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2010年7月

電車で読む本

なんか忙しいので通勤電車で本が読めない。朝は新聞を読んでいるうちに最寄り駅に着くし、帰りはなんだか疲れて眠くて…というわけで、最近なんとか電車の中で読んでいるのは時刻表と『東北 鉄道地図帳』

電車の中で時刻表読むのはいつものことなのだが、この『東北 鉄道地図帳』はなかなか面白い。いわゆる地図帳ですが版元が地図の昭文社なので読み応えあり。線路が海岸線ギリギリに走っていたり、トンネルがたくさんあったり、等高線もバッチリなので高低差や車窓が想像しやすい。今後の東北鉄旅は三陸方面を攻める予定なのである。

あ、そうだ。北海道のJR江差線も早めに行っておかないと…北海道新幹線が開通したら廃線になる気配濃厚だしなあ。

暑い…

暑いねえ、サウナみたいですねえ、7月ってこんなに暑かったっけ…? などという会話が頻繁に交わされる。日中に外を歩いているとなんだか臺灣にいるような気になる。

とにかく今年は仕事が途切れることなく続いており、いつもなら一息つける夏なのに仕事の予定がギッシリと詰まっている。おそらく今年は一年を通じて仕事が途切れることなく、しかもひとつひとつが大きな仕事になってくるのだろう。今年もまともに有給取れないだろうなあ(苦笑)

このご時勢、仕事がたくさんあって幸せなことです…などと上司が喜ぶようなことを言ってみたりするが、本音はこのご時勢、仕事がたくさんあって(しかもそれをこなせる人数が足りていて、やったことに対する評価がきちんとなされれば)幸せなこと、なのだ。人件費削減で人を減らし、非正規雇用を増やし、やったことに対してたいした評価もせず、仕事はやって当たり前、文句を言うなと言わんばかりの状況に於いては、ただただ徒労感のみが肥大してくる。

人の使い方ってほんとに難しいと思う。少しでも現場を思いやる態度を見せてくれればいいのに、経営者側と現場の世代の違いなのだろう、かれらの考え方が固定化してしまっており、自分たちがやってきた価値観を崩すことができない。まあ仕方ないといえばそれまでなのだが、団塊世代が過ごしてきた労働環境と現在の30代〜40代が過ごしている労働環境は大きく変わっているのだ。また、団塊世代のネットやケータイに対する違和感はその象徴かもしれない。頭ではこれが現代ビジネスの必須アイテムであることは理解しているのだろうが、それに依存することに対する違和感が世代によって異なる。

物心ついた時からインターネットやケータイが当然のように存在し、それをあたりまえに使いこなす世代をデジタルネイティブという。いまの20代前半まではまさにそれにあたる。さらにデジタルイミグレイト(移民)という言葉がある。これは人生の途中でITが普及し始め、ビジネスのツールとしてこれを習得した世代を指す。デジタルイミグレイトのなかでも世代間で感覚が異なり、50代以上と40代以下には微妙な温度差があるような気がする。

雑駁に言うと団塊世代を含む50代以上は人と人のつながりに対して、ネットやケータイを含めることに違和感があるのだろう。デジタルネイティブは何の違和感もない、というよりもそれが当然であると思っている。30代〜40代はデジタルネイティブのような感覚はないが、それでもデジタルイミグレイトのなかではまだ適応している方ではないか。敷衍すればデジタルネイティブと50代以上のデジタルイミグレイト(社長、部課長クラス)の板挟みになっているのが、われら30代〜40代のデジタルイミグレイトなのだと思う。

ケータイがなかった1980年代、われわれはどうやって友人と連絡を取っていたのだろう。たとえばサークルの部室に顔を出せば誰かがいた。図書館や学食に行けば誰かがいた。バイトに行けば誰かがいた。友人のアパートに突然押し掛け酒盛りになった。部屋には固定電話があったし留守番電話機能という流行のアイテム(笑)があった。

バブル世代は甘えている、若い頃に良い目をみただろ、と言われてもなあ…私はバブルの恩恵なんて殆ど受けてないけど…と暑い午後にぼやいてみる。

贔屓の引き倒し?

本を読んで「相対主義とは、絶対的価値基準を認めない。即ちあらゆるモノは等価であり、偉大なモノ、高貴なモノ、凡庸なモノ、それらはすべてない」というメモをしたのだが、肝心の書名をメモし忘れたので出典がわからない。

ま、そんなことはさておき…大相撲が野球賭博で大揺れだが、誤解を恐れずに言えばそんなことはどうでもいいのである。そもそも相撲界とは異界であり、一般社会とは隔絶されたところ。人間離れした膂力を有する類い稀なる巨人たちが、土俵の上で神に奉納する戦いを繰り広げる神事であり藝能なのである。一般社会の物差しで計るべきものではない。真剣勝負だとか正々堂々という「一般的な」要求を突きつけてはいけないのである。

相撲は言ってみればプロレスと大差ない藝能なわけで、さらに言えばいつの間にかテレビ画面から消えてしまった小人プロレスと表裏一体、というか同じものである。もし小人プロレスが差別的で公序良俗に反するならば、巨人の角力取りも差別的で公序良俗に反するものだろう。相撲が国技というのは実はとても根拠薄弱であり、いつの間にか「そういうことになっている」のだ。

プロレスもジャイアント馬場、アントニオ猪木という2大カリスマを頂点とする、全日本プロレスと新日本プロレス(国際プロレスもあったか)の抗争という、わかりやすい構図だった頃はよかったが、藝能に堕したと叛旗を翻したUWFの旗揚げによりふたたびカルトでマニアックなものになっていった。

かつてゴールデンタイムに放映されていたプロレス中継が、いつの間にか深夜枠やケーブルテレビにその座を移し、ひたすらマニアックな藝能に変貌していったように、NHKの大相撲中継だってBS放送だけで放映したっていいのである。相撲は断じてスポーツではなく藝能。小沢昭一ではないが河原乞食に等しいものなのである。

大相撲も、良識ある人々が満足して観られる正々堂々の勝負を行う団体と、良識ある人々は眉を顰めるものの、相撲界のすべてをひっくるめて楽しめる「ごっつぁん体質」が横溢した団体の2つがあればいいのかもしれない。公序良俗に反した一点の曇りもない相撲だけを観たい人もこれなら満足だと思う。

いや、そんなことではイカン、大相撲とはかくあるべきだ、などと言う輩もいる筈だが、それはもう贔屓のくせに生意気である、と言われて然るべきであろう。もともと贔屓がいて大相撲があるのではなく、大相撲があるから贔屓がいるのである。そもそも藝能神事なのだから、贔屓なんぞがとやかくいうべきものではない。

とはいうものの、大相撲の将来はどうなるんでしょう。なんだかちんまりとまとまった大相撲って、あまり観たくないなあ(苦笑)

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