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伝説の男

二子新地のダンスホールについて調べていたらもうひとつ思わぬ収穫があった。
それはこの殺人事件に関することだ。

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昭和三十八年九月二十八日付け読売新聞朝刊 〔川崎発〕 二十七日午後十一時十五分ごろ神奈川県川崎市二子五六さき路上で、二人組のヤクザふうの男と口論していた男が、二人組の男の一人から鋭い刃物で心臓を突き刺されて間もなく絶命した。通りかかった同番地デパート店員田口義順さん(二五)と、通行中の高校生二人(いずれも十六歳)が、百五十メートル追いかけ、多摩川土手に追いつめたところ、二人組の一人がピストルで田口さんめがけて発射、田口さんは右肺を撃たれて出血多量で重体。犯人たちは待たせてあった黒塗りの乗用車に飛び乗り、別のもう一人の男の運転で東京方面に逃走した。
 近所の人から一一〇番の通報を受けた川崎・高津署は全署員を非常召集するとともに、隣接する中原・稲田両署の応援を得て捜査している。殺された男は持っていた自動車運転免許証から東京都世田谷区船橋町一〇九四花形敬さん(三三)とわかった。
 花形さんは東京・渋谷をナワ張りにしている暴力団「安藤組」の大幹部。三十三年六月、銀座のビルで東洋郵船社長横井英樹氏をピストルで撃った「横井事件」では、安藤昇組長の参謀として襲撃計画をたて、東京高裁で殺人未遂ほう助罪などで懲役二年六月の判決を受けた。
 その裁判で保釈中には、三十四年六月二十日、七月三十一日と続けて二回も渋谷署員に乱暴を働いてつかまるなど、前科だけでも七犯、二十四回もの逮捕歴がある暴力団員。安藤組長が服役中、安藤組の事実上の親分格となっていた。
 渋谷署では、安藤組は横井事件で安藤組長ら幹部が逮捕されて以来、すっかり落ち目だが、I一家が横浜〜川崎〜東京とナワ張りをひろげ、渋谷で安藤組とことあるごとに対立、いざこざが絶えず、最近その対立が深刻になってきたため警戒していた矢先だった。(本田靖春『疵(きず)〜花形敬とその時代』文春文庫から引用)
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伝説の男・花形敬の生涯を追った『疵(きず)〜花形敬とその時代』は興味のある方なら必読の一冊。戦後の新興暴力団として名を馳せた安藤組の大幹部。戦後の混乱期を腕と度胸で生き抜いた男。明晰な頭脳と圧倒的な強さを併せ持った伝説の男。当時、飛ぶ鳥を落す勢いだった力道山すら、花形の前ではその凄みの前に圧倒された、というほどの男。対立する暴力団から狙撃されて重傷を負っても、その夜のうちに病院から抜け出して自分を撃ったチンピラを探し歩いた男。そのことを知ったチンピラは恐怖のどん底に叩き込まれた。それが花形敬。当時、日本のヤクザに関するノンフィクションを貪るように読んでいた私は、この男の凄絶な生き方に圧倒された。

この本を読んだのはだいぶ以前のこと。その後、私が二子新地に棲んだのはまったくの偶然で、自分でも知らないうちに花形敬の最期の地に引き寄せられていたのかもしれない。ある雨の夜、二子の裏通りにあるアパートでずいぶんひさしぶりにこの本を再読していて、此処は花形敬の終焉の地だと気がついた。ところが住居表示は昔とはすっかり変わっていて、新聞記事にある「二子56番地」が現在のどの辺にあたるのかがわからない。いつか調べてみようと思い乍らそのままになっていたが、今回昭和37年の二子新地界隈の住宅地図を閲覧して漸く見当がついてきた。まずは花形敬が二子新地に逼塞することになった事情をふたたび本田靖春の本から引用する。

