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2009年2月

時をかける国

リービ英雄『我的中国』(岩波書店)を読む。著者は1950年、ユダヤ系アメリカ人の父とポーランド移民の母とのあいだに生まれた。外交官だった父の赴任先の臺灣、香港、香港で幼少期を過ごし、60年代後半には家出して新宿をうろついていたらしい。アメリカに戻ったあとプリンストン大学・大学院で日本文学を学び「柿本人麻呂」で博士号取得、スタンフォード大学等で教鞭をとったあとに来日。日本語を母語とせず日本語で創作活動を続ける希有な作家。

ずっとリービ英雄というのは日系アメリカ人の作家なのかと思っていたが、実はリービ・ヒデオ・イアン(Ian, Levy Hideo)なのだった。ミドルネームの「英雄」は父の友人だった日本人に因んでいるという。書店でこの本を見つけて、なぜリービ英雄が中国?と疑問が湧いたのだが、実はこういう経歴の持ち主であり、日本語も中国語も話せるということを知った。ぱらぱらと立ち読みしたら面白かったので読む。リービ英雄とは逆に、日本語(母国語)以外の外国語で創作を続ける日本人作家というと、私は多和田葉子(ドイツ語)しか知らない。

国際都市北京や上海ならいざ知らず、いまだに中国の内陸部に行けば外国人はまだまだ珍しい。日本人であればまだ東洋人だから特に珍しがられることも少ないし、そもそも中国人にとって日本人や韓国人は偉大なる中華の属国だから、あまり気にとめられもしないのかもしれない。しかしどう見ても「老外」(西洋人)の風貌をしながら、日本に住んでいて、しかも中国語を話すリービ英雄は、中国人にとってはなんとも不思議な存在なのだろう。

ちょうどエドガー・スノーの『中国の赤い星』を再読していたところだったので、この中国革命の聖地・延安を訪れるルポルタージュ的エッセイは実に面白かった。なんだか延安に行ってみたくなってしまった。それにしても中国という国は、未だに時間の壁を超えたモノがあちらこちらに存在するのだなあ。面白い国である。

中国を題材とした作品『天安門』(講談社)、『ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行』(講談社)も一読の価値あり。

真実を記録すること

ふとしたことから高杉一郎『極光のかげに』(岩波文庫)を読み返した。戦前の有力な文藝雑誌『改造』の編集者であり、同時に優れたジャーナリストだった高杉一郎(本名:小川五郎 1908-2008)が、戦後シベリアに抑留された4年間の収容所生活を描いた記録文学。同書には、軍事俘虜たちがシベリア鉃道建設のための労働力として劣悪な環境の下で酷使され、極寒の地に次々と倒れていった事実が淡々と綴られている。高杉一郎が体験した捕虜収容所(ラーゲリ)と、「偉大なる同志スターリン」が頂点に立つ社会主義ソヴィエトの実像が記録され、輝ける社会主義国家の光と影を伝える優れた記録となっている。私が大好きな長谷川四郎『シベリア物語』(旺文社文庫→講談社文芸文庫)と同様、想像を絶する苛酷なシベリア抑留生活を静謐な筆致で描いた名著だ。

敗戦後の日本では、戦前に弾圧されていた社会主義が、日本を戦争へと導いた軍国主義への反動から大きく躍進を遂げていた。同時にソヴィエト中央の最高指導者であり社会主義の輝ける星としての「偉大なるスターリン同志」は、日本の社会主義者にとっては神聖にして侵すべからざる存在だったのだ。しかし当時のソ連ではスターリンはすでに独裁者であり、ロシア革命の同志たちを次々と弾圧・処刑し恐怖政治をほしいままにしていた。ところが当時の日本共産党中央はそのことを認識せず、スターリンを貶めることは社会主義を貶めることとして激しい拒否反応を示したのである。そのため『極光のかげに』が刊行されるとその評価は二分され、激しく批判したのは日本の社会主義者たちだった。特に日本共産党中央、プロレタリア作家から市井の社会主義青年たちまでが激しくこの書を批判したという。つまり「われら社会主義者の優れた領袖である偉大なスターリン同志の指導の下、この書に描かれるような軍事俘虜を虐待するような事実は社会主義ソヴィエトにはあり得ない!」という批判である。

