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2009年6月

郭英男

郭英男『Voice of Life-Difang』を聴く。

郭英男は臺灣先住民族アミ族の長老、その卓越した歌声で一躍世界的に有名になった爺さん。民族名はDifang、郭英男というのは漢族風の姓名である。アミ族は臺灣の東部(花蓮から臺東、塀東辺り)に広く居住している。日本統治時代には高砂族という名称で他の民族(タイヤル族、プユマ族など)と一括りにされていた。ちなみにかつて中日ドラゴンズで活躍した郭源治もアミ族出身である。

臺灣に出向くようになってから郭英男という名を知ったが、その時にはもうCDは店頭では見かけなくなり、郭英男も2002年には81歳でこの世を去ってしまった。というわけでいまその歌声を聴いているわけだ。郭英男がソロを取った後、コーラスが入ってまた郭英男のソロに戻る、というのを繰り返すのが基本。この微妙な節回しとハーモニーが絶妙なのである。ちょっと聴くと気仙沼あたりの漁師が歌っているようだが、日本の民謡はハモリがなくあったとしてもユニゾンなのですぐわかる。

しかしまあこの爺さんの歌声ときたら、いやはやなんとも心に沁みる。まさに神の声、いやいやそんなことを言うと言い過ぎだ、大自然の声だ。それにしてもいいなあ、この歌声。

携帯電話と自由は手をつなぐか?

古雑誌をパラパラめくっていたら携帯電話の予測についてのコラムを見つけた。タイトルは『ポケットベルの普及と自動車用電話の出現、携帯電話の時代はいつくるか…』、掲載誌は『ブルータス』1巻9号(1980.12.1)、署名はSF作家の高斎正。今から29年前のコラムだ。

自動車電話が普及し始めたこと(当時としてはまだ高額であるが)から始まり、かつてはオープンリールを使っていた録音機も、煙草の箱くらいのマイクロカセットレコーダーにまで進化・小型化した経緯を述べ、そして電話機もやがて小型化=携帯電話へと進化していくだろうと筆を進める。いくら小型化するといっても実用に堪えない形状では意味が無い。

「人間の耳と口の距離はほぼ決まっているから、携帯電話のイヤホンとマイクを別々にするならともかく、扱いやすい一体式にするなら、大きさは自動的に決まってしまう。使う時には大きく携帯時に小さくとなれば、折畳み式であろう。ロングサイズのたばこの箱くらいの大きさで、ポケットベルと同様に、アンテナなしでも呼び出しを受けることができる。(中略)マイクとスピーカーが口と耳の間隔にセットされ、中央部にカード電卓のようなプッシュホンの押しボタン式ダイヤルが現れる」

まあ、ちょっと人間工学をかじった人ならこれくらいのことは予測できたのであろうが、実に卓見である。さらにここがSF作家たる所以なのだが、価格も一般大衆が使えるほど安価になる、と論じたうえで「そうなれば一億総背番号ならぬ一億総電話番号という時代だ」「これは便利な機械であるが、ポケットベルでさえ、会社や家庭に縛りつけられていると感じている人には、人間の自由を束縛する機械が、一段と進歩したと感じるかもしれない」と断じている。これもジョージ・オーウェルの『1984』や筒井康隆の『48億の妄想』に代表される衆人監視社会の現実化である。

しかし高斎正の予測がほぼ的中した現在「人間の自由を束縛する機械が、一段と進歩したと感じる」人はどれだけ生き残っているのだろうか。さすがに携帯電話が「ただの電話機」ではなく「電話機」と「メール」「写真・動画撮影」「動画受信・配信」「ビジネス」までを包括したモノにまで進化するとは彼も予測できなかっただろう。ここまで携帯電話が進化すると「人間の自由を束縛する機械が、一段と進歩したと感じる」モノよりは「自由を束縛されてまでも使わざるを得ない」モノになりつつある。

人は携帯電話など使わなくても生きていけるんだけど、今の時代、携帯電話を持たないことは「社会とつながることをあるていど拒絶する覚悟」が必要になる。ま、自由のためにはそれなりの「覚悟」が必要なんだよね。自由のためにそんな「覚悟」をするよりは、携帯電話で縛られているくらいのほうが心地良いわけで、現代人の言う「自由」なんてそんなものなんだろう。

日本の車窓から

小田急線下北沢駅にて

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駅長「わが駅でもマスコットキャラクターを作ってはどうか」
助役「は、まことにけっこうなご発案と存じます」
主任「それではさっそく駅員に命令いたします」
山田「えー、忙しいのになあ…」
主任「山田君、どうかね? こないだの件」
山田「時間無いんで…こんなもんですけど」
主任「(なんだこりゃ)まあいいんじゃないか」
助役「(なんだこりゃ)今日が締切だしなあ」
駅長「(なんだこりゃ)ま、とりあえずってことでいいんじゃないか」
まさか…ね


JR武蔵溝ノ口駅にて
大東北特集です。
米沢牛にさくらんぼ、玉こんにゃく…山形っていいところです。

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世田谷線三軒茶屋駅にて
こうして見るとヨーロッパの鉃道みたいです。

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楽しい読書生活

何しろ本を読むのが好きなもので家には本が山積みになっている。といってもちゃんと本棚に入れればいいわけだが…ところが本棚がいっぱいなのでしかたなく床に積んであるわけだ。当然この次のステップとしては、1:本棚を増設して収納する 2:処分する 3:現状維持 ということが考えられる。

