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2006年10月

お酒は楽しく飲みましょう

宴会中に酒をかけられて火をつけられた男性が死亡した事件。

こりゃきっと『スピリタス』だな。『スピリタス』はポーランドのウォッカで、アルコール度数はなんと96度もある。かつて私も学生時代にたまに行っていた安いバーで飲んだ、いや飲まされたことがあった。カウンターで友人と二人並んで座り、気さくなママさんと話をしていたら、彼女が「これ、あたしの奢りだから飲んでみて(笑)」と言って小さなグラスに酒を注いでくれた。「え? いいんですか?」と言うと、彼女はニッコリ微笑んで「いいわよ、その代わり一気に飲むこと(笑)」

馬鹿な私たちは「イダダキマース」とばかり一気に酒を呷った。途端に口から火が出るかと思うくらい強烈な衝撃に襲われ、私たちは目を白黒させてひっくり返りそうになった。「…なんですか…これ」するとママさんはふたたびニッコリと微笑んで「これはね、『スピリタス』っていうポーランドのお酒なの、ほら見てごらんなさい、96度もあるのよお(笑)」

96度もあればほとんど精製アルコールである。こんな酒に火をつけたらそりゃ燃えるよ。宴会ならきっとペラペラの浴衣だろうし、下着も着てないだろうし、そりゃ重度の熱傷で死ぬよなあ。火をつけた会社役員は冗談でやったのか、それとも悪意があったのか、まあきっと酔っ払って調子に乗ってやったのだろうが、いやはやなんともな事件である。私もママさんに火をつけられなくてほんとうによかった。

この『スピリタス』ってお店じゃ1000円くらいで買えるんだよなあ……

なぜ人は本を読むのか?(2)

私だって子どもの頃から本が好きだっただけで、本ばかり読んでいたわけではない。こんな私でも運動部に在籍して日々汗を流していたし、放課後、数少ない友人と暗くなるまでたわいもない話に興じていたりしていた。別に読書家でもなんでもない。読書家というのは洋を問わず万巻の古典に親しんでいるのは当然で、それ以上にさまざまな書物を繙き、日々読書と思索に明け暮れているものだ。いま、そんな人はほとんどいない。だいいちそれじゃメシが喰えない。そういう人は学者とか言われている人のうち、ほんのわずかだけであろう。だいたい健全な高校生たるもの本ばかり読んでいてはイケナイ。そう、高校生まではいいのである。大学生たるものは読書するものなのである、いや、あったというべきだろう。

戦前の旧制高校が育んだ教養主義は、帝国主義の否定と社会主義の隆盛とともに、戦後の政治運動のうねりに発展していった。学生たるもの政治にコミットせずにいられない状態になったのだ。朝鮮動乱〜日米安保闘争〜ベトナム反戦運動〜中国プロレタリア文化大革命〜大学紛争…思いつくままに列挙するだけでため息が出る。これだけのできごとが日常的に起っていた時代の学生が、なにも考えずにいられるはずがない。いまの学生がこの時代にタイムスリップしたとしたら、当然政治を論じナニゴトかを考えるようになるはずだ。翻って国内をみても高度経済成長、東京オリンピックにおける都市の変貌、都会から取残されていく地方、昭和元禄と称されるサイケデリックとドラッグの時代、戦後世代の登場、オイルショック、日本列島改造論、ロッキード事件…これらのできごとの果てに待っていたものは、空漠とした1980年代だった。

当時の知的エリートはまさしく少数派であった。教養主義はいわば知的エリート階級の象徴といえるだろう。知識は書物から得るものと言い換えることができる。だから知的エリートたらんとするものは本を読んだのである。町工場や農村の勤労青年も向上心のあるものは本を読んだ。しかし本に書かれている世界と現実は常に乖離している。この乖離に気がついたものたちは理想と現実のギャップに疑問を抱き、それが大なり小なり思索につながっていった。

1980年代…私の学生時代にはすでに『朝日ジャーナル』を小脇に抱えて、などという時代ではなくなっていた。浅田彰『構造と力』がベストセラーになり話題になった頃、ニューアカデミズム、昭和軽薄体、無気力学生などという言葉が踊っていた頃だ。学生運動はとっくに下火になりやがて訪れるバブル経済に向かって、日本全体が奇妙な明るさに覆われていた。いまにして思えば1960〜1970年代ほどのインパクトはないものの、けっこう面白い時代ではあった。1960〜70年代は振り子があまりにも政治的に振れ過ぎていたのである。その反動が1980年代にドカン、と来た。私たち40代前半の世代はベトナム戦争の記憶も微かしかない。サイゴン陥落のニュースは知っていても、それがなんたるかはほとんど理解していなかった。(続く)

なぜ人は本を読むのか?