『極光のかげに』に続いて、太田哲男『若き高杉一郎:改造社の時代』(未来社)を読んだ。ここではこれまで紹介されなかった高杉一郎の前半生から『改造』の編集者を経て応召されるまでを詳しく描いていて秀逸。高杉一郎がエスペランティストだったことは『極光のかげに』でも記されているが、エスペランティストの国境を越えた連帯がなんと強固なものだったのかと初めて知らされた。『私のスターリン体験』(岩波現代文庫)でエスペラント語を学んだ青春時代が回想されているが、この経験が『極光のかげに』でスターリンのエスペランティスト弾圧を敏感に感じ取ることになる。

また当時はマイナーだった同時代の中国文学者たちとの交遊にも驚かされた。増田渉、竹内好、松枝茂夫といった日本の中国文学者はもとより、郭沫若、郁達夫、田漢、蕭軍など中国の作家たちとの交遊が、戦後の中国視察団としての訪中で巴金、老舎らとの交遊にも繋がっていく。この他アグネス・スメドレー『中国の歌ごえ』の翻訳や、盲目の詩人エロシェンコの紹介、朝鮮人作家たちから、中野重治、宮本百合子との交遊と、高杉一郎のやってきたことはもうただの編集者の業績ではなく超一級のジャーナリストの業績と言うべきものだ。

『征きて還りし兵の記憶』(岩波現代文庫)では『極光のかげに』以後の高杉一郎を知ることができる。あまりの面白さに夜が更けるのも忘れてページを繰る手が止まらない一冊だが、ここでは高杉一郎と中国文学者との深い交遊が印象的だった。エスペランティストの胡愈之、葉君健、葉籟士、劇作家の田漢、その他郭沫若、老舎、巴金など錚々たる名前が陸続と出てくる。

また『若き高杉一郎』でも少しだけふれているが『極光のかげに』を読んだ宮本百合子と宮本顕治それぞれの反応が興味深い。高杉一郎は宮本百合子の家を訪れた際、宮本百合子から『極光のかげに』について質問をされた。その質問に誠実に答えた高杉一郎に向かい、宮本百合子は「やっぱり、こういうことがあるのねえ」とつぶやいた。その直後、二階から降りてきたのが宮本顕治である。

 すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。私は啞然とした。返すことばをしらなかった。(『征きて還りし兵の記憶』より)

この宮本顕治といい、「スターリンは偉大な政治家だ」と呟いた中野重治といい、ことの善し悪しはともかく二十世紀という時代においてスターリンとはかくも巨大なる存在であったのかと嘆息せざるを得ない。確かにスターリンはことの善し悪しを無視して「偉大な政治家」であった。二十世紀における社会主義とはなんだったのか? 二十一世紀における資本主義は終焉に向かうのか? 政治と国家、国家と個人について私たちはもっと真剣に考える必要がある。

高杉一郎はシベリア復員後、静岡大学、和光大学教授を歴任し、翻訳や評論でも大きな業績を残した。2008年1月死去。享年99。

美は形式に非ず

片山広明…といってもジャズファンじゃなければ知らないだろうが、1980年代のロック小僧ならRCサクセションのステージ、忌野清志郎のバックでサックスを吹きまくっていた二人の男に見覚えがあるだろう。スキンヘッドに眼鏡をかけていたのが梅津和時(アルトサックス)、モジャモジャ頭の大男が片山広明(テナーサックス)だ。

1970年代、梅津和時らとともに大編成フリージャズコンボ『生活向上委員会大管弦楽団』に参加。その圧倒的なテナーサックス演奏により(一部ジャズファンの間で)有名になる。1980年代は盟友である梅津和時と『どくとる梅津バンド(D.U.B)』で活躍、1990年代からは『渋さ知らズ』(メンバー総数不定。舞台にはミュージシャンからダンサーまで登場する形容しがたい巨大楽団)、林栄一と組んだ『デ・ガ・ショー』でますますその存在感を高めている。

