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2009年4月

村上春樹を探せ!

今日は朝から電車が急病人発生ということで大混乱。具合悪かったら休めばいいのにねえ。と言っても休めない用事があったのか。健康あっての人生だ。私も肝に銘じよう。健康のためなら死んでもいい(笑)

午後から都内へ出張。車内で岡本薫著『世間さまが許さない!』(ちくま新書)を読む。これ、すごい面白い!読み終わったらまたレビュー書こう。帰りは都心から郊外へ帰宅。それほど混雑していなかったのが幸いか。

ひさしぶりに明るいうちに駅に着いたので景気づけ?に立ち呑み屋で酎ハイを呑み、古本屋で河野典生の短編集を見つけたので買う。『街の博物誌』『緑の時代』なんか高校生の頃よく読んだなあ…

村上春樹の『1973年のピンボール』を読みたくなったのだが、たぶん家の何処かにあるはず…探して読むか、買って読むか…悩むところである。

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小ネタ2題

イチローが張本勲の持つ通算安打記録を抜いたニュースを伝える毎日新聞のスポーツ面。囲み記事の中にいかつい顔でバットを構える張本勲の写真に注目。ちゃんと東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)のユニフォームを着ている。袖に輝く東映の三角マーク! ジャイアンツの張本じゃなくてフライヤーズの張本であるところはまったく正しい。毎日新聞の慧眼であろう。

三遊亭圓丈のドキュメント落語『悲しみの大須』を聴いた。マクラで今は無くなった寄席、人形町末広について「良い寄席でしたねえ〜…夏暑く冬寒い…秋には便所でコオロギが鳴く…自然がいっぱいで、まるで大草原の小さな寄席」…しみじみとおかしくて笑ってしまった。ああ、大須演芸場に行かなくちゃ…

Photo
名古屋名物モーニング

中華の歌ごえ

『ザ・ベスト・オブ・アーメイ』
臺灣のスーパースター、アーメイ(張惠妹)のベスト盤。臺灣に行くとテレビや新聞記事でアーメイがどうしたこうしたというニュースをやたらと目にした。陳水偏総統の就任式で中華民国国歌を歌ったら(当然なのだが)、中華人民共和国政府が怒って大陸進出を妨害したとか、臺灣独立阻止の学生デモに遭って大陸でのコンサートが中止になったとか、中共を指示していると中傷されたとか、臺灣の歌手は大変だなあと思った。というよりは一挙手一投足がそこまで注目されるのだから、こりゃたいしたスターなんだなと思ったものだ。で、今回初めてまともにアルバムを聴いてみたら…これが凄い。巧い、かっこいい、素敵! バラード、ラブソングにラテンロック、これだけの歌唱力と表現力は凄い。しかも見目麗しきDIVAときた。こりゃスーパースターだわな。

『為你含情』
香港のインディーズバンド my little airport の最新作。と言っても全然聴いたことなかったのですが、男女二人組のユニットでフォークソング、フレンチポップスみたいな曲や、ユル~いパンキッシュな曲など、全体的に爽やかなんだけど何処かネジレてるアルバム。これは面白い。林一峰なる歌手とのコラボということですがこの人も知りません。香港ポップスはフェイ・ウォン(王霏)とサンディ・ラム(林憶蓮)くらいしか知らないもんなオレ。広東語の抑揚がまた良い味出しています。アコースティックギターとリズムボックスのユルさも良い。

『甜蜜的負荷ー吳晟詩、歌』
臺灣で買ったCD。試聴したらいっぺんに気に入って買った。冒頭から羅大佑の嗄れた歌声が流れてくる。臺灣の高名な詩人・吳晟の詩に、彼をリスペクトする羅大佑、陳珊妮らが曲をつけ、自ら歌ったこのアルバムは、臺灣の暑い夏、木陰から吹いてくる涼しげな風、雨の調べが心に染みてくる素敵なアルバム。中華ポップスだけじゃなくてこういう音楽があることも知ってほしいなあ。

自分探しが止まらない

湯浅学『あなのかなたに』(扶桑社)
幻の名盤解放同盟のメンバーとして知られる著者の自伝的小説。時代背景が1980年代ということもあり、あの無闇に明るかったあの時代の雰囲気がしみじみと身にしみる。主人公が中古レコードを漁る場面はまさに自分と同じではないか。主人公が知り合いのDJに頼まれ、オシャレでスカシた店でレッド・ツェッペリン、春日八郎、ジョン・リー・フッカー、郷ひろみ、ボブ・ディラン、南沙織、チョー・ヨンピル…とレコードを回して顰蹙を買う(笑)心休まる小説。

絲山秋子『絲的サバイバル』(講談社)
絲山秋子は芥川賞作家で鬱病で大酒飲みで独身で無頼派、彼女が書く小説はとても良い。そしてエッセイもまた良し。前作『絲的メイソウ』に続くこのエッセイ集は、絲山秋子が毎回さまざまな場所で野外キャンプをするという内容。ひとりキャンプと引っ越しは少しだけ似ている、というところに共感。私はキャンプなどしないのだが、ときどき出かける独り旅と基本的な部分は共通している。