学生たちに読書に親しんでもらおうという企画をおこなっている。教員とともに実行委員会をたちあげ、試行錯誤しているのだが、なかなかこれがたいへんなのである。本好きな教職員から公募した推薦図書を図書館に展示して貸し出している。最初はあまり動かなかったが徐々に貸し出しも増えてきて、なんとか実行委員会の面目を保っているところだ。この企画を始めてから、学生たるもの本を読まねばならぬという時代はとっくに過去のものになりつつあるのだなあということと、いつの時代でも本を読むやつは読むもんだなあということを強く感じている。

図書館ではないが、大学生協では読書マラソンというイベントをおこなっており、全国の大学生協のうちけっこうな店鋪がこれを実施している。本をよんでコメントカードを書いて提出してもらっているのだが、やはり本を読んでなにかコメントを書こう、というところまではなかなかいかないようだ。生協の理事会に首を突っ込んでいる関係上、いろいろと企画書に目を通す機会があるが、学生たちも硬軟とりまぜてけっこうな本を読んでコメントカードを提出している。少しでも本を読み本を買い本に親しむ学生がいれば、それはそれでけっこうなものであると思う。

いまの学生は本を読まない、とはいつの世にも聞かれるおとなの苦言だが、言わせてもらえば「じゃああんたたちはそんなに本を読んでいたのか?」と問いたくなる。いまのおとなたちだって、その頃インターネットと携帯電話とi-podがあったら…本など読まなかったことは想像に難くない。などとあまり根拠のない戯言を言ってもしょうがないが、いまも書店に行けば若者はたくさんいるし本だって売れている。書棚にはベストセラーも、面白そうだがどれほど売れるのだろうという本も、知的好奇心を刺激する本も、資源の無駄遣いとしか思えない本もたくさん並んでいるし、茶髪金髪の兄チャンが岩波文庫のカントやヘーゲルなんぞを手にとっていたりする。近所の図書館も人がいなくてガラガラなんてことはないし、ほんとうにいまの学生は本を読まないのだろうか?(続く)

チベット人として生きるということ

国境を越えて亡命するチベット人を、中国人民解放軍兵士が狙撃する衝撃的な映像。

http://www.youtube.com/watch?v=hXC5RxhZUYw&eurl=

亡命チベット人は生き仏であるダライ・ラマ14世を慕って雪原の高峰を徒歩で進んでいく。仲間が倒れてもその歩みを止めることはない。

もともと中華人民共和国が建国された1949年以降、中国共産党政府(以下、中共)はチベットは中国の一部である、という従来の主張を根拠にしてチベットに侵攻した。チベット人は独立を望んでおり中共の支配下になることに反対であったが、結局は中共の軍事力に屈し現在の西藏自治区が成立した。中共はチベット人がチベット仏教を信仰することを認め、社会主義化は強要しないといったにも関わらず、周辺地域(雲南省、四川省、青海省)では社会主義化を押し進めた。

中共に対する不信感から西藏自治区で反中国運動が盛り上がり、1956年には武装蜂起を開始した。これがいわゆるチベット動乱である。結局中共はチベット人の武装蜂起を制圧し、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命し、一説には十万人以上のチベット人がダライ・ラマ14世を追ってチベットを脱出した。結局中共は宗教弾圧を継続し数知れぬ寺院や仏像が破壊されたという。

現在でも中共はチベットの独立を認めず西藏自治区という扱いでお茶を濁しているままだ。いくら中共が唯物主義で宗教の弾圧を押し進めたとしても、チベット人の人生は宗教(チベット仏教)と不可分である。宗教は政治を動かし、政治を恐怖させ、政治を超える。だからこそ中共は、われわれは(かたちのうえでは)完全制圧していませんよ、自治を認めていますよ、と世界に向けてアピールしているのである。

現在中国国内には西藏自治区のほか、内蒙古自治区、新彊ウイグル自治区、寧夏回族自治区、広西チワン族自治区と、ぜんぶで5つの自治区を有している。世界地図を広げて中国を見てほしい。これら5つの自治区が独立してしまったら、中国人(漢族)の国家が驚くほど小さくなってしまうことがわかるだろう。中国が抱えている問題は臺灣独立だけではない。国内における自治区の支配を中共がいかに重要視しているかが想像できるだろう。そのくせダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞したときは国内ではこれを完全に黙殺し、国外に対しては異議を申し立てたことはよく知られている。

極寒のヒマラヤを(チベット人にとってはなんてことはないかもしれないが)黙々と歩いて国境を越えるチベット人が抱える苦悩は図り知れない。世界を眺めてみれば平和などという言葉がそらぞらしく感じられる。諸行無常。

ところでこん平は?

林家木久蔵の息子林家きくおが来年の9月に木久蔵を襲名、真打昇進とのニュース。

木久蔵は改名するとのことだがどうなるんだろう。木久蔵は最初桂三木助(三代目)に入門、三木助没後にトンガリの林家正蔵(八代目)門に移り木久蔵を名乗った。師匠筋からいけば正蔵なんだが、まあこれはいろいろといきさつがある名跡で、いまは林家こぶ平が正蔵(九代目)を襲名しているからナシ。トンガリの正蔵の隠居名・彦六ってのもちょいと無理がある。となるといま三木助が空いているから、それか。

でも三木助って風情でもないしなあ、木久蔵。いっそ「きくお」を名乗ればいいのではないか、ってそれじゃ林家こぶ平が正蔵の名跡を襲って「大きな名前を小さく」し、代わりに義兄の春風亭小朝が林家こぶ平を名乗り「小さな名前を大きくする」という冗談といっしょだ。あ、だめだ。きくおは木久蔵の前座名だった。

木久蔵ラーメンはどうなるんだろう。いっせいに○○ラーメンにするのかネ? それともすべて木久蔵を襲名するきくおが引き継ぐのか? ンな、馬鹿な。

などと書いたところで木久蔵の新しい名前は公募するとのこと。スポーツ報知では木久翁(きくおう)が有力、という出所のよくわからない記事が踊っていたが、公募ねえ、、、

「19日で69歳を迎え、来年には70歳になるので、木久蔵から脱皮して落語だけでなく映画や時代小説など新たな分野に挑戦してみたい」(木久蔵談)