1については多少考えてもいるのだが際限が無くなる恐れがあるため躊躇しているところだ。わが家は図書館ではないし、私は貴重本のコレクターでもない。

2はいちばん現実的な方法である。読んだら処分する。なんとすがすがしいことであろう。たぶんこの方法が一番いい。古本屋に売るという方法があるが、これはブックオフなどの新古書店に頼むのが現実的。というのは街場の古本屋はウチにあるような駄本を山ほど引き取ってはくれないからだ。

街場の古本屋に電話を入れても「ウチはご自宅まで買い取りには行きません。持ってきてくれたら引き取りますよ。あ、全部引き取るかどうかは見てみないとね」「文庫本が数百冊? ああダメダメ、他をあたってください」などと言われるのがオチ。

更に本好きの友人にいきなり送りつけるという荒技がある。ただしこの方法には

ア:感謝される 
イ:怒られる 
ウ:お返しに本が送られてくる 

という副作用がある。

3 まあ当面これでいくことになるだろう。

世の中には読書好きがたくさんいて、そのため読書を楽しむためのグッズというものがたくさん売られている。売られているということは買う人がいるということだ。かくいう私も革製を含めて数種類のブックカバー(文庫用、新書用、四六判など)を持っていて実際に使っている。ブックカバー、しおり、読書用ライト、本棚、書見台などなど、なんとまあ世の中にはかくも多くの読書グッズがあるものだ。

ページを開いたままにしてデータ入力をしたりするのに便利な「ブックストッパー」というのがあって、これは便利なので実際に職場で使っている。これを見た同僚が「あ、これいいですねえ」といって早速購入してきた。

通勤電車の中で立ったまま本を読むときに便利、というふれこみの「サムシング」…あ、これは something じゃなくて thumbthing です。親指サムってことですな。私も買ってはみたもののどうも馴染めなくて放ったらかし。すでに立ったまま片手で本を読む技術については十数年の蓄積が、つまり自分の「型」が出来上がっているため、一見便利に見えるこのサムシングはかえって使いにくいのである。ま、いろいろあるわナ。

本のカバーにバーコードが印字してあるが、あれがISBNである。ISBNというのは International Standard Book Number : 国際標準図書番号 の略である。グループ記号(国別あるいは言語圏別)+出版社記号+書名記号+チェックデジットからなる13桁(2006年以前は10桁)の数字。

手もとにあるリチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』(新潮文庫)を例に取ると、978-4-10-214702-3と印字してある。978という数字は、それまでの10桁では対応しきれなくなったため、あらたに先頭に付与された番号である。その次の 4 が日本(日本語圏)、10 が新潮社の番号である。ちなみに0は岩波書店。なぜか納得。 214702 というのは新潮社がこの文庫本に与えた固有の番号、最後の 3 がチェックデジット。

で、このISBNを個人でデータ入力するための「バーコードリーダ」なんてもの売られている。個人蔵書をパソコンに入力して蔵書管理をしたい人にはうってつけのアイテムなのだそうだ。私に言わせれば個人でこんなことをしないほうがいいです。まあ楽しんでいるならそれはそれでけっこうなことだが。

2009年6月4日

早いものであの日から20年が経つ。
私は毎年あの日が来ると日本の何処かで黙祷する。
別に民主中国支持者でも熱烈なリベラリストでも無い。
ただ海を隔てあの日を共にした同世代の日本人として。
他の人よりちょっとだけ中国という国に深くかかわった日本人として。
今夜も公園の桜の樹の下で黙祷したのであった。

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過剰な物語

池上永一『シャングリ・ラ(上・下)』(角川文庫)を読む。

舞台は近未来、地球は温暖化が加速しCO2削減がキーワードとなっていた。世界は資本主義経済から、炭素を削減することで利益を生み出すから炭素経済に移行した。CO2排出国の株価は下落し排出を削減した国の株価は上がる。カーボニストと呼ばれるトレーダーはCO2の状況に一喜一憂している。東京は都市機能を平地からアトラスと呼ばれる超高層建築に移した。東京の中心地には摩天楼が聳え立ち、渋谷や池袋は深い森に覆われていた。

アトラスに住めるのはあらかじめ恩恵を受けている富裕層と抽選に当たった恵まれた市民、それ以外の人々は森林に取り残され難民と化していた。政府はCO2削減のために東京を森林に変えた。ところが森林は急速にかつての街を呑み込み、瘴気を発する暗黒の森と化して難民を恐れさせた。やがて政府の反政府ゲリラたちが政府に向かって攻撃を開始した。

元・女子高生の北条國子は反政府ゲリラメタル・エイジの拠点ドゥオモの若き総統だ。モモコは武術の達人でニューハーフで國子の“母親”、祖母の凪子、ドゥオモの武闘派リーダー・武彦、牛車に乗った十二単の謎の少女美邦と彼女に付き従う医学博士・小夜子、炭素経済市場に殴り込みをかける少女・香凛、政府軍の若き兵士・草薙、その他さまざまなキャラクターがそれぞれの都合と利益のために凄絶な闘いを繰り広げる。

香凛が生み出した電子頭脳メデューサは香凛たちに莫大な利益をもたらすのだが、やがてメデューサは自らの知能を獲得し世界を破滅に追いつめていく。アトラスを司る電子頭脳ゼウスと國子たちメタル・エイジの死闘、やがて國子の出生の謎にまつわる鍵が東京を世界を変えていく。

いやはやトンデモナイ物語である。何もかもが過剰だ。情報量も描写も爆撃も死者も負傷者も、そして面白さも何もかもが過剰。鬱陶しい梅雨の入り口で読むにはなかなかの近未来SFの佳作である。

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