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 稲川一家が勢力を拡張する一方、町井一家も渋谷への浸透ぶりを目立たせていた。そうした中で、安藤組の一人が、町井一家の若い衆といさかいを起し、相手を練兵場跡の空き地へ連れ出して、刃物で顔と腸をめった斬りにした。やられた側の町井一家は当然、報復しなければおさまらない。その場合、つけ狙われるのは、安藤組を現に代表する花形である。
 花形は難を避けるため、渋谷を引き払って、二子多摩川の橋を渡り切った先のアパートの一室にこっそり居を移した。だが、町井一家側は安藤組の事務所前に張り込みを続け、尾行でそのアパートを突き止めたのである。
 昭和三十八年九月二十七日午後十一時すぎ、アパートの手前約三百メートルの道路わきに運転して来た車を駐め、ドアを開いて降り立った花形は、それに並ぶ形で駐車していたトラックの陰から現れた二人に、両側からはさまれた。
「花形さんですか」
「そうだ」
 その次の瞬間、二人は同時に右と左から、柳葉包丁を花形の脇腹に突き立ててえぐった。花形はアパートの方へ二百メートルほど走って逃げたが、力尽きて昏倒し、その場で絶命した。生涯で初めて敵に背中を向けたとき、彼の三十三年の人生は終わったのである。(同書 p265〜266)
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『川崎市北部明細地図昭和37年度版』(経済地図社)によれば、当時の二子56番地には民家、割烹旅館、空家がそれぞれ1軒ずつ並んでいたことが確認できる。四つ角に面したところに民家が1軒。その隣に割烹旅館、その先に空家が1軒、それぞれ道路に面して並んでいる。花形敬が刺された現場「二子五六さき路上」は、おそらくこの四つ角の民家から割烹旅館、そして空家へと続く路上であると推測できる。しかも道路を挟んだ反対側はかなり広い空き地であった。現在は大きなパン製造工場が建てられているが、これだけの敷地が昭和三十七年当時は空き地だったとなると、夜は人通りも途絶えて闇の色が濃かったことだろう。事件は昭和三十八年九月に起っている。手元にある住宅地図は昭和三十七年度版で、出版は昭和三十八年である。住宅地図作成のための調査はおそらく昭和三十七年におこなわれている。したがって花形敬がいつ二子に居を移したのか、その時期が問題だ。しかしそれはわからない。だからあくまで新聞記事と本田靖春の聞き取り、そしてこの住宅地図から推測することにした。

花形敬が棲んでいたというアパートは何処か?
新聞記事で気になるのは、花形敬が所持していた運転免許証の住所が「東京都世田谷区船橋町一〇九四」とあることだ。運転免許証の更新を怠っていたのか? まあそれはないだろう。いくらヤクザでも免許更新くらいはしたはずだ。となると考えられることはふたつだ。転居とともに住民票も移したが、運転免許証の更新まで間があったのでそのままになっていたか、あるいは妻の名義でアパートを借りてそこを隠れ家としていたので、花形敬の住民票の住所は変わらなかったか。おそらく後者の可能性が高いと思われる。なぜなら花形敬がみずからの住所を変更したとすると、役所等で簡単に居所を突き止められるからである。町井一家が尾行までしてそれを探ったという事実からみて、妻の名義でアパートを借りて花形敬はそこを隠れ家としていた、と考えるのが適当だろう。この住宅地図にはアパートの住人までわかる範囲でかなり詳しく記載されているが、花形敬の名前をみつけることはできない。もし妻名義の記載があったとしても内縁関係だったら花形敬を特定することはできない。なお二子56番地にもっとも近いところに斉藤アパート(二子65番地)、田辺アパート(同62番地)と、いずれも住人の記載がないアパートが掲載されている。どちらも表通りから奥に入った隠れ家的アパートなので、ひょっとすると花形敬の隠れ家はこのどちらかではなかったか。

花形敬が死んだ場所は何処か?
新聞記事によれば「二子五六さき路上で、二人組のヤクザふうの男と口論していた男が、二人組の男の一人から鋭い刃物で心臓を突き刺されて間もなく絶命した」とある。本田靖春の聞き取りによると「アパートの手前約三百メートルの道路わきに運転して来た車を駐め、ドアを開いて降り立った花形は、それに並ぶ形で駐車していたトラックの陰から現れた二人に、両側からはさまれた。(中略)その次の瞬間、二人は同時に右と左から、柳葉包丁を花形の脇腹に突き立ててえぐった。花形はアパートの方へ二百メートルほど走って逃げたが、力尽きて昏倒し、その場で絶命した」とある。このふたつを整理すると花形敬は「アパートの手前約三百メートルの道路わき」で致命傷を負い、そこから「二百メートルほど走って逃げたが、力尽きて昏倒し、その場で絶命」したのが「二子五六先路上」だった、と読み取れる。

