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くさやの茶漬け

『人生、成り行き〜談志一代記』(新潮社)を読んだ。落語会の巨人、立川談志の半生を最良の聞き手吉川潮がまとめたインタビュー。なぜ談志の落語が凄いのかをずっと考えてきたが、恥ずかし乍らこの本を読んでようやくその一端が理解できたような気がする。

そもそも私が落語が好きなのは、物語が好きでそれを面白可笑しく聞かせる藝だから、ということ。落語を聞き始めた小学生の頃はもう何がなんだかわからないけど、いい大人が着物を着て座布団に座り、扇子と手拭をあれこれ使って面白いことを言っているということに喜んでいた。

爾来30余年、だらだらと落語を聞き続けてくるとだんだんこちらも耳が肥えてくる。いや肥えてくるったってこちらもそれ相応に歳をとっているわけだ、子どもの頃にはわからなかった噺の意味とか登場人物の気持ちとか物語の背景とか、そういったものを自分のものとして嫌でも理解するようになる。そうじゃなければただのバカだ。まあこちらも相変わらずバカだけどさ(苦笑)

『芝浜』の魚屋みたいに仕事なんかしたくねえなあ、金のたんまり入った財布を拾ってみたいなあとか、『野ざらし』の八っつあんみたいに骸骨でもいいから良い女を抱いてみたいなあとか、それなりに大人として生きていると日常のなかのそういう願望だの妄想だのが生まれてくる。たまには『文七元結』の左官の長兵衛みたいに保身を無視した行動をしたりとか、オレここでこんな立場に立つと損なんじゃないか?などとわかっていても、もう自分の気持ちだけが先走って所謂「理屈」というものが後回しになってしまったりする。

周りからは「あんたバカじゃないの?」と言われても「言っちゃったものは仕方ねえじゃねえか」と嘯いて、それでも心の中では「あ〜あ、やっちゃったよお…まあいいか」なんてこともある。こういうことはしないのが所謂「大人」なのだろうが、そう言う意味では私はまだ「ガキ」であろう。それでも人間には必ず「ガキ」の顔があるに違いない。

周りの「大人」を見ているとたいてい「ガキ」の顔を隠している。ただ「大人」と「ガキ」の顔を上手に使い分けているところが私と違うところだ。さすがに私も、ここで「ガキ」の顔をしちゃいけないな、という勘所はだんだんわかってきたが、それでもまだまだ「大人」ですと言えるような人品骨柄ではない。


ここで、<芸>はうまい/まずい、面白い/面白くない、などではなくてその演者の人間性、パーソナリティ、存在をいかに出すかなんだと気がついた。少なくも、それが現代における芸、だと思ったんです。いや、現代と言わずとも、パーソナリティに作品は負けるんです。それが証拠の(明治の四天王の一人で、ステテコの三遊亭)円遊であり、(大正から昭和初期にかけての柳家)三語楼であり、(三語楼の弟子で、兵隊落語と新作の柳家)金語楼でありという<爆笑王>の系譜ではなかったか。その一方、彼らのパーソナリティに負けちゃうんで、<落語研究会>といった作品を守る牙城ができたんじゃないのか。もう少し考えを進めると、演者の人間性を、非常識な、不明確な、ワケのわからない部分まで含めて、丸ごとさらけ出すことことが現代の芸かも知れませんナ。


それに<イリュージョン>と繋がる話になりますが、人間にはどこにも帰属できない、ワケのわからない部分があって、そこを描くのが本当の芸術じゃないですか。でないと、ゴヤの自分の子を喰らう怪物の絵が良いとされている意味がわからないでしょう。あんな絵、貰ったって困るヨ。モジリアニの不気味に首の長い女の絵や、フェリーニの畸形がいっぱい出てくる映画だってあるいはゴッホだってピカソだって、見ていて不快になる人もいるでしょうが、それは常識の範疇をこえたもの、非常識とすら呼べないもの、人間の帰属しえない、イリュージョンの部分を捉えようとしているんじゃないですか。


古稀を過ぎて尚こんなことを考え乍ら高座に上がっている。こんな落語家はいない。私が漸く理解したのは、私たちは立川談志が演じる「落語」を聞いているのではなく、落語を演じる「立川談志」を聞いているのだ、ということだ。そうなんじゃないかなあ、と自分で薄々気がついてはいたが、恥ずかし乍らこの本を読んでそのことに確信を持った次第である。

落語は好きだしとりわけ古今亭志ん朝が好きだが、立川談志は嫌いだという場合、それは談志のパーソナリティが性に合わないということだろう。志ん朝は茶漬けを茶漬けとして食べさせてくれる。しかもその茶漬けは、米の炊き具合も茶の入れ具合もお新香の漬け具合もまことにけっこう。そんじょそこらの落語家の茶漬けとは訳が違う。

そして談志の茶漬けも最高級なのだが、その茶漬けは日によってタイ米だったりウーロン茶だったりくさやの干物が乗っかってたりする。こりゃ不味い、と思っても実はえも言われぬ味わいだったりするのだが、江戸前の茶漬けが最高と思っている人には、なんだこりゃ、という代物にしかならない。

結局「自分」なんだな、「自分」を殺して…「自己犠牲」なんて言葉があるけど、あれも「自分」を殺したつもりで結局「自分」をアピールしている、「無私の行為」ったって、そういう見方もあるんだヨ、てことを落語は教えてくれる、ということを私たちは談志から教わってきたわけだ。

こういう了見を「ひねくれている」というんだろう。しかし「ひねくれている」からこそ面白い。奥が深い。うーん、ナンダカまとまらない……

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