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2007年2月

立川流一門会

上野広小路亭にて立川流落語会。会場前で会長と待ち合わせて木戸を潜る。日本橋亭よりは古ぼけていて寄席らしい雰囲気。今夜はわれわれを含めて20人くらいの寂しい客席だったが、小屋が小さいだけに舞台との距離がいい感じだった。

開口一番は立川志らくの弟子の立川らく兵。入門して半年だから何も言うことなし。関西出身の立川志雲に続いていぶし銀のベテラン前座・立川キウイ登場。さすが17年も前座をやっているだけあって高座ぶりも板についている。「圓楽党ならとっくに真打だな(笑)」とは会長の弁。

トンデモ落語でもお馴染みの立川談之助は、立川流を除名された快楽亭ブラックが渋谷区長選挙に立候補したネタをもとに、選挙にまつわるアレコレを喋り倒す。師匠(立川談志)が参議院選挙に立候補したときにカバン持ちをさせられた苦労がいま生きる(笑)

仲入り前はベテランの立川談四楼で『大工調べ』の前段を一席。因業な大家の造型がみごとであった。ずいぶんと恰幅がよくなったなあ。先に談之助が「ここ(上野広小路亭)とあそこ(鈴本演藝場)は歩けば5分の距離なのに、われわれはあそこに出ることができない。われわれは(談志に)拉致されたんです(笑)」と笑いのめしたが、 この談四楼が真打昇進試験で落されて、これに怒った談志が落語協会と袂を分かち落語立川流が誕生したのだ。

仲入りのあいだに狭いロビーで煙草を吸っていたら、楽屋から出てきたキウイが事務員に「紙皿はありませんか? なけりゃいよいよコーヒーの受け皿でもいいんですけど」酒のつまみでも用意してるのか。

仲入り後は立川談修が『雲駕篭』を演じる。立川談春の独演会などでも聴いているが、線の細いわりには藝がしっかりしていて良い噺家だと思う。トリは立川流の総領弟子、桂文字助が『阿武ノ松』を一席。いぶし銀のしっかりした落語で聞かせる。それにしても立川流の噺家は粒が揃っている。

目当てのモツ鍋屋が満員だったので、アメ横裏通りの焼肉屋にて反省会。

「立川流の落語会は緊張感があるなあ、春風亭柳昇一門会とはエライ違いだ(笑)」
「圓楽一門会に藝協(落語藝術協会)の寄席もユルいね」
「それにしてもブラックが渋谷区長選挙立候補だって?」
「どうせ話題作りだろ? 宮崎県知事の二番煎じだネ」

オンブズマン渋谷行革110番なる団体が快楽亭ブラックをかつぎ出したそうだが、この団体もナンダカワカンナイ。快楽亭曰く「談志のDNAを継いだのは私」これには談志も笑うに笑えない。

まあこれで快楽亭も名が売れるしついでにCDも売れて借金返済も進むことだろう。選挙運動資金を借金返済に充てれば、落選しても御の字だ。どうせ渋谷区長なんぞになる気はさらさらないだろうし。

暗闇の古本屋

いつものようにくたびれ果てて家路に着く途中、川のほとりに一軒の古本屋をみつけた。以前はたしか食堂があったような気がするが、いつのまにか古本屋になっていた。これはいちど挨拶に行かねばならぬと扉を開ける。挨拶といってもようするに品定めをするだけだが。

文庫本中心の、それもこれといった目玉のない無難な品揃えである。まあこんな場末の街で黒っぽい本を揃えても商売にはならないだろう。旺文社文庫の内田百間がぞろりと揃っていたので値段を確認すると、予想通りどれも1000円以上の値がついていた。カウンターには初老のオジサンが無言で座っている。BGMは『I only have eyes for you』、女性ボーカルにテナーサックスが絡んでなかなか良い感じのトラックだが、誰が歌っているのかはわからない。

せっかく挨拶に来たのだから何か買って帰ろうと、棚の隅から開高健のルポルタージュ『ずばり東京』を抜いた。東京オリンピック直前の東京、新宿にサラリーマンと学生が群れ集い、東京の玄関だった上野駅に家出した少年少女が集まり、大手町に都庁があり、日本橋は首都高の高架に覆われたばかりで、練馬の畑で大根が作られ、佃島に渡し船があった頃の東京シチー(by 篠原勝之)だ。

まえがきによれば、芥川賞を受賞していちやく小説家の仲間入りをしたはいいが、お定まりのスランプに陥り鬱々としていた頃、大先輩の武田泰淳に「小説が書けなくなったらムリせずにルポルタージュを書け、書斎にこもって酒ばかり飲んでいちゃダメだ」と助言されての産物。開高健は東京のあちこちに棲むひとびとの生活とことばを活き活きと書きとめている。後年、硝煙たなびくベトナムやナイジェリアを彷徨い、大魚を釣りに世界のあちこちへ出かけた原点となる作品だ。