現在は二子橋の上流に新二子橋が架かり国道246号が通っているが、昭和三十七年時点ではまだ架橋されていない。となると東京側から来た花形敬は二子橋を渡ってきたに違いない。二子橋を渡るとまず旧大山街道に入る。二子新地の街は旧大山街道に二分され、両側に住宅が密集している。住宅地は今でも車で通るには道が狭く入り組んでいるため、花形敬は旧大山街道に車を駐車して、アパートまで歩くつもりだったのではないか。そうだとすると、花形敬が車を駐めた場所は、二子56番地へまっすぐ続く露地の入り口の森谷酒店(二子264番地)あたりだったと推測できる。報復の標的になっていた花形敬にとって、アパートは隠れ家だったはずだから、すぐ近くに車を駐車しないだけの慎重さは持っていたはずだ。そして何度も尾行を繰り返したであろう刺客は花形敬がいつも車を駐車する場所を確認し、事件当夜、たまたまそこに駐車されていたトラックの陰に隠れて花形敬がやって来るのを待ち伏せていた、と推察される。ここで刺客に襲われた花形敬は致命傷を負ったままこの露地に逃げ込み、二子56番地あたりで力尽きた。刺された場所から倒れた場所まで200メートル、というのはこの推測ではちょっと矛盾するが、とにかくこのルートがいちばんわかりやすい。そのほかの仮定では、腹を刺された花形敬は鮮血を滴らせ乍ら、曲がりくねった露地を走り抜けることになる。通常ならいざ知らず、致命傷を負わされたという切迫した状況では、この一本道を走り抜けると考えるのが妥当だろう。

奇しくもその二子56番地は、私がかつて棲んでいたアパートから50メートルも離れていない場所であった。
私は伝説の男・花形敬が血にまみれて死んだすぐそばに暮していたのだ。

※写真は現在の二子56番地附近(現川崎市高津区二子1丁目)
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コメント

管理人さま こんばんは。

さっき(!)、「東京裏路地<懐>食紀行」という本を読んでいたら、花形敬が出てきたので御報告します。

渋谷・百軒店に関するレポです。

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背が高くて恰幅がよくてさあ、まるでプロレスラーみたいに目立っていたから、この辺じゃ誰もが知っていたわよ。肩で風切って歩いてさあ、迫力あったっけ。
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だそうです。

そうそう、溝の口に「ラーメン 力」ってありますか? カレーチャーハンとシュウマイがおいしいそうですよ~。行きつけだったりして。

サワコ様

花形敬の伝説って丹念に探したらあちこちにありそうですね。
肩で風切って歩いてた、そういう男がいた時代だったんだなあ。

「ラーメン 力」は路地裏にある古くさいラーメン屋で、お洒落なスポットではまったくありません。
二、三度入ったことあるけどとんこつラーメンしか食べたことないな。
カレーチャーハンとシュウマイですか、こんど食べてみよう。

サワコ様

こないだひさしぶりに「ラーメン 力」に行きました。
ここの店長はやしきたかじんと上田正樹を足して2で割って田代まさしと混ぜたようなオヤジで、常連の客とくっだらない冗談を飛ばしあってますよ。
おかげで店内はゆる〜い雰囲気が濃密に凝縮されています。

定食を食べたのですがスープが塩っぱかった。
だいたいここは味付け濃いめなんですよねー。
カレーチャーハン、、、どんな味なんだろうなあ。
次回チャレンジ。

>やしきたかじんと上田正樹を足して2で割って田代まさしと混ぜたようなオヤジ

どんなオヤジだろう・・・。
大阪顔のスケベオヤジ??(失礼)

「ラーメン 力」はくだんの本に紹介されていて知りました。写真だとクドくてうまそうです。私は負けるかもしれない。

エグ味のあるラーメン目当てに、プロレスの高岩竜一(知らないけど)や東幹久も来たとか。


溝の口の旧闇市っぷり、半端じゃなさそうですね。

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