というわけで片山広明『キャトル』を聴いた。

くたびれ果てて家路に着く。立春は過ぎたとはいえ2月の夜はまだ寒く風は冷たい。iPodの中から最近買った片山広明の『キャトル』をチョイス。フラフラし乍ら夜道を歩き出す。板橋文夫の美しいピアノが聴こえてきた。ああ、良いなあ…なんて美しい音なんだ…やがて太く厚く暖かく鋭いテナーサックスが美しいメロディを奏で始めた。思わずため息が漏れる。静かに盛り上がる演奏にだんだん疲れた身体と心がほぐれてきた。片山広明の演奏は次第に熱を帯びて絶叫し始める。井野信義のベースは殆どラインを刻まない。アルコ弾きで縦横無尽にフリーキーなそして美しい音を響かせている。咆哮するテナーの周りを星雲のように取り囲むベースの向こうで、ピアノがキラキラと銀河のように鳴っている。ふと顔を上げると街灯に照らされた公園の空の上に丸い白い満月が輝いていた。

奇跡のように美しい1曲目「For You」から始まるこのアルバムを名盤と呼ばずして何と呼ぼう。続く「パリの空の下」はシャンソンの名曲、オシャレな雰囲気はカケラもない場末のキャバレーのようなテナーサックスが絶叫する。美しいということは形式ではないんだ、ということがよーくわかるこのアルバム、実は2002年に発売されていたんだ、片山広明、畏るべし…

言語と国家

通勤電車のなかでつらつらと『内村剛介ロングインタビュー:生き急ぎ、感じせく 私の二十世紀』(恵雅堂出版)を読んだ。

内村剛介といえばロシア文学者としてだけでなくロシア学/ソ連学の巨人として知られている。書店の棚から抜き出してみると、ジャケットに写るのは何処かの水辺に立つ内村氏のポートレート、がっしりとした体躯、オールバックの髪に太い眉、大きな鼻の下にはへの字に結ばれた口、意志の強そうな眼がこちらを見つめている。(これは読まなくてはならない)と直感した私はすぐに手に取ってページを捲った。

内村剛介(本名:内藤操)は1920年栃木県生まれ。15歳で満洲に渡り1940年に満洲国立大学哈爾濱(ハルビン)学院に入学しロシア語、ロシア文学に触れる。卒業後は関東軍でロシア語翻訳などを手がけ、1945年の敗戦直後、避難民の世話やソ連進駐軍との交渉通訳などに忙殺されるうち、ソ連軍の捕虜となり悪名高きラーゲリ(強制収容所)で11年間を過ごす。1956年に帰国の後、商事会社で対ソ貿易に携わり、その後は北海道大学、上智大学で教授を勤めた。近現代ロシア文学の翻訳や評論でも大きな業績を残した。2009年1月死去。享年88。内村氏の語るロシア人・ソ連観は眼からウロコが落ちるものの連続、まさに端倪すべからざる知識ばかりであり、その洞察力は人をして彼を巨人と呼ばしめるだけのものである。

ソ連の担当将校から「ロシア共和国警報第五十八条第六項及び第四項により二十五年の禁錮刑」を言い渡された内村氏は腹の中でこう考えた。

 (前略)自分が日本人として生を享けたことは、僕自身の選択外なわけですから、その存在を存在たらしめた日本国こそがこの不条理を引き受けるべきなのに、私と言う個人が今それを負わされているということ。これはやはり大問題なんですよね。しかし、その責を日本国が負うにせよ内村個人が負うにせよ、僕は、僕自身をここまで拉致してきたところの理論をそもそも正しいと認めたくないわけですよ。そして、ここから僕は彼らの理論が間違っているということを自分なりに論証してやろうと決意するわけですね。「レーニンをしてレーニンを論破してみせる」という、前々回述べたカザフ人トロツキスト囚人との獄中でのやりとりはこのことに関連しています。そして、こうも考えました。二十五年の刑を彼らが言い出した。しかし、自分はここで二十五年を生き永らえるとは思えない。すると、この二十五年のうちに、俺が死ぬかソ連が無くなるか、どちらかだろう。ソ連が永遠に生きてみせると豪語するのは勝手だが、このソ連帝国だっていつかは滅びるんだ。二十五年だって? よし、その間に俺が滅びるかお前が滅びるかであって、二十五年に限って言えば、問題の形式は何も変わらんということだ、と。何で俺がここにいるのか、いなきゃならんのかということにケリをつけるのは、それしかないと思いました。つまり、原理的なレベルで、ソ連はあっていけないか、あるいは自分があってはいけないか、どっちかだということです(§4 スターリン、燦惨(サンザン)たる無)