だったら千恵蔵だな、林家千恵蔵。大森うたえもんと組んで営業ができるぞ。

戯夢人生

『戯夢人生』 (1993)を観た。

『恋恋風塵』『悲情城市』などで飄々とした演技を披露した、侯孝賢作品の名脇役・李天祿の半生を綴った作品。ここで侯孝賢監督は、臺灣が日本に統治されていた時代を、布袋戯(ポテヒ)と呼ばれる人形劇(臺灣の伝統藝能)の名手である李天祿の半生を題材に描いてみせる。

清朝末期に生まれた李天祿は幼くして母を亡くし冷たい継母に育てられた。幼い頃から布袋戯の才能を見込まれて旅回わりの劇団で働く天祿の前半生は、そのまま大日本帝国の臺灣統治時代と重なっている。布袋戯の題材も中国の古典劇から、鬼畜米英をやっつける戦争劇に変わっていく。天祿が家族を連れて臺北から田舎に“疎開”したとたん、終戦の詔勅がくだり日本の長い臺灣統治は終りを告げた。ところが疎開したおかげで天祿の父はマラリアを患って死に、天祿たちもマラリアで苦しみ、臺北に戻ったあとで幼い次男もこの世を去る。疎開なんて日本だけかと思っていたが、臺灣でも疎開なんてやっていたのである。なんということだ。

この映画では、日本の臺灣統治時代が良かったとか悪かったとか、日本帝国主義を肯定・否定するとか、とにかく政治的なイデオロギーはほとんど描かれない。侯孝賢監督は李天祿という“老臺灣(オールド・タイワニーズ)”の回想を淡々と描いているだけだ。しかしイデオロギーを主張せず淡々と描くことで、日本統治下の臺灣の苦しみや悲しみがうっすらと、しかも新鮮に浮かび上がってくるという効果を生んでいる。要所要所で画面に登場して往時を回想する李天祿の飄々とした姿がなんとも味わい深い。

切符を買うとき、モギリ嬢が「今回の『戯夢人生』は、オリジナルプリントの35ミリフィルムではなくDVDでの上映になっているんですけど、よろしいですか?」と聞いてきた。まあそのへんは別に気にはしないが、なんでまたオリジナルプリントが手に入らなかったのか、と尋ねると「もともとその予定だったのですが、直前になってキャンセルになってしまいまして、、、」と言う。まあいろいろあるのだろう。それでも映画を観たあとではやはり35ミリフィルムのワイドスクリーンで観たいなあと思ってしまった。

50マイル台のスピード表示に笑いが起きた

私がアンダースロー好き、変則好きであることは過去記事「変則な男たち」(2005年12月11日)参照いただくとして、今日は野球ファン限定で書く。野球のわからない人は置いていきますので悪しからず。

千葉ロッテ・マリーンズのピッチャー渡辺俊介が書いた『アンダースロー論』を読んだ。
アンダースローというのはピッチャーの投球フォームのひとつ。投球フォームはオーバースロー、スリークォーター、サイドスロー、アンダースローの4種に分けられる。オーバースローは文字通り上から腕を振り降ろすフォームで、野球ファンでなくともだいたいこのフォームが想像できるだろう。真上に近い位置から腕を振り降ろすと本格派と言われる。サイドスローは腕が横から出て来るフォーム。現役では吉野誠(タイガース)、木塚敦志(ベイスターズ)をはじめ比較的多い。過去には斎藤雅樹(ジャイアンツ)、高津臣吾(スワローズ)、サウスポーの角三男(ジャイアンツ)がいた。

スリークォーターというのはサイドスローに近いオーバースロー、といえばおわかりだろうか。まあだいたいこのへんの区別は比較的視覚に頼るところが大きい。サイドスローとアンダースローの違いというのもまた微妙。理論的にいうと地面に対して上半身が直角だとサイドスロー、左右どちらかに傾斜していればアンダースローという区別もあるらしい。最初はアンダースローのようなフォームなのに、最後はスリークォーターに近いところから投げる村田辰美(バファローズ)のような超個性派もいるからややこしい。かつての山田久志、足立光宏(ブレーブス)、金城基泰(ホークス)などが本格派のアンダースローと呼ばれていた。文字通り上半身を折り畳んで腕が地を這うように出て来るフォーム。

乱暴にいえば少年野球を含めてピッチャーの70〜80%くらいがオーバースローとスリークォーターだろう。残りの10〜15%がサイドスロー、アンダースローは5%を切るのではないだろうか。まあそれくらい稀少価値があるということだ。渡辺俊介自身、この本で「残念ながら、アンダースローのピッチャーは、いまもプロ野球では多くありません。入団したとき、アンダースローは『絶滅危惧種』と言われて戸惑った経験があります」(216p)と書いている。

この本で興味深かったのは、変化球ひとつとってもアンダースローならではの握り方があり、腕や肘の使い方があり、それらが実にわかりやすく書かれていることだ。たとえば、手首を立てるアンダースローと手首を立てないアンダースローがある。「山田(久志)さんが手首を立てて投げていたのは、もう有名な話だと思います。アンダースローだけれど、投げている手首の角度だけを見れば、オーバースローと同じように上から下に振っている。だから、低い位置だけれど、球の質はオーバースローなんです」(45p)これもさらに「手首だけを立てたらうまくいかないので、山田さんはヒジも立てる。だから、僕よりはリリースの位置は高い」とあるように、ヒジを立てるあるいは立てないフォームもある。ともに本格派アンダースローと評される山田と渡辺俊介の違いがわかる。なるほどね。

