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2006年2月

伝説の男

二子新地のダンスホールについて調べていたらもうひとつ思わぬ収穫があった。
それはこの殺人事件に関することだ。

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昭和三十八年九月二十八日付け読売新聞朝刊 〔川崎発〕 二十七日午後十一時十五分ごろ神奈川県川崎市二子五六さき路上で、二人組のヤクザふうの男と口論していた男が、二人組の男の一人から鋭い刃物で心臓を突き刺されて間もなく絶命した。通りかかった同番地デパート店員田口義順さん(二五)と、通行中の高校生二人(いずれも十六歳)が、百五十メートル追いかけ、多摩川土手に追いつめたところ、二人組の一人がピストルで田口さんめがけて発射、田口さんは右肺を撃たれて出血多量で重体。犯人たちは待たせてあった黒塗りの乗用車に飛び乗り、別のもう一人の男の運転で東京方面に逃走した。
 近所の人から一一〇番の通報を受けた川崎・高津署は全署員を非常召集するとともに、隣接する中原・稲田両署の応援を得て捜査している。殺された男は持っていた自動車運転免許証から東京都世田谷区船橋町一〇九四花形敬さん(三三)とわかった。
 花形さんは東京・渋谷をナワ張りにしている暴力団「安藤組」の大幹部。三十三年六月、銀座のビルで東洋郵船社長横井英樹氏をピストルで撃った「横井事件」では、安藤昇組長の参謀として襲撃計画をたて、東京高裁で殺人未遂ほう助罪などで懲役二年六月の判決を受けた。
 その裁判で保釈中には、三十四年六月二十日、七月三十一日と続けて二回も渋谷署員に乱暴を働いてつかまるなど、前科だけでも七犯、二十四回もの逮捕歴がある暴力団員。安藤組長が服役中、安藤組の事実上の親分格となっていた。
 渋谷署では、安藤組は横井事件で安藤組長ら幹部が逮捕されて以来、すっかり落ち目だが、I一家が横浜〜川崎〜東京とナワ張りをひろげ、渋谷で安藤組とことあるごとに対立、いざこざが絶えず、最近その対立が深刻になってきたため警戒していた矢先だった。(本田靖春『疵(きず)〜花形敬とその時代』文春文庫から引用)
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伝説の男・花形敬の生涯を追った『疵(きず)〜花形敬とその時代』は興味のある方なら必読の一冊。戦後の新興暴力団として名を馳せた安藤組の大幹部。戦後の混乱期を腕と度胸で生き抜いた男。明晰な頭脳と圧倒的な強さを併せ持った伝説の男。当時、飛ぶ鳥を落す勢いだった力道山すら、花形の前ではその凄みの前に圧倒された、というほどの男。対立する暴力団から狙撃されて重傷を負っても、その夜のうちに病院から抜け出して自分を撃ったチンピラを探し歩いた男。そのことを知ったチンピラは恐怖のどん底に叩き込まれた。それが花形敬。当時、日本のヤクザに関するノンフィクションを貪るように読んでいた私は、この男の凄絶な生き方に圧倒された。

この本を読んだのはだいぶ以前のこと。その後、私が二子新地に棲んだのはまったくの偶然で、自分でも知らないうちに花形敬の最期の地に引き寄せられていたのかもしれない。ある雨の夜、二子の裏通りにあるアパートでずいぶんひさしぶりにこの本を再読していて、此処は花形敬の終焉の地だと気がついた。ところが住居表示は昔とはすっかり変わっていて、新聞記事にある「二子56番地」が現在のどの辺にあたるのかがわからない。いつか調べてみようと思い乍らそのままになっていたが、今回昭和37年の二子新地界隈の住宅地図を閲覧して漸く見当がついてきた。まずは花形敬が二子新地に逼塞することになった事情をふたたび本田靖春の本から引用する。