生き延びるためとはいえにわか社会主義者が頻出した捕虜のなかで、ソ連をソ連帝国(何たる洞察力!)と決めつけ翻って祖国と同胞について深い考察を巡らせるところも凄い。帰国後、松田道雄(評論家)に、当時公式には存在しないとされていた「ラーゲリ」について問われたときも、ラーゲリのことを説明し、ついでにこのようなことも説明している。

 「ラーゲリ」とは、ロシア語では「ゾーナ」(英語の「ゾーン」)と言っていますと。さらに言えば、小さいゾーナと大きいゾーナがありまして、「マーラヤ・ゾーナ(小さいゾーナ)」がラーゲリで、「ボリシャイヤ・ゾーナ(大きいゾーナ)」がソ連邦ですと。それはもうしっかり定着していて、ラーゲリの住民のみならずソ連ならどこにでも通る用語として誰でも周知のことです。「じゃあ権力に対して一般民衆はどのように立ち向かうのか?」と問う。ソ連社会は完全な面従腹背ですから、彼ら民衆はいつひっくり返ってもケロッとして「ラーゲリなんてあったのかよ」という顔をするでしょうと僕は答える(§5 帰国。ただし十一年後の)

おそらく戦後日本において盛り上がった社会主義運動と社会主義者たちはこのようなソ連観を持ってはいなかった、あるいは眼をつぶっていたはずだ。社会主義の総本山であるところのソビエト連邦においてこのような “何処にでもあるような不正義” はその存在を許されるものではない。あたかも虚像とされた「ラーゲリ」同様に。

話はいったん横にそれるが西原理恵子の名著『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(理論社)・・・サイバラ版『君たちはどう生きるか』・・・を読んでいたら、競争社会や日本から落ちこぼれても絶望したり死んだりせずに逃げちゃえ、と語る部分があった。日本ではまだ数少ない「アジア人」たる西原理恵子らしい言葉であるが、同じようなことを内村氏も語っている。

 勇者なるが故に圧制から逃亡する。つまり、圧制から逃亡する者は、なべて「勇者」なんですね。だからそれに対しては敬意を払うというのがロシアです。ロシア語で「ベジャーチ」と言いまして、これは「逃げる」ということ、「走り去る」ということです。日本では「逃亡者」「敗残兵」とかいうのは不名誉ですが、ロシアでは「英雄」なんですよ。つまり真正面に反抗できないような強大な権力と対峙したとき、それに反抗はできないとしても、しかし自分は「逃げる力」だけはもっていると、そこで、彼は断固として決断し、そこから逃亡する。つまり、権力に背を向けては知る。権力のない世界を求めて走るわけです。これは言わばアナーキズム、しかもアナーキズムの権化です。極端な無制限な権力の集中に対する、無制限な権力からの解放です。したがって、「逃亡する」とは、自分の自由を守るための英雄的な行為なんですよ。ロシアでは今でも「逃亡した」というのは肯定的な意味に使われています。ひところ流行った浅田彰流の「逃亡」じゃないんです(笑い)。ロシアでは「逃亡者」、「逃亡囚」、「逃亡兵」といった存在はみな偉いとされ、尊敬されるんですね。(§8 プラトノイ、あるいは「逃亡は美徳である」について)

言語を学ぶということはすなわち人間を学ぶということ。それを体現した内村剛介の書はもっと読まれて然るべきである。

くだらぬ歌なんて誰が決めた

日本流行歌史に興味のある方なら『アラビアの唄』をご存知であろう。1928年に流行ったジャズソング、もともとはアメリカのダンス音楽として作られたもので、原題を『Sing me a song of Araby』(by Fred Fisher)という。歌ったのは榎本健一とともに浅草オペラのスターだった二村定一。