手首を立てるアンダースローといえば、南海ホークスの黄金時代を支えたエース杉浦忠が有名。「その秘密は何かといえば、手首の使い方にある。地を這うように繰り出す腕と直覚の形で手首が出てくるのが、杉浦の投法だった。(中略)杉浦が投げる時、手首を返す瞬間に『バシッ!』という音が打者に聞こえたという伝説もあるほどだ」(『魔球伝説』スポーツグラフィック『ナンバー』編 175-176p) 南海ホークスの黄金時代を支えたもうひとりのエース、サイドスローの皆川睦男はインタビューに対して次のように答えている。「私の投げ方は、手首が立たない。これはタイプの問題。だから、シンカーが投げやすい。杉浦は手首が立っている。これでは、シンカーを投げるときに余分にヒネることになり、肘や肩に負担をかける。杉浦が入団してきて、私のシンカーを見て“教えてくれ”と言ったが、私はダメだとあえて教えなかったのには、そういう理由があったからだ」(『魔球伝説』 79p)

本書からもうひとつ。日本の野球界には、国際大会に出場する代表選手を選ぶときに「アンダースロー枠」というのがあるらしい、というのが面白かった。アンダースローというのは日本独特のフォームなので、海外の選手は慣れていないので、必ず1人か2人は選ばれるというのがその理由。渡辺俊介はアンダースローに適した身体能力(身体や関節のすぐれた柔軟さ)を備えているが、それ以上に際立っているのが、じぶんが野球選手として生き残るためにはどうすればいいのか、ということに貪欲である、ということ。あえて「絶滅危惧種」と言われるアンダースローを選んだこと、お手本や指導者の少ないアンダースローだけに自分で常に試行錯誤を続けること、この姿勢には頭が下がる。個性が個性が、と個性ばかり強調する連中が多いが、ほんとうに個性派でいるためには強固な意志と素直な心が必要なのだろう。

今シーズンは不調だった渡辺俊介だが、来シーズンこそふたたびあの勇姿をマウンドで見たいものである。豪速球全盛のメジャーリーグではめったに見られない、あの80キロ(50マイル)を切るような超スローカーブを見るだけで面白いのだから。

「大会(WBC:World Baseball Clasic)前、(ミルウォーキー)ブリュワーズとのオープン戦で投げたときは、最初スタンドや相手のベンチから笑い声が聞こえました。スピードのいちばん遅いカーブを投げたときです。みんな本当に笑っていました。「どんな反応するかな?」と興味はありましたが、まさか笑われるとは。でも試合では完璧に抑えたので、最後には笑っていられなくなったようです」(135-136p) 

光景が目に浮ぶようだ。

冬冬(トントン)の夏休み

『冬冬(トントン)の夏休み』(1984)を観た。

臺北の小学校を卒業したトントンは妹のティンティンとともに祖父の住む銅鑼へ出かける。病弱な母は手術を控えており父は仕事がある。幼い兄妹は地元の少年たちと仲良くなり自然のなかで元気いっぱい遊び回る。『川の流れに草は青々』と同様のプロットでもあり、泥だらけになって遊ぶ子どもたちの描写と演出はお手のもの。

母の病気と手術が幼い兄妹の心に不安な影を落し、母の両親も同様に心を痛める。トントンたちの叔父(母の弟)は恋人を妊娠させてしまったことがバレて両親から家をたたき出される。村の開業医で頑固なおじいさんを演じる古軍が良い味わい。ちょっと嵐寛寿郎に似てるし。

村にはちょっと頭の弱い寒子(楊麗音)という女がいて、いつでも変な格好をして日傘をさして歩き回っている。村の雀取りの男がこの寒子にちょっかいを出して妊娠させてしまい、おじいさんたちは激高する父親をなだめる。そんな周囲の心配をよそに寒子はいつものように歩き回る。ある日、線路で転んでしまったティンティンは間一髪のところで寒子に救出された。それからしばらくして寒子は樹から落ちて流産してしまった。

夏休みのあいだ、幼い兄妹は村の子どもたちとの友情を育み、不思議なおとなたちの世界を垣間見た。やがて母の手術は無事成功し臺北から父親が迎えに来た。途中で車を降りたトントンは村の子どもたちに別れを告げ、また来年も来るからね!と叫び臺北へと戻っていった。ちなみに父親役を演じているのは、侯孝賢監督と同世代で臺灣映画界の名匠エドワード・ヤン(楊徳昌)監督。

ラジコンカーと亀を交換してくれたトントンのもとに、村の子どもたちがみんなで亀を持参する場面がおかしい。亀なんかそんなにたくさんいらないよ(笑)。

シンジラレナーイ!

