2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« なぜ人は本を読むのか? | トップページ | お酒は楽しく飲みましょう »

なぜ人は本を読むのか?(2)

私だって子どもの頃から本が好きだっただけで、本ばかり読んでいたわけではない。こんな私でも運動部に在籍して日々汗を流していたし、放課後、数少ない友人と暗くなるまでたわいもない話に興じていたりしていた。別に読書家でもなんでもない。読書家というのは洋を問わず万巻の古典に親しんでいるのは当然で、それ以上にさまざまな書物を繙き、日々読書と思索に明け暮れているものだ。いま、そんな人はほとんどいない。だいいちそれじゃメシが喰えない。そういう人は学者とか言われている人のうち、ほんのわずかだけであろう。だいたい健全な高校生たるもの本ばかり読んでいてはイケナイ。そう、高校生まではいいのである。大学生たるものは読書するものなのである、いや、あったというべきだろう。

戦前の旧制高校が育んだ教養主義は、帝国主義の否定と社会主義の隆盛とともに、戦後の政治運動のうねりに発展していった。学生たるもの政治にコミットせずにいられない状態になったのだ。朝鮮動乱〜日米安保闘争〜ベトナム反戦運動〜中国プロレタリア文化大革命〜大学紛争…思いつくままに列挙するだけでため息が出る。これだけのできごとが日常的に起っていた時代の学生が、なにも考えずにいられるはずがない。いまの学生がこの時代にタイムスリップしたとしたら、当然政治を論じナニゴトかを考えるようになるはずだ。翻って国内をみても高度経済成長、東京オリンピックにおける都市の変貌、都会から取残されていく地方、昭和元禄と称されるサイケデリックとドラッグの時代、戦後世代の登場、オイルショック、日本列島改造論、ロッキード事件…これらのできごとの果てに待っていたものは、空漠とした1980年代だった。

当時の知的エリートはまさしく少数派であった。教養主義はいわば知的エリート階級の象徴といえるだろう。知識は書物から得るものと言い換えることができる。だから知的エリートたらんとするものは本を読んだのである。町工場や農村の勤労青年も向上心のあるものは本を読んだ。しかし本に書かれている世界と現実は常に乖離している。この乖離に気がついたものたちは理想と現実のギャップに疑問を抱き、それが大なり小なり思索につながっていった。

1980年代…私の学生時代にはすでに『朝日ジャーナル』を小脇に抱えて、などという時代ではなくなっていた。浅田彰『構造と力』がベストセラーになり話題になった頃、ニューアカデミズム、昭和軽薄体、無気力学生などという言葉が踊っていた頃だ。学生運動はとっくに下火になりやがて訪れるバブル経済に向かって、日本全体が奇妙な明るさに覆われていた。いまにして思えば1960〜1970年代ほどのインパクトはないものの、けっこう面白い時代ではあった。1960〜70年代は振り子があまりにも政治的に振れ過ぎていたのである。その反動が1980年代にドカン、と来た。私たち40代前半の世代はベトナム戦争の記憶も微かしかない。サイゴン陥落のニュースは知っていても、それがなんたるかはほとんど理解していなかった。(続く)

« なぜ人は本を読むのか? | トップページ | お酒は楽しく飲みましょう »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/155421/12452807

この記事へのトラックバック一覧です: なぜ人は本を読むのか?(2):

« なぜ人は本を読むのか? | トップページ | お酒は楽しく飲みましょう »