2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« 粋な学者 | トップページ | 名人の弟子 »

幻想としての江戸

先日、渋谷のリブロで三遊亭圓丈の『ろんだいえん:21世紀落語論』(彩流社)を見つけた。渋谷のリブロで売られているあたりがかっこいい(笑)

圓丈は言うまでもなく新作落語のスター、というか実験落語の王様というか、とにかく日本の古い古い伝統社会であるところの落語界に身を置いて、しかも常に前衛であり続けている落語家である。昭和の大名人・六代目三遊亭圓生の弟子で、三遊亭圓楽や川柳川柳が兄弟子にあたる。その独特の個性とまさに圓丈ワールドと呼ぶしかない数々の新作(創作)落語で一部の落語ファンを惹き付けて止まない。斯く言う私もそうだが…何が良いといって圓丈の落語は古典に寄りかからないところが潔いと思うのである。

古典落語というのは言わば「大樹」であり、古典落語を演じていれば「寄らば大樹の陰」というか、少々下手な高座でも何となく済ませることが可能。客も「コレは八っあん、熊さんが出てくるから古典落語だナ、長屋のお内儀さんとか大家さんとか出てくるんだナ、で最後になんかオチがついて終わるんだナ」という、一種の安心感というか何も考えなくてもいいというか、まあそういう境地に安住することができる。ま、私はそういうの割と好きですけどネ。寄席だと二十人からそこらの藝人が出てきて入れ替わり立ち替わり落語を演じる。ひどいときは一時間くらい何も考えなくてもいいことがあるくらいだ。さらに寄席以外での落語会でもそういうことがある。

しかしそれはいくらなんでもアレじゃないかな。たまには垂れかけた目蓋をパチッと開かせてくれる高座があってもいいだろう。「寄席とは退屈を楽しむところである」というには色川武大の名言だが、私がこの境地に足を踏み入れたかナ?と感じられるようになったのは割と最近のことで、色川氏の名言を知らなかったら今頃まだボヤイていたことであろう。さて寄席の香盤に圓丈の名があるとこれは楽しい。前後に出てくる落語家とは雲泥の差がある、というか落差が凄い。八っつあん、熊さんどころの騒ぎではない。何を喋るのやら皆目見当がつかないところがスリリング。

いったい何が面白くて落語家をやっているのだろうと思わせる落語家は実に多い。圓丈もそう思っているようで哀切極まりない名作『横松和平』のマクラでも「東京には落語家が五百人もいるんですが…そんなに要りません。新聞配達じゃないんですから」と笑わせているがコレは圓丈の本音であろう。以前にも書いたような気がするが、江戸前の落語なんてものは今やもう無い。私は江戸の風情だとか江戸の人情だとか、そういうことには殆ど興味が無い。そういう落語を演じられたのは古今亭志ん朝が最後で、今やもうそういう落語家はいません。そんなものを求める客がまだいるという現状がすでにヘンだと思う。

まあこれは最近の落語ブームでマスメディアがこぞって落語や寄席を取り上げ「寄席に行くと着物を着た落語家が出てきます。八っつあん熊さん与太郎さん、江戸の風情です、江戸の人情ですねー、こういう趣味が今かっこいいんですよー」と言うのに乗せられている。つまり現代の観客は「幻想としての江戸」更に言えば「幻想としての江戸、のようなもの」を楽しんでいるわけだ。

もちろんそれが悪いと言っているのではない。しかし「江戸」は「もう無い」のである。そして「江戸」という冠を取っ払った「風情」とか「人情」を、現代の感覚で演じているのが立川談志であり、立川志の輔、柳家喬太郎、春風亭昇太、そして三遊亭圓丈だ。だからこそ彼らは他の落語家を凌駕し、かつ多くの落語ファンを魅了するのである…てなことを考えながら、こないだ川柳・圓丈二人会を聴きに行ってきた。

« 粋な学者 | トップページ | 名人の弟子 »

落語・演藝」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 幻想としての江戸:

« 粋な学者 | トップページ | 名人の弟子 »