北海道日本ハム・ファイターズが福岡ソフトバンク・ホークスを1対0で降し、実に25年ぶりのパ・リーグ制覇を成し遂げた。これでホークスは3年連続でプレーオフで涙を呑んだことになる。呆然とグラウンドに座り込む松中、マウンドに崩れ落ち号泣する斉藤、厳しい目でグラウンドを見つめていた森脇監督代行。レギュラーシーズンの勝率を取るか、パ・リーグ全体の盛り上がりを取るか。この滑稽かつ悲愴な選択の犠牲者といえるだろう。視点を変えれば短期決戦で勝てない勝負弱さ、運の無さということもできる。悪法もまた法なり。

セ・リーグでは中日ドラゴンズが阪神タイガース終盤の猛追を振り切って優勝。結局のところ、直接対決で連敗してしまったタイガースには勝ち目は無かったということだ。それにしても8月の終りから25勝8敗という驚異的な勝率を誇ったのは凄かった。昔からのファンなら「おいおい、数字が逆なんじゃねえか?」とツッコミを入れたくなる。そんなに勝つんだったらドラゴンズも叩けよ、と言いたくなるが、まあそんなもんだよ。だってタイガースだもんな。V2なんてタイガースらしくないからこれでいいのだ。

これで2006年度日本シリーズは札幌と名古屋という、なんとも微妙な地域どうしの対決。

お悔やみ二題

多々良純死去。享年89。

なんといっても山田五十鈴の強烈な悪女っぷりが凄い『現代人』(1952)で、最後は池部良に殺される役が傑出していたと思う。あとは、若きジェリー藤尾が狂犬のように暴れまくる『地平線がぎらぎらっ』(1961)の牢名主、通称カポネ。

藝歴は古い。なんたって1936(昭和11)年に新築地劇団で初舞台を踏んでいる。同期が殿山泰司に千秋実。催眠術の達人?としても知られ、催眠体操なる独特の健康法を紹介する本も出版している。殿山泰司のエッセイにも催眠術を操る怪人として登場。


柳家小せん死去。享年83。

大正生まれの噺家がまたひとり逝った。何度か寄席で見かけたがぼそぼそ喋るいかにも古い藝人、という印象だった。柳家一門ばかりか春風亭柳昇亡きあと、落語会の最長老だった。

「次から次へと男ばかりが登場いたしまして、、、さぞかしお力落しのことでございましょう」
こんな古い古いくすぐりが似合う噺家であった。

小せん師匠が高座にあがるたびに「待ってました、色男! 小せんさん!」と叫んでいた熱心なファンのおじさん(そういう人がいたのである)も、さぞお力落しのことでございましょう。

ハードボイルドは男のセンチメンタル

矢作俊彦『ららら科學の子』を読む。

学生運動の真っ最中、殺人未遂で指名手配を受けた男は、謎の組織の手を借りて中国大陸へ密入国した。その頃、中国で起ったプロレタリア文化大革命が全世界を震撼させていた。毛沢東思想こそすべてであり、毛沢東という後ろ楯を得た紅衛兵が、これに反する旧社会の遺物をすべて打倒していた。年端も行かぬ少年少女が毛沢東語録を振りかざして、知識人や資本主義者とみなされたおとなたちを残酷に殴打、殺害した。数え切れぬ文化遺産が破壊され、中国社会は十年の長きに渡って停滞し、数億の人民は一生消えぬ傷を負った。

男は外国から来たプロレタリア革命戦士として華々しく迎えられ、まもなく無用の人間となって南方の農村に幽閉される。以来、三十年の時を経て男は中国の農民として日本に密入国した。蛇頭と呼ばれる人買いに生涯かかって稼ぐだけの金を払って故国に向かった。

帰ってきた男の目に映るものは平和そのものの東京。若者たちは奇妙な化粧とファッションに身を包み、子どもまでもが携帯電話を駆使して二十四時間うろついている。三十年の空白を埋めるには、あまりにも多くのものが変り過ぎていた。両親はとうにこの世を去りたったひとりの妹は何処にいるのかわからない。男はかつての学生運動の同志が差し向けた裏社会の男たちに庇護され、男にとっては“未来の街”東京を歩く。

男は追いかけてきた蛇頭に襲われるが、ボディガードの青年ジェイに救われる。同志とは携帯電話で話をするだけでついに会うこともない。渋谷で出会った少女から現代日本社会について講議を受け、その代わりにランチやディナーを供する。生き別れた妹と携帯電話で話をしたあと、ふいに中国に残してきた妻に会いたいと思う。男はジェイが用意した偽造パスポートを手に中国へ向かう。

矢作俊彦らしいハードボイルドタッチの文章が小気味良い。文革時代の下放の様子もけっこうそれらしく描かれている。学生が学ぶべきものは大学にはなく、それは農村における労働から学ばねばならない、という毛沢東の命令のもと、数知れぬ知識青年が中国全土の農村に幽閉された。この一連の運動を「下放」という。現在、中国で活躍する五十代の作家や芸術家、知識人のほとんどは、この「下放」で青春の日々を苦い思い出に染めている。

ところで男が受け取った偽造パスポートの名前は、、、杉浦五郎。
「わあお!」私はここで思わず声をあげてしまった! 大友克洋の傑作コミック『気分はもう戦争』(原作は矢作俊彦)に出て来る元傭兵の日本人が、ブルックリン橋で狙撃されて死ぬときに呟く。「俺の名はゴロウ、、、ゴロウ、スギウラ、、、忘れるな、、、」 ま、これももとをたどれば日活アクション映画『紅の流れ星』(1967)で渡哲也が演じた主人公の名前なんだけどネ。矢作俊彦のこだわりを感じた一瞬でありました。