竹内実『中国という世界:人・風土・近代』(岩波新書)
中国について他の人より詳しいと認識されると、必ず「どうして中国は……なんですか?」「中国人は何故……なんですか?」「中国では……なんですか?」と尋ねられることが多い。これが中国文学・中国学の泰斗である竹内実であれば尚更である。著者が軽くボヤいてみせる「序章」は何とも可笑しい。中国入門としても優れた一冊であると思う。

速水健朗『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)
「自分探し」なるものがもてはやされて久しいが、最近はそんな風潮は廃れてしまったのかと思っていた。しかしそんなことはなく今も若い人たちは自分を捜しているらしい。たぶん自分探しというものは生き方のことなのだろう。生き方とは職業と不可分だから、自分探しをすごく大雑把に言うと、今の職業とそれにともなう日常に満足できないということだろう。自分探しに邁進するのは別に悪いとは思わないが、自分ばかり可愛く思うのもたいがいにしてもらいたい、とも思う。なんかオヤジだなあ、オレ(笑)

島田裕巳『平成宗教20年史』(幻冬舎新書)
「自分探し」と不可分なものとして宗教がある。特に1980年代後半から現在まで、つまり昭和末期から平成にかけて日本社会を揺さぶった新宗教、スピリチュアルブームは、若者の自分探しとぴたりとリンクしている。オウム真理教に代表される新宗教があれだけ若者をターゲットにしたのがその証拠。新宗教はスピリチュアルというかたちに変わって今も自分探しに奔走する迷える子羊を絡めとっている。ま、それで本人が幸せになれるならいいんだけどね、そうじゃないところが難しい。

旅はビール

リンクを貼ってくれているMarilaさんのブログの記事「日本人であるコト」を読んでこんなことを考えた。

最近の若者は海外旅行をしなくなっている、という調査結果や報道がいくつもある。関連記事についてインターネットや新聞記事で調べてみると「お金がない」「時間がない・休みがとれない」「さほど魅力や興味を感じない」「めんどうなことはイヤ」などいくつかの理由があるようだ。以前と比べてテレビの旅番組やインターネットの普及で地球規模での同時性が実現、つまりあの国はどんな国なんだろうなあ…という情報が画像や動画で手軽に確認できるようになったことも関係あるかもしれない。

江戸時代まで遡らなくてもついこの間までは日本国内でもそれぞれの郷土色が濃厚に存在していた。鈴木牧之の『北越雪譜』が江戸の読書人を感嘆せしめたのは、江戸の読書人にとって雪国越後の風俗奇譚がまさに「異国」にほかならなかったからであろう。ついこの間まで国内でも「異国」は存在していたのである。しかし私の拙い鐵道旅の経験から言っても、現在はどこの街にもコンビニがあり、吉野家、ユニクロ、イトーヨーカドー、イーオンがあり、どこに行ってもみな携帯電話で通話したり画面を見つめたりしている。郊外の急速な発展によりどこに行っても同じような郊外風景が出現し、社会学者の宮台真司が言う「終りなき日常」のまったり感や閉塞感が漂うようになってしまった。

しかし「海外旅行に行く若者が減少」といっても、そもそも日本の世代別人口に占める若年層の割合が減少しているんだから、「最近の若者たちは海外旅行をしなくなった」というより「若年層そのものが減少しているから海外旅行に行く若者も減少」というのが正しいのでは? 当然人口ピラミッドの多数派を占める中高年の海外旅行は増えている。中高年、特に現在の年金受給者は金もヒマもあるし、団塊世代(『深夜特急』世代?)は若い頃にバックパッカーだった人も多いだろうから海外旅行に行く人も多いだろう。それにひきかえ現在の若年層は不況のあおりを受けて金もないだろうし、サラリーマンなら「長期休暇を取って海外へ」などという風潮でもなかろう。

「金がないから海外旅行に行かない」といってもかつては「金がない」から「貧乏旅行」をするという意志があって『地球の歩き方』を抱えたバックパッカーが海外を目指したのである。もしもほんとうに海外旅行に行かない若者が増えているとすれば、「金がない」ので「貧乏旅行」をするしかないけどそれはいろいろとリスクも増えるしめんどうくさいしそんなのイヤだし…だったら家でまったりしてたり仲間と遊んでいたりしてるほうがいいし街歩きしてたほうがお金もかからないし…要するに海外旅行のステイタスが低くなったのかな。

やはり何でもいいから海外に出かけて街のリアルな空気を吸い、日本では味わえない不便さや不条理さを噛み締め、あるいは日本を越えた合理性や快適さに触れ、その結果「ひどい国だな…やはり日本はいい国だなあ」「なんだこの国は? でもなんか面白い!」「なんて素晴らしい国なんだ! それにひきかえ日本は…」という経験値を上げたほうがいいよ、と私は思うのである。などと言う割に私は中国と臺灣しか行ったことがないし、国内も北海道と中国・四国と九州と沖縄には行ったことがないんだよね(苦笑)

