈や解説は各自で考えればよいし、考えなくてもいいのだと私は思いますよ。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義理が廃れば…:

« 砂の民 | トップページ | 杞憂で済めばよいが… »