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硫黄島の陰に隠れて

稲垣武『沖縄 悲遇の作戦:異端の参謀八原博通』(光人社NF文庫)を読む。

クリント・イーストウッド監督の 『硫黄島からの手紙』が大ヒットしているらしい。太平洋戦争末期、辺境の激戦地硫黄島で、少数部隊にもかかわらず圧倒的な物量を誇る米軍に対し徹底抗戦、米軍に莫大な出血を強いて壮絶な戦死を遂げた栗林忠道中将(渡辺謙)率いる硫黄島守備隊を描いた作品。

栗林忠道(1891-1945)はアメリカ留学経験もある日本陸軍にあって数少ない知米派の軍人だった。日本陸軍は米軍の実力に対して過小評価しており、昭和18年に至っても対ソ戦研究に没頭していたという。栗林は米軍の圧倒的な物量と輸送力を早くから理解していたが、当時の陸軍にあっては少数派に過ぎなかった。

栗林忠道は島の天然洞窟をそのまま戦略基地として活用し、縦横につながる洞窟から昼夜を問わず奇襲攻撃をかけて、自軍の3倍近い米軍を40日に渡って戦い続けたのである。米軍は最初、硫黄島占領は数日でかたがつくと踏んでいたというが、ようやく占領を終えたときには戦死者・戦傷者2万名を超えていた。

栗林忠道が評価されているのは、米軍が「バンザイ・アタック」と称した、命を捨てて突撃してくる玉砕を兵士に禁じたことである。いたずらに命を捨てることなく、最後の最後まで知力を絞って米軍に立ち向かった姿勢が、ほとんどが全滅という結果に終わったとはいえ、米軍に対して恐怖と尊敬の念を抱かしめたのである。なお、日米の地上戦において、米軍の死傷者が日本軍のそれを上回ったのは、実にこの硫黄島だけだという。

『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971東宝)という映画がある。これは太平洋戦争で唯一の地上戦の舞台となった沖縄本島で沖縄守備隊・第32軍が、少数部隊で圧倒的な物量を誇る米軍に対し徹底抗戦、莫大な出血を強いてほとんど全滅した戦いを描いている。軍人から民間人、ひめゆり部隊まで、さまざまな登場人物が織りなす群像劇。戦争映画といっても決して戦争を讃美してなどおらず、なかなか見応えのある映画なのだ。

数知れぬ沖縄の人々が老人から子ども、ひめゆり部隊として知られる女学生たちまでが命を奪われた。沖縄は本土に捨てられた、と沖縄人が恨むのは当然であろう。しかし軍人たちも実は同じなのであった。大規模な地上戦が予想された沖縄戦線だが、大本営が第32軍に与えた武器も資材も人数も、軍司令部をして甚だ失望させる貧弱さであったという。第32軍司令部はほとんど死を覚悟していた。戦争末期の大本営は混乱甚だしく、作戦や指示がころころと変わり、数多くの軍人は敗戦と死を予感していたという。

この映画の主要キャストは沖縄守備隊・第32軍司令官牛島満中将(小林桂樹)、長勇参謀長(丹波哲郎)、そして八原博通高級参謀(仲代達矢)である。高級参謀の八原博通(1902-1981)は日本陸軍にあって数少ない知米派の軍人。アメリカに留学しアメリカ人の気質や軍備について熟知していた。本人も合理的な理論派として知られ、精神主義が幅をきかせた陸軍において異端の軍人だったという。

第32軍は、沖縄の天然洞窟を戦略基地として活用し、いたずらに命を捨てる特攻を諌め、命ある限り戦い続けるという八原の作戦を実行し、質量ともに優位に立つ米軍に多大な損害を与え、徹底的に抗戦して壊滅した。珊瑚礁という天然の要塞は米軍の艦砲射撃をくい止め、米兵は姿の見えない日本兵と、闇に乗じて襲いくる砲弾に恐怖のどん底に叩き込まれた。日本兵は「バンザイ・アタック」をしかけてくる、という思い込みがあっただけに、八原の作戦は実に効果的だったという。

そう、八原博通は栗林忠道とほとんど同じ立場にあるのだ。しかし栗林忠道は戦史に残る名将として讃美されているが、八原博通を知る人は少ない。それはとりもなおさず、第32軍壊滅後、民間人に変装して脱出しようとして捕虜となったからである。

八原博通は自決した牛島・長両将軍の命を受け、戦訓伝達のために脱出を試みた。上官の命を受けた行動であり断じて敵前逃亡したわけではない。しかし日本軍には「生きて虜囚の辱を受けず」という軍人訓があり、一兵卒に至るまで「捕虜となるくらいなら自決せよ」と教えられていた。一兵卒ならともかく八原博通のような将校クラスが捕虜となったわけで、これが八原博通の評価を貶める原因になっていることは想像に難くない。

硫黄島戦は辺境の地(住民はいたにせよ)が舞台だった。それゆえ一般的には純粋な軍隊どうしの戦いという印象がある。それに比べ沖縄戦では多くの島民が犠牲になり、その悲惨さがいまも語り続けられている。『ひめゆりの塔』などがいい例だ。そういう背景がある以上、沖縄戦で戦った日本軍人を讃美するようなことははばかられるということもあるのだろう。

また硫黄島の栗林忠道の場合は彼が全権の責任者であったのに対し、八原博通は牛島司令官と長参謀長という上官がいた。また大本営からの要請であくまで攻撃作戦をとらざるを得なかった事情もある。八原は軍備の手薄な第32軍では手堅く持久戦に持ち込むことを肝要としていたが、牛島・長両将軍は結局大本営に従い、八原は断腸の思いで攻撃作戦に転じ、その結果は無残なものであった。ここにきて牛島中将は、漸く八原の作戦が効果的であると判断したが、ときすでに遅かったのである。

ともに知米派であり、ともに命を大切にする戦略を採り、ともに島嶼戦を繰り広げ、ともに少数部隊で何倍もの兵力を誇る米軍に多大な損害を与えた栗林忠道と八原博通。ただ違っていたのは、栗林忠道は壮絶な戦死を遂げ、八原博通は米軍の捕虜になったことだった。

内地の長男に宛てて、この戦争で日本が敗れたらきっと新しい世界が来る、そのためにおまえは家族を守ってしっかり生きてゆけ、という意味の手紙を書いたという八原博通は、偏狭な日本陸軍において真に先見の明を持っていた、数少ない軍人のひとりだった。

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コメント

日本の象徴である戦艦大和まで出動し沖縄を救おうとした帝国軍は、沖縄の人達から見捨てられたと思われていませんよ。

日本全体が空爆を受け破壊されました。沖縄だけではないです。

また、集団自決は、帝国軍人が罪を被る事によって戦後の補償に繋がったのです。

これは軍人は死んでも民衆は死ぬべきではないという帝国軍人としての誇りがあったからです。手榴弾は、民衆が軍から盗んだ物です。

米軍に摑まると酷い目に遭わされると教育されていたからです。実際、本当に米軍は虐殺を行なってましたから真実ですけどね。

軍命令があったと言う人は皆、お金を貰っています。命令が無かったという人は一銭も貰っていません。

これが真実です。

特に政治的意図を持って書いたわけではないのですが…

かの戦争において、沖縄の置かれた位置はとても複雑なんだと思います。そもそも内地と本土という意識の対立構造があるところですしね。私は沖縄人ではないから本で読んだ知識しかありません。いろいろと難しいです。

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