この店はほかに面白そうな本も置いていないので、もう二度と足を運ばないかというと実はそんなことはなく、また近いうちにくたびれ果てて家路に着く途中、私は住宅街の暗闇にぼんやりと浮ぶこの店の扉を開けるのである。

新潟ロシア村の思い出

都築響一『バブルの肖像』(アスペクト)を読んだ。

この本はいわゆるバブル経済と呼ばれた時代(1986-1989)のさまざまな遺物を取りあげているが、このなかに新潟県柏崎市にあった『柏崎トルコ文化村』が取りあげられている。これは新潟中央銀行の4代目頭取だった大森龍太郎(故人)がバブルに乗じて建てまくった「外国村」のひとつで、ほかには『新潟ロシア村(笹神村)』、『富士ガリバー王国(上九一色村)』(※地名はいずれも当時)があり、いずれもすでに閉鎖されている。

県民の預金がへっぽこテーマパークに注ぎ込まれ、その挙句に新潟中央銀行は1999年に経営破綻してしまい、おかげで私の知人も職を失いたいへんな目に遭った。いまでは運良くみつかった転職先で順調に働いており、このときの話になると「いやあエライ目に遭ったよ」と笑えるまでになった。

さて、私は『柏崎トルコ文化村』にはとうとう行けずじまいだったが、実家の近くにあった『新潟ロシア村』には行くことができた。私が『新潟ロシア村』に行ったのは閉鎖される数年前のこと。実家に帰省したとき、地元の後輩とふたりでバカ話をしているうちに、ふたりとも『新潟ロシア村』に行ったことがないというので、さっそくこれから行ってみようという話になった。「いまのうちに行っておかないと無くなりますよ、絶対(笑)」

『新潟ロシア村』は当時の新潟県北蒲原郡笹神村(現在は阿賀野市)の山あいに在った。実家から車でしばらく国道290号を走り看板を頼りに山のなかへ入っていく。年末という時期でもあり車もけっこう走っているのだが、『新潟ロシア村』を目指す車は皆無。もともとこのあたりはまったく人家がないところ。車は鬱蒼とした杉林のなかを走る。空はどんよりと鈍色に曇った新潟の冬。まったく寂しいことこのうえない。

「どこにあるんだろうねえ、それにしても寂しいとこだなあ(笑)」
「あ、いま教会のようなものが見えましたよ!」

見ると確かに教会の塔が見え隠れしている。この鬱蒼とした山のなかにあるロシア教会…私たちはどこへ向かっているのだろうか。はたして無事に帰れるのだろうか。重苦しい雰囲気が車内に充満していく。

雪が積もっている駐車場には一台の車もない。『新潟ロシア村』入り口の手前に丸いプールがあったので覗いてみると、そこには1メートル以上ある大きなチョウザメが数匹、プールの底にへばりついている。そのチョウザメたちの上を色とりどりのニシキゴイがすいすいと泳ぎ回っている。私たちの脳天に軽いジャブをくらわせる、なんともシュールな光景であった。

入場料を払いなかに入るとまずはロシア土産売場があり、大小のマトリョーシカがこれでもかといわんばかりに置いてあった。階段を降りて地下へ向かうと狭い水槽があってバイカルアザラシが泳いでいた。本来ならバイカル湖でのんびりと過ごしていただろうに、何の因果かこんな極東の山あいで狭い水槽に押し込められるとは…バイカルアザラシはつぶらな瞳でのんびりと泳いでいた。

ふたたび地上にあがる。マトリョーシカ作りを体験できる工房やロシアレストランがあったがひとっ子ひとりいない。どうやら客は私たちふたりだけのようだ。さらに歩いていくとテント小屋があり『ロマノフ劇場』という看板がある。私たちが入っていくとルパシカやサラファンを着た男女のロシア人がのろのろとステージに現れた。「客が来たからいっちょうやるか」ってな雰囲気濃厚。ロシア民謡にコサックダンスという定番の民族舞踊を披露する。それはそれで面白かったのだが、なにしろ舞台には七〜八人、客席には二人。場末の演藝場だね、こりゃ。

ほかにはロシア正教の教会やマールイ美術館(「マールイ」はロシア語で「小さい」という意味)もあったが、何しろ誰もいないし寒いし日も暮れてくるし、これで失礼することした。車を走らせて山を降りる。バックミラーに映っていたロシア教会はすぐに見えなくなり、車はふたたび鬱蒼とした杉林をくねくねと走って山を降りた。

「いやあ…凄いとこでしたねえ(苦笑)」
「あれじゃあもうつぶれるのは時間の問題だな」
「そうですね、来てよかったなあ」
「あのチョウザメ、どうなるんだろうね」
「バイカルアザラシもですよ、まったく(苦笑)」