やっぱり旅先で飲むビールは美味しい…いつかドイツに行って朝からビール飲んでジャガイモとソーセージと酢漬けキャペツを食べて散歩するのが夢。

私のお薦め旅本……

藤原新也 『全東洋街道』(集英社文庫)
沢木耕太郎『深夜特急』(新潮文庫)
谷 譲次 『踊る地平線』(岩波文庫)
金子光晴 『どくろ杯』(中公文庫)
桂川甫周 『北槎聞略』(岩波文庫)
鈴木牧之 『北越雪譜』(岩波文庫)
河口慧海 『チベット旅行記』(講談社学術文庫)
高野秀行 『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)
小林紀晴 『ASIAN JAPANESE』(新潮文庫)
星野博美 『愚か者、中国をゆく』(集英社新書)
内田百閒 『阿房列車』(ちくま文庫)
宮脇俊三 『時刻表2万キロ』(河出文庫)
川村 湊 『満洲鉃道まぼろし旅行』(文春文庫)
高田京子 『台湾温泉天国』(新潮OH文庫)

練馬鉃道

こんな夢を見た。

学生時代の友人と古く大きな旅館に泊まっている。旅館は江戸時代に建てられたもので、私たちが寝泊まりする部屋は天井が高く梁がむき出し、外は曇天で部屋の中は薄暗い。明日は出発しなければならないので、時刻表を広げてどの路線で東京に戻ろうかと思案中。

私たちはどうやら新潟と福島の県境辺りにいるらしく、磐越西線か只見線で会津若松経由で郡山に出ようかと話し合っている。よくよく時刻表を眺めると見知らぬ路線が掲載されていた。「練馬鉃道? しかも練馬鉃道の終点は哈爾濱(ハルビン)って…これは国際列車?」面白そうなので友人と練馬鉃道の駅に行くと峻険な山の向こうからやってきたのは旧型の西武線車輛。ふたりで黙ってロングシートに座って揺られていると、車窓から見える風景は一面の雪景色でしかも吹雪がひどくなる。

「みなさん、これからどちらへ向かわれるんですかあ?」レポーターの若い女性がマイクを向けてきたので驚いて見ると、『グッドモーニング』(1980年代半ばに放送されていた深夜番組)の司会をしていた大島智子だった。「ええ、これから東京に戻ります」と答えると車掌が「この列車は東京には行きませんよ。ところでみなさんパスポートはお持ちですか?」と言うではないか。そんなものは持っていないと答えると、とたんに嶮しい顔になり携帯電話で「3号車に不正乗車、ただちに下車の措置をとります」とどこかに通報される。

いつの間にか列車は駅に停まっていて私たちは降ろされた。走り去っていく列車を見送ってふと周りを見渡すと、そこは一面のススキの原っぱで空は真っ赤な朝焼け(夕焼け?)。レールと枕木がゆらゆらと動いていて線路はまるで巨大なムカデのようだ。友人は何処かに行ってしまったらしく私はひとりになっていた。崩れそうな駅舎から駅員がこちらに向かって歩いてきたので顔をみると、私が幼い頃に亡くなった祖父…というところで目が覚めた。

フロイト好きの人がいたら勝手に分析してください(笑)

柳家喬太郎

もう10数年前、新宿末広亭でぼんやり落語を聴いていたら柳家喬太郎が高座にあがった。たぶん仲入り前だったか仲入り後だったと思う。演じたのは入れ替わり立ち替わり奇妙な婦人警官が登場する『派出所ビーナス』…寄席であんなに笑ったのも珍しいくらいのおかしさだった。ちょうど真打昇進を控えていた頃だったはずだが、まさに若手のホープといった実力を遺憾なく見せつける高座だった。

それからあちこちで喬太郎の落語を聴いたがハズレだったという記憶はあまり無い。『すみれ荘201号』『ほんとのこというと』『鍼医堀田とケンちゃんの石』『冬のそなた』『巣鴨の中心で、愛をさけぶ』…新作派のイメージが強い喬太郎だが古典落語もきちんと演じられる実力派。最近聴いた『竹の水仙』も抜群の面白さでiPodに入れて帰宅途中の電車のなかで疲れた身体を癒している(笑) 

極端にデフォルメされた異常な登場人物が頻出する演出も、ある意味で立川談志言うところの「イリュージョン」の範疇に入るだろう。女子大生から新妻、中年サラリーマン、魚屋のオッサン、長屋の住人から大家、町人、武士、殿様…登場人物の造形がまた巧い。いわゆる「キャラが立っている」のである。そして私にとってはこの非日常性がたまらなくおかしいのである。

喬太郎の落語が凄いのは、これらの非日常性が日常性のなかに自然に共存しているところだ。もともとフィクションである落語の中に、さらに異常なメタフィクションが突然立ち現れる。しかもそれらがいちいち「ああ、なんかこんな人いるよなあ…こんなことあるよなあ」と思わせる。そしてその繰り返しが聴くものの心を高揚させ一挙に笑いの坩堝に叩き込まれてしまう。

40代も半ばに達した喬太郎、やや末枯れた味わいも漂わせる雰囲気になってきたが、それでも新作に古典にその話藝はますます磨きがかかってきたと思う。落語を初めて聴く、あるいは聴こうとしている方には自信を持ってお薦めします。

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