2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

« Shall we dance ? | トップページ | 伝説の男 »

Shall we dance ?(2)

事務室から出てきたのは四十代後半くらいの落ち着いた感じの女性、こちらの用件に答えて曰く「番地や施設名が掲載されている地図、ですか。ゼンリンの住宅地図みたいなものですね、、、うーん、そもそもゼンリンの住宅地図じたいが昭和35年頃からしか発行されていないんですよ」そして彼女は書庫から昭和40年前後の住宅地図数冊を出してきてくれた。「ここの図書館ではこれしか資料がないんですが、区役所分室の資料室には郷土史料が揃っています。よろしかったら電話して探してもらいますよ」と言うのでついでにお願いすることにした。礼を述べて閲覧席で住宅地図をなめるように見るが、進駐軍が引き揚げてから十年以上も経った頃の地図、もちろんダンスホールなど掲載されてはいない。まあせっかくだからコピーでもとっておくかとコピー機のところに行くと、さきほどの司書が近寄ってきて「資料室から連絡がありまして、お出でになれれば資料を用意しておきますということです。ええ、駅の近くの○○ビルの裏です。それじゃこれから直接行かれると連絡しておきますね。それから、最近は著作権が厳しくなっていますので、資料をコピーするときは申し込み用紙に記入してください。特にゼンリンはうるさいので(苦笑)、、、」そうそう、ゼンリンはうるさいんだよな、と同業者の私も心の中で苦笑い。ふたたび礼を言ったときに名札をみたら、彼女はなんと図書館長だった。図書館長みずから最前線で働くのか。良いことではあるが、それだけ専任職員が減らされているのだろう。

コピーを取り終えて区役所分室までとぼとぼと歩く。繁華街の裏手にぽつんと建っている区役所分室のなかに資料室はある。誰も閲覧者のいない寂しいところだったが、のこのこと入っていくとジャンパーを着たオジサンがにこやかに迎えてくれた。「ああ、お待ちしてました。昭和二十三年頃の地図はあるんですけど、ただ住宅地図じゃあないんですよ。これじゃあダメですかね(笑)」机の上に広げられた地図は残念乍ら地形図なので、ダンスホールがどこにあるかなどは皆目見当もつかない。それでもオジサンはこちらの希望に応えるべく、あれやこれやと資料を引っ張り出してきてくれる。大正時代の多摩川両岸の商業広告(一枚ものの図)があった。これはなかなかのもので、簡単な地図も掲載されており、料亭や待合いの場所と名前がばっちり掲載されている。うーん、二子玉川界隈にも料亭が立ち並んでいたのだなあ。田山花袋の『東京近郊;一日の行楽』の記述どおり、ここは東京市民の行楽地だったことがよくわかる。しかし私が見たいのは昭和二十三年頃の地図なのだ。しょうがないので地図はあきらめて、文献資料をいろいろと調べることにする。ところが戦前の三業地だった頃の記録は豊富にあるのだが、戦後はどのように変化していったかという記録がない。次第に窓の外が暗くなってきて閉室時間が近づいてきた。しょうがない、今日はこれくらいにしてまたそのうち中央図書館にでも調べに行ってくるか、と思い始めた頃、一冊の本をパラパラとめくっていた私は小さくアッ、と叫んだ。

「戦後この亀屋はアメリカ進駐軍に接収され、リバーサイドというダンスホールになり、GIと日本の女が肩を組んで歩く姿がめだったという」(杉山康彦『川崎の文学を歩く』多摩川新聞社 , 1992)

かつて溝口に亀屋という旅館があった。国木田独歩が書いた『忘れえぬ人々』という短篇小説は、溝口の亀屋という旅館が舞台になっている。二子の渡し舟で多摩川を渡った主人公は、大山街道沿いにあった亀屋で一泊した。そのときに宿で出会った青年との邂逅を綴ったちょっと暗い印象の小説。ところがこの亀屋のほかにもうひとつ、溝口の手前の二子にも田山花袋お気に入りの亀屋があった。こちらは料亭兼宿屋だったようだが、田山花袋が『東京近郊;一日の行楽』で書いているのは二子の亀屋のほうだ。二子の亀屋はかつての二子の渡しの真ん前に位置していた。いまはもちろん渡しは無くなってしまい、渡し場だった痕跡を示す記念碑が建っている。現在はこの先に二子橋がかかっていて道路に並行して東急田園都市線が走っている。まさに東京と川崎をつなぐ要所だったのだ。そして問題はこの「二子の亀屋」だったのである。

そうか、リバーサイドは二子の亀屋のことだったのか! そうだよなあ、いくら進駐軍がやってきたといっても、おいそれとダンスホールなどおっ建てやしなかっただろう。もともとあったホテルやクラブを接収して、戦時中は仕事にあぶれていた日本人の洋楽ミュージシャンたちが、息を吹き返したように演奏を繰り広げていたのだ。ジョージ川口とビッグフォーなどのジャズバンドが空前のジャズブームに乗って、ボストンバッグに入りきらないほどの札束を一晩で稼いでいた、という伝説があるくらいだ。同じように二子の料亭だった亀屋も、進駐軍御用達のダンスホールに仕立て上げられ、タンゴの女王藤沢嵐子も二子の亀屋、いやダンスホール「リバーサイド」でタンゴを歌っていたのだ。二子の亀屋だった辺りは、その後区画整理されてかつての面影は消滅し、蕎麦屋や小料理屋が密集している。かつて亀屋の敷地だったところも、つい最近まではガソリンスタンドだったが、いまではそこもマンションへと変貌を遂げた。そうかあ、あのマンションが亀屋で、国木田独歩が冬の夕暮れにとぼとぼとこの前を通り過ぎ、田山花袋が愛人を連れて酒を呑み、宇野浩二や岡本一平、久保田万太郎といった文人が行楽に出かけ、戦後はリバーサイドと名前を変え、夜な夜なGIと日本人ミュージシャンが入り乱れていたのか。そうかそうか、そうだったのか。でもまさか料亭がダンスホールとはねえ、、、占領されるとはそういうことなのだ、と納得。薄暗くなってきた資料室で私は独り深く頷いたのである。

dsc00672

« Shall we dance ? | トップページ | 伝説の男 »

散歩・旅」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Shall we dance ?(2):

« Shall we dance ? | トップページ | 伝説の男 »