ハードボイルドは男のセンチメンタル。さすが、矢作俊彦。

風櫃の少年

『風櫃の少年』(1983)を観た。

大陸にほど近い澎湖島の街・風櫃(フォンクイ)。この街で阿清(鈕承澤)と友人たちは喧嘩と悪戯の毎日を送っている。家には父と母、兄がいるが、父は野球の試合で負傷し廃人同然となっている。ある日、阿清たちは対立するグループとの諍いから警察沙汰の騒ぎを引き起こしてしまい、友人の姉を頼りに家出同然のまま高雄の街に向かう。風櫃とはまったく違う大都会の高雄で阿清たちは、友人の姉、美麗(張純芳)のはからいで仕事と住いを得た。

阿清たちの住むアパートには、美麗の友人で夜間部に学ぶ黄錦和(陳博正)と、恋人の小杏(李秀玲)が暮している。阿清たちは工場で単調な仕事をこなし乍ら少しずつ都会暮らしに慣れていく。錦和は機械の部品を横流ししていたことがバレて工場を馘首になってしまい、小杏を置いて何処かへ行ってしまった。小杏に思いを寄せていた阿清はいろいろと彼女を気遣う。風櫃で喧嘩と悪戯に明け暮れていた輝ける日々は、彼らがおとなになっていくにつれて遠い過去へと消えていく。やがて父が亡くなったという知らせが届き、阿清は風櫃に戻った。阿清は家の入り口に座って、優しく頼もしかった父や若く美しかった母に守られていた日々を回想するのだった。

阿清は高雄を去って臺北に向かうという小杏を見送る。彼女を乗せた長距離バスとともに阿清の青春も去ってしまった。阿清にもそろそろ兵役に着く年齢が近づいてきた。阿清は工場を辞めて露店でカセットテープを売っている友人とともに、兵役記念の叩き売りを始めた。「兵役記念の大安売り! 三本で五十元だよ!」いつもと変らぬ高雄の露地に阿清の声が響き渡る。

楽しかった少年時代が終わり長くて退屈なおとなの時代が始まる。おとなの世界へ足を踏み入れる不安と期待、わけのわからない鬱屈、溢れるエネルギーの遣り場にとまどう。何処にでもある青春の物語。侯孝賢監督が好んで描いた題材だが、現代の高校生たちにも観てほしい映画だと思う。

風櫃の港で美少女の気を惹こうと、波の飛沫でびしょ濡れになってダンスを踊る阿清たちの馬鹿っぷり。いやあ、青春ってほんとうに、かっこわるいですねえ。

悲情城市

『悲情城市』(1989)を観た。

1945年、長い日本統治が終りを告げ臺灣は解放された。慌ただしく帰国の途に着く日本人たちと、新しい時代を迎えて喜びのなかにも戸惑いをみせる臺灣人。彼らは大陸からやってきた国民党政府たちを歓迎したがやがてそれは深い失望に変る。問屋の長男林文雄(陳松勇)には三人の弟がいる。次男は日本軍に徴用されて南洋に行ったまま行方知れず、三男の文良は精神を病んで帰郷し、四男の文清(梁朝偉)は耳が聞こえず言葉を話せない。

文良は上海からやってきたヤクザと組んで阿片の密輸に手を出すが、それを知った文雄は文良を怒鳴りつけ、やがて旧知の阿城との争うハメになってしまった。何者かの密告により漢奸の汚名を着せられた文良は逮捕されてしまうが、文雄は上海のヤクザたちに頭を下げて文良を救い出してもらう。しかし家に帰ってきた文良は拷問のため完全に気が狂ってしまっていた。

やがて1947年、本省人(臺灣人)と外省人(大陸から来た中国人)が争う二・二八事件が起る。小さな写真館を営む文清は、同居している呉寛榮(呉義芳)とともに戒厳令下の臺北に向かうが、寛榮は大怪我をして帰ってきた。国民党政府は本省人を弾圧しはじめ、ある日文清も逮捕されてしまった。文清は処刑された仲間の遺品を遺族に届ける旅に出て、山奥でゲリラ活動をしている寛榮に出会った。そこで文清は寛榮の妹寛美(辛樹芬)をよろしく頼むと告げる。文雄は賭場で起った諍いに巻き込まれ命を落した。林家にはもう文清しか残っていない。やがて文清と寛美は結婚し男の子が生まれた。

臺灣はあらたな激動の時代を迎え人々は弾圧に怯える。ある日、寛榮たちは国民軍に逮捕され銃殺されてしまう。逃げ延びた男が文清にも逃げることを勧めるが、それも虚しく文清は逮捕され妻と幼い息子を残して消息を絶ってしまった。運命を予感していたかのように文清は家族写真を撮影してから間もなくのことだった。そして1949年、中国大陸では共産党が勝利し、敗北した国民党政府は臺灣を占領し、南方の島国は時代の波に翻弄され続けるのであった。

言葉が話せない文清と寛美は筆談で会話する。兄・寛榮を気遣う寛美の想いは文清への思慕に変ってゆく。筆談で想いを伝えあうふたりの姿は美しい。香港映画のスターである梁朝偉(トニー・レオンという名前のほうが有名だろう)は臺灣語が話せない。しかし侯孝賢監督はどうしても彼を起用したかったのでセリフを話さなくてもいいこの役を与えたという。