沙漠に日が落ちて 夜となるころ 
恋人よなつかしい 唄をうたおうよ

あの淋しい調べに 今日も涙流そう
恋人よアラビアの 唄をうたおうよ(訳詞 堀内敬三)


『アラビアの唄』を初めて聴いたのは子どもの頃、たぶんNHKのラジオだと思うが、二村定一の調子の良い歌声とちょっともの悲しいメロディーが印象的だった。加藤登紀子が1983年に発表した戦前流行歌カバーアルバム『夢の人魚』にも収録されていた。これはなぜか坂田明とのデュエットという不思議なバージョン(笑) 最近では遊佐未森が日本の流行歌をカバーした『檸檬』で秀逸なバージョンを聴くことができる。

話は転じて渥美清である。
かつて渥美清が古賀政男を演じたテレビドラマがあった。調べてみると1979年にNHKが制作した『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男』だった。私の記憶によれば、昭和初期のカフェで若き古賀政男(渥美清)が店に流れる『アラビアの唄』に聴き惚れる女給たちを眺めて「…日本人がアメリカの歌を聴いて喜んでいる…日本の…日本人の心を打つ歌を作らなければ…」と苦悩する場面があった。そして青年古賀政男は『影を慕いて』を発表するのである……蓄音機から流れるのが『アラビアの唄』だったどうかはいまいち確信が持てないが、たぶんそうだったような気がする。

日本流行歌史を語るとき、必ずと言っていいほど使われる紋切り型がある。古賀政男=演歌=日本人の心の歌/服部良一=ポップス=明るい都会的な歌というもの。まあこの世は何でも二つに分けたほうがわかりやすいのだが、今となってはこの紋切り型はずいぶんと乱暴な物言いである。

古賀政男は明治大学マンドリンクラブの創始者の一人であり、若い頃はボッタキアーリなどのマンドリン曲を演奏していたというからけっこうなハイカラ青年だったわけで、演歌の巨匠と言われるのは後年のことだ。服部良一もジャズ出身で戦前の和製ジャズ〜ポピュラーソングを数多く手がけた人だが、言われるほどポピュラーばっかり作曲していわけではない。

遊佐未森の『檸檬』は『青空』(原曲は『My blue heaven』作曲は前述の Fred Fisher )、『南の花嫁さん』(戦時中に流行した南方ソング。作曲は中国人の任光)、『月がとっても青いから』(ごぞんじ菅原都々子!)、『小さな喫茶店』(原曲はコンチネンタルタンゴ)、『夜来香』(中華ポップスの名曲)、『蘇州夜曲』(作詞:西条八十、作曲:服部良一。永遠のエバーグリーン)など、主に戦前の流行歌を採り上げて殆ど完璧な仕上がりになっている。そしてこれらが実にみごとに日本人の心を打つ。だいたい明治以降の日本の歌は西洋音楽抜きには語れないし、演歌だって西洋音楽抜きには成立し得ないジャンルだ。

私の守備範囲で言えば、かつてはこれはジャズだとかこれはジャズではないとか、いろいろと面倒くさいことを言い合っていたらしいが、今ではそんな論争じたいが無意味になっている。ジャンルにこだわることはだいじだが、ジャンルにこだわってもあまり意味がない。

戦争末期、特攻隊として死地に赴く兵士たちが出撃前夜、酒を浴びるように飲み乍ら歌ったのは軍歌ではなく、軍部から軟弱と罵られた灰田勝彦の『森の小径』だったという。


ほろほろこぼれる 白い花を
うけて泣いていた 愛らしい あなたよ

おぼえているかい 森の小径
僕もかなしくて 青い空 仰いだ

なんにも言わずに いつか寄せた
小さな肩だった 白い花 夢かよ(作詞:佐伯孝夫 作曲:灰田有紀彦)


歌の良さなんてジャーナリズムやお役所、ましてや国家などに決められてたまるものか、と思う。

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