それからわずか半年後、新潟ロシア村は財政難が問題になり、数年後に閉鎖されてしまうのであった。

人は見かけによらない

職場の若いオネエチャンと雑談をしていたら、私が中国語を話せるという話題になった。実はこのオネエチャンも、話せるわけではないが読み書きができる。そういえば中国語わかるよね、中国語勉強してたの? と聞くと、専攻が東洋史学だったので初歩的なことは学んだらしい。それよりも私の度肝を抜いたのが、彼女は満文が読めるということだった。満文というのは満洲語の文字のことである。

満文

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E6%96%87%E5%AD%97

http://mariyot.ld.infoseek.co.jp/manjuletter.htm

満洲語は満洲族(中国では満族)の民族言語で、モンゴル文字を改良した満洲文字(満文)で表記される。満洲族は清朝を興したツングース系民族である。日本の傀儡政権だった満洲国最後の皇帝愛新覚羅溥儀も満洲族だ。清朝も後期になるとしだいに中国語(漢語)が話されるようになり、民族の言語である満洲語もしだいに廃れていった。

現在の人口は約1000万人(2000年度調査)なのだが、満洲語を話せる人口は皆無に等しい。現在では黒龍江省の寒村にわずかに満洲語を話せる老人たちがいるだけの、文字通り絶滅に瀕している言語なのだ。それでも清朝の公文書や多くの書物は満文で書かれていて、清朝史を学ぶ研究者は満文を読む必要があり、現在でも研究や解読が続けられている。

「満文を読まなきゃいけない授業を取っていたので…まあいちおう勉強しましたから…でも何の役にもたたないですけどね、誰も話せる人いないし、日常で使う機会もないし(苦笑)」

満文フォントもあるそうです。すごいね。
 ↓
http://porocise.hp.infoseek.co.jp/memo/manju_tex.html

2007年西武の旅

『西武新宿線〜西武拝島線乗りつぶしプロジェクト』を実行すべく南武線で立川へ向かう。登戸の駅舎は建て直されてすっかりきれいになってしまったが、中野島、稲田堤はあいかわらずショボい駅舎のまま。しかし油断は禁物、どこのローカル線かと見まごうばかりのだった矢野口の駅舎は、いつのまにか高架線の駅舎に建て直されてしまった。いよいよJRも南武線に金をかける気になったのか。

立川で青梅線に乗り換えて拝島で降りる。拝島にはJR青梅線、五日市線、八高線と西武新宿線が乗り入れている。乗り換えがよくわからないので、いったんJRの改札を出て、パスネットで西武線改札から入り直す。西武新宿行き急行が発車するまで時間があったので、北口の西武線改札のあたりまで行ってみた。

「あのよお、拝島まで来たんだけどさ、うん、いま寂しいほうの改札にいるよ、こっちでいいんだよなあ、寂しいほうの改札」推定身長190センチ、推定体重100キロはありそうな、みるからに健康的なオジサンが、あたりに響き渡るデカい声で寂しいほう、寂しいほうと連呼していた。たしかに“寂しい駅前”であることはまちがいない。

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西武新宿行き急行に乗って拝島を後にする。西武電車は途中から玉川上水と平行して走り、なんともいい感じの雑木林も雰囲気だ。雲ひとつない晴天で車窓から秩父山系がよく見える。それにしても西武線はなんとも複雑に交錯している。たとえば途中駅の小川には西武拝島線、西武国分寺線が乗り入れているが、拝島から発車する西武新宿行きも乗り入れている。路線図をみる度になんとも複雑なものであるなあと思う。

小川を過ぎて小平で西武新宿線本川越行き(下り)に乗り換える。さすが下り電車なので車内はガラガラ。所沢、新所沢を過ぎるとだんだん車窓から見えるのも田園風景になってくる。近くの座席では喪服のオニイチャンとオネエチャンがさっきから話し続けている。どうやら今日は葬儀に参列するために都内から川越くんだりまで来たらしい。いい天気だというのにごくろうなことだ。もっとも人の生き死になんてのはいつだって突然。

正午過ぎに終点の本川越到着。西武線の本川越駅とJRの川越駅はけっこう離れていて徒歩で10分くらいかかる。川越という街は蔵の街なんだそうだが、私は蔵を見に来たわけではないのでJR川越駅までだらだらと歩く。途中で三連休で天候にも恵まれたせいか年輩の夫婦連れや仲良しグループとたくさんすれ違った。