この映画の主要なロケ地となった九分(にんべんに分)の街は、いまや『悲情城市』を売りにした観光地である。昨年初めてこの街を訪れたとき、山の斜面に沿って家が立ち並ぶ特異な街並を堪能したが、高台から基隆の街を眺めたときの風景がたっぷりとスクリーンに映し出されて懐かしい気持になる。

戦争がもたらした臺灣の悲劇を、ある家族の悲劇に置き換えて描き出した、まさに現代臺灣映画の傑作。陰翳を駆使した映像がこのうえなく美しい。

9月の読書

まずは荻原浩三連発。

書店で何気なく買った荻原浩の『神様からひと言』、あまりの面白さに一気通読。
一流広告会社を辞めて三流食品会社に転職した佐倉涼平。旧態依然とした会社、石頭の上司たちに疎まれてさっそく飛ばされたのは「お客様相談室」。つまりクレーム処理専門部署であり、ついでにいえば左遷も左遷、窓際も窓際、ようするにリストラ要員の吹きだまり。ここにいるのはパソコンおたくで社会性ゼロの羽沢、身につけているものの値段を即座に言い当てる元社長秘書・宍戸、クレーム処理の天才のくせに競艇狂いのダメ社員・篠崎、失語症の大男・神保、嫌味な上司の本間。そして佐倉は数々の目の覚めるような仕事を体験することになる。いやあ面白いわあ。上質のサラリーマン・エンターテインメントだ。

続けて『母恋旅烏』を読む。
レンタル家族派遣業という摩訶不思議な商売で糊口をしのぐ花菱清太郎。元々は旅回わりの花形役者だった清太郎は、いつかふたたび板の上に立つことを夢見て今日も行く。行くのはいいがついていくのはたいへんだ。糟糠の妻、アニメーターを目指す長男、十九歳子持ちの長女、うすぼんやりした次男。借金がかさんでどうにもならなくなった清太郎は、かつて自分が飛び出した旅一座に復帰し、夢にまで見た家族で芝居一座を組むことになる。しかし前途は多難。長女は新人演歌歌手としてデビューし、長男は家を出てアニメーターの学校に通い始めた。はたして花菱一家の行く先にあるものは?

さらに『誘拐ラプソディー』を読む。
「犯人はどこの馬鹿だ?」それは伊達秀吉、男、三十八歳、無職、所持金六百三十五円。切羽詰まった男が最期の大逆転を夢見て誘拐した小学生は、街でいちばんの暴力団組長のひとり息子だった。そうとは知らぬ伊達は呑気に身代金をせしめようと奔走する。暴力団組長に恨みのある中国人マフィアはこれを好機と反撃ののろしをあげた。知らぬ間に暴力団と中国人マフィアに追われる身となった伊達はしだいに不穏な空気を感じはじめる。いつのまにか県警の敏腕警部補までが伊達を追いかけはじめた。このうえなくマヌケで不運な誘拐犯の傍で無邪気にはしゃぐ人質。明日はどっちだ?

三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』を読む。
東京のはずれ、神奈川県境に位置するまほろ市を舞台に、便利屋を営む多田と行天の迷コンビがさまざまな事件を相手に活躍する。まほろ市は町田市のことで著者も町田市在住らしい。私も町田市に住んでいたことがあるので、ここは小田急駅前広場だ、闇市起源の商店街だ、あの奇天烈な喫茶店だと、街角の描写がリアリティを持って受け止めることができる。それはそうと、これ絶対映画化されるんだろうなあ。

バーバラ・エーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド:アメリカ下流社会の現実』を読む。
うーん、なんというかよくわからない。現場潜入ルポという手法は古典的(これは著者も書いている)なのだが、なんというか驚きがあまり無い。アメリカの貧困層は凄いことになっているというのは周知の事実なので、もっと目新しい事実が見えて来るのかと期待していたのだが、、、まあそれはそうと世界に冠たる“自由の国”がなんと不自由であることか。

NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命:被爆治療83日間の記録』を読む。
1999年9月30日、茨城県東海村の核燃料施設で起った臨界事故のことを、いまどれだけの人が記憶にとどめているだろう。かくいう私も書店でこの本を見るまで忘れていた。放射線被爆事故の恐怖がひしひしと伝わってきて総毛立つ。そして100%無駄であることがわかっている治療に専念した医療チーム、死を待つだけの患者を励まし続ける家族の葛藤。いまこそ読まれるべき一冊。

北尾トロ『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』を読む。
いろいろな雑誌で雑多な記事を書き続けていた北尾トロも、いまや何冊も著作を出している中堅ライターになった。その北尾トロが裁判傍聴の面白さにハマり、裁判所に通いつめて目にした人間ドラマを軽快に描き出す。裁判所で出会った傍聴マニアのみなさんも凄い。マニア道とは奥深いものよのお。

斎藤由香『窓際OL トホホな朝ウフフの夜』を読む。
トンデモナイ天才ライター出現。父は北杜夫、伯父は斎藤茂太、祖父は斎藤茂吉、祖母は斎藤輝子。血は争えない。

恋恋風塵

『恋恋風塵』(1987)を観た。

炭坑の街で育ったワン(王晶文)とホン(辛樹芬)は兄妹のように仲がよい。ワンは中学を出ると臺北に出て印刷工場で働きはじめる。やがてワンの後を追うようにホンも臺北に出て洋装店で働きはじめる。ワンの下宿は映画館の裏の狭い部屋だ。ここでも主人公は映画館に住んでいる。ワンは印刷工場を辞めてオートバイで配達する仕事を始めたが、ある日オートバイを盗まれて海辺の街から帰れなくなってしまった。警察に保護されたワンはテレビを観ているうちに、落盤事故の映像を観て気を失ってしまう。父親の事故を思い出してしまったのだ。ホンは下宿で寝込んでいるワンを献身的に看病する。