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八高線や東武電車が走って行くのを眺め乍らふたたび本川越に戻り、始発の西武新宿行き急行電車に乗る。電車はふたたび小平に戻り(戻ってるのは私だが)上石神井、鷺ノ宮を経て西武新宿駅に滑り込んだ。これでめでたく『西武新宿線〜西武拝島線乗りつぶしプロジェクト』終了である。川越滞在時間も含めて所要時間4時間の大プロジェクトでありました。

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中年は西武をめざす

今日はひさびさにさっさと職場を後にして早めに帰宅。部屋で静かに珈琲を飲み乍ら、戯れに首都圏の鉄道路線図を眺めているうちに、いままで乗車した路線を塗りつぶし始めたところ、東京〜神奈川のJRと私鉄各線の8割くらいは乗車していることが判明した。

JRでは鶴見線と青梅線の一部区間が未乗車。意外な盲点としてJR根岸線の新杉田から大船間が未乗車だった。それから五日市線、御殿場線の全区間、常磐線の金町までだが、これらもまあぼちぼちと乗りつぶしていこう。ほかにも忘れているのがあるかもしれないが、それにしてもけっこう乗っているものだなあ。

鶴見線といえば本線の安善からわずかひと駅の大川につながる支線区間が未乗車。なにしろ大川行き電車は、鶴見発8:26の次は16:58発までまったくないのだ。歩いていける距離なのだけれどいつか乗ってみよう。

私鉄では東急こどもの国線、京王高尾線、京王競馬場線、京急本線、京急逗子線、相鉄本線、相鉄いずみ野線、江ノ島電鉄の一部区間。それから湘南モノレールと横浜新都市交通、伊豆箱根鉄道大雄山線、箱根登山鉄道全区間だ。まあこのへんもそのうち乗りつぶしておけばいい。

ところで問題は西武線と東武線だ。西武線では西武新宿線、西武拝島線、西武秩父線、西武園線、西武豊島線、西武多摩川線に乗っていない。東武線では東武東上線のときわ台から先と東武越生線、東武大師線に乗っていない。やはり用がないのといつでも乗れるのにきっかけがない、というのが理由だ。

それを言うならその他の鉄道路線も同じではないか、というツッコミを入れられそうである(誰に?) 埼玉地域に足を踏み入れる用がない、と言ったところで、東京・神奈川地域の鉄道を乗りつぶすことに用がある、というわけでもないから、ただ単純に行動半径外ということなのだろう。

いま計画しているのは『西武新宿線〜西武拝島線乗りつぶしプロジェクト』。最寄りの南武線に乗って立川へ行き、立川から青梅線で拝島へ出る。拝島を降り出しに西武拝島線で小平へ向かい、小平から西武新宿線に乗り換えて終点の本川越へ行く。そのまま本川越から西武新宿駅に戻ればよいのだ。

今週末は連休なので天候と体調がよければちょっくら出かけてみようと思っている。

東武東上線沿線

今日は東武東上線に乗って板橋区に行ってきた、といっても駅舎見物が目的(笑)

私は上京してからもう20年以上たつが東武線という路線に縁がない。だいたい移り住んできた街が東京の南西部地区と横浜近辺だったので、東京の北東部にはあまり足を踏み入れる機会がなく、そのへんに住んでいる知り合いもいなかった。

西武線もずっと縁がなかったのだが、沿線に住む友人と知り合ったのがきっかけで割と乗るようになった。しかし東武線だけは依然として未知の領域。池袋に行くことはよくあったのに、そこから東武東上線の改札を通る…ということにはならなかった。というわけで今日は生涯初の東武東上線乗車。

ときわ台駅は昭和10年開業というから人間でいえば72歳。長嶋茂雄と同い年だ。

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この駅舎と駅前は、なんとなく昭和モダニズムの匂いがする。円形の駅前広場から放射状に道が伸びているあたりが、いかにも戦前に開発された分譲地といった風情。ま、写真でみると「GAME」の看板が雰囲気ぶち壊しだが(笑)  

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屋根の瀟洒な青瓦がオシャレ。

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こちらはホーム側から見たところ。

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券売機附近もよく見ればもとの木枠がそのまま残されている。

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駅舎も木造なのに外壁はレンガ積みだし、屋根を支える庇のアールデコっぽいデザインもオシャレだ。

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ついでに北池袋駅にも降りてみた。この駅は昭和9年開業だからときわ台より1年古い。よく見ると屋根が見える。

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だいたいターミナル駅のひとつ手前という駅は影が薄い。例えば小田急線の南新宿駅。新宿から歩いてすぐなのでここで乗降する客は附近の住民しかいない。

この北池袋駅も同様で、ホームも凄まじく日に焼けて荒んだ感じがする。駅前の木陰に埋もれて石碑が建っていたので、近づいてみたら『北池袋駅開業記念碑』と刻んであった。

それにしても冬の夕方というシチュエーションも相俟って、なんとももの寂しい北池袋駅前でありました。

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