やがてワンは兵役につくために臺北を離れた。頻繁に届いていたホンからの手紙がやがてぱったり届かなくなってしまい、ワンが送った手紙は宛先不明で戻されてきた。やがてワンは、ホンが郵便配達の青年と結婚してしまったことを知り、兵舎のベッドで悲痛なうめき声をあげて泣く。やがて兵役が終わってワンは家に戻ってきた。祖父(李天祿)はワンに向かって「薬用ニンジンよりもイモを作るほうが難しいんじゃ」と呟く。海を見下ろす炭坑街の風景は何ひとつ変らず、ワンの周りにはゆるやかに時が流れていた。

映画の冒頭、列車はいくつものトンネルを抜け炭坑街の小さな駅に到着する。この映画はこのシーンですべてが言い尽くされている。 余計な説明は何ひとつない。むやみに背景を語る言葉もない。そこにあるのは、ひとりの少年とひとりの少女の、淡い恋のような、仲良しの兄妹のような静かな思い。少年と少女がやがておとなになっていく過程にある、どこにでもあるような青春の光と影。まるで一篇の長篇叙事詩のような映画。もう一度観たい。何度でも観たい。そんな映画。侯孝賢監督、というか臺灣映画独特の長回しの撮影もいい効果をあげている。

駒大苫小牧

今夏の高校野球選手権大会で早稲田実業と駒大苫小牧が球史に残る熱戦を繰り広げたのは記憶に新しい。ハンカチ王子のアイドル斎藤くんと王子に比べて武骨な田中くん、この二人の熱のこもった投手戦は凄かった。ハンカチ王子は早稲田大学に進学、いっぽう田中くんは楽天イーグルスにドラフト1位指名。進路まで対照的で面白い。

田中くんの母校は「駒大苫小牧(こまだいとまこまい)」。この校名がまるで早口言葉のようにアナウンサーを悩ませている。ラジオを聞いているとこれが面白い。

「とまだいこまこまい…あ、いや、こまだいこまこま…失礼しました…」
「北海道のとまだいとまとま…じゃなくて、こまだいとまこまだい…」

昨夜はTBSラジオで渡辺真理がおもいきり噛んでいて微笑ましかった。(昔からちょっと好きなんだよネ)
ちゃんと発音できると、お、このアナウンサーなかなかやるな(笑)と思ってしまうのは私だけ?

川の流れに草は青々

臺灣映画界の巨匠・侯孝賢映画祭が始まった。

『川の流れに草は青々』(1982)

臨時採用でのどかな田舎町の小学校に赴任してきた青年教師・廬大年(鐘鎮濤)。クラスのワンパク三人組は初日から騒動を巻き起こし大年もびっくりである。大年の下宿は、同僚の音楽教師・陳素雲(江玲)の実家が経営するおんぼろ映画館の二階。映画館の二階に住むなんて羨ましい。大年と素雲はなんとなく良い雰囲気で彼女の両親はちょっと心配気味だ。ある日大年は、川に毒を流して魚を捕っていた男を注意して逆にやっつけられたしまった。翌日、教室でこの話を聞いた級長が、その男はワンパク三人組のひとり周興旺の父親だと言い出して取っ組み合いのケンカになる。

大年と素雲の仲が良い雰囲気になっているとき、臺北から大年のガールフレンドが突然やってきた。いかにもはすっぱなガールフレンドの登場で村は大騒ぎ。素雲は嫉妬して怒ってしまう。やがて大年が正式に素雲にプロポーズして悶着も収まり、ある日大年と素雲は子どもたちを連れて川遊びに出かけた。そこに川に電気を流して魚を捕っている興旺の父が現れ、興旺はいたたまれなくなって逃げ出した。傷ついた興旺は母恋しさに幼い妹を連れて家出してしまい、途中で保護されてしまう。興旺の母親は離婚して家を出ていき、父親は子どもたちを養うために魚を捕っていたのだ。

大年は“愛川護魚”(川を愛し魚を保護しよう)運動を開始して奔走し、ついに村は環境保護区の指定を受けることになった。改心した興旺の父親も保護運動に協力し、みんなは楽しそうに稚魚を放流する。臨時採用期間が終わり大年は素雲といっしょに村を去った。田園地帯を走る列車を追いかけて、子どもたちがいつまでも別れを惜しんでいた。

かつては日本の何処にでもあったようなのどかな農村風景と、真っ黒になって遊び回る子どもたちがとてもかわいい。子どもたちは基本的に子どもたちの世界で遊びまくっているが、少しづつおとなの世界の入り口を垣間見る。ワンパク三人組のいたずらや失敗には大笑いさせられる。川で思いきり遊ぶ子どもたちの姿がとても良い。なんとなく70年代の松竹が濫作した青春ドラマを観ているようだ。熱血青年教師とマドンナ教師のさわやかな恋愛劇を軸にして映画は進行するのだが、暴れ回る子どもたちのサイドストーリーにかすみがち。

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