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 稲川一家が勢力を拡張する一方、町井一家も渋谷への浸透ぶりを目立たせていた。そうした中で、安藤組の一人が、町井一家の若い衆といさかいを起し、相手を練兵場跡の空き地へ連れ出して、刃物で顔と腸をめった斬りにした。やられた側の町井一家は当然、報復しなければおさまらない。その場合、つけ狙われるのは、安藤組を現に代表する花形である。
 花形は難を避けるため、渋谷を引き払って、二子多摩川の橋を渡り切った先のアパートの一室にこっそり居を移した。だが、町井一家側は安藤組の事務所前に張り込みを続け、尾行でそのアパートを突き止めたのである。
 昭和三十八年九月二十七日午後十一時すぎ、アパートの手前約三百メートルの道路わきに運転して来た車を駐め、ドアを開いて降り立った花形は、それに並ぶ形で駐車していたトラックの陰から現れた二人に、両側からはさまれた。
「花形さんですか」
「そうだ」
 その次の瞬間、二人は同時に右と左から、柳葉包丁を花形の脇腹に突き立ててえぐった。花形はアパートの方へ二百メートルほど走って逃げたが、力尽きて昏倒し、その場で絶命した。生涯で初めて敵に背中を向けたとき、彼の三十三年の人生は終わったのである。(同書 p265〜266)
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『川崎市北部明細地図昭和37年度版』(経済地図社)によれば、当時の二子56番地には民家、割烹旅館、空家がそれぞれ1軒ずつ並んでいたことが確認できる。四つ角に面したところに民家が1軒。その隣に割烹旅館、その先に空家が1軒、それぞれ道路に面して並んでいる。花形敬が刺された現場「二子五六さき路上」は、おそらくこの四つ角の民家から割烹旅館、そして空家へと続く路上であると推測できる。しかも道路を挟んだ反対側はかなり広い空き地であった。現在は大きなパン製造工場が建てられているが、これだけの敷地が昭和三十七年当時は空き地だったとなると、夜は人通りも途絶えて闇の色が濃かったことだろう。事件は昭和三十八年九月に起っている。手元にある住宅地図は昭和三十七年度版で、出版は昭和三十八年である。住宅地図作成のための調査はおそらく昭和三十七年におこなわれている。したがって花形敬がいつ二子に居を移したのか、その時期が問題だ。しかしそれはわからない。だからあくまで新聞記事と本田靖春の聞き取り、そしてこの住宅地図から推測することにした。

花形敬が棲んでいたというアパートは何処か?
新聞記事で気になるのは、花形敬が所持していた運転免許証の住所が「東京都世田谷区船橋町一〇九四」とあることだ。運転免許証の更新を怠っていたのか? まあそれはないだろう。いくらヤクザでも免許更新くらいはしたはずだ。となると考えられることはふたつだ。転居とともに住民票も移したが、運転免許証の更新まで間があったのでそのままになっていたか、あるいは妻の名義でアパートを借りてそこを隠れ家としていたので、花形敬の住民票の住所は変わらなかったか。おそらく後者の可能性が高いと思われる。なぜなら花形敬がみずからの住所を変更したとすると、役所等で簡単に居所を突き止められるからである。町井一家が尾行までしてそれを探ったという事実からみて、妻の名義でアパートを借りて花形敬はそこを隠れ家としていた、と考えるのが適当だろう。この住宅地図にはアパートの住人までわかる範囲でかなり詳しく記載されているが、花形敬の名前をみつけることはできない。もし妻名義の記載があったとしても内縁関係だったら花形敬を特定することはできない。なお二子56番地にもっとも近いところに斉藤アパート(二子65番地)、田辺アパート(同62番地)と、いずれも住人の記載がないアパートが掲載されている。どちらも表通りから奥に入った隠れ家的アパートなので、ひょっとすると花形敬の隠れ家はこのどちらかではなかったか。

花形敬が死んだ場所は何処か?
新聞記事によれば「二子五六さき路上で、二人組のヤクザふうの男と口論していた男が、二人組の男の一人から鋭い刃物で心臓を突き刺されて間もなく絶命した」とある。本田靖春の聞き取りによると「アパートの手前約三百メートルの道路わきに運転して来た車を駐め、ドアを開いて降り立った花形は、それに並ぶ形で駐車していたトラックの陰から現れた二人に、両側からはさまれた。(中略)その次の瞬間、二人は同時に右と左から、柳葉包丁を花形の脇腹に突き立ててえぐった。花形はアパートの方へ二百メートルほど走って逃げたが、力尽きて昏倒し、その場で絶命した」とある。このふたつを整理すると花形敬は「アパートの手前約三百メートルの道路わき」で致命傷を負い、そこから「二百メートルほど走って逃げたが、力尽きて昏倒し、その場で絶命」したのが「二子五六先路上」だった、と読み取れる。

現在は二子橋の上流に新二子橋が架かり国道246号が通っているが、昭和三十七年時点ではまだ架橋されていない。となると東京側から来た花形敬は二子橋を渡ってきたに違いない。二子橋を渡るとまず旧大山街道に入る。二子新地の街は旧大山街道に二分され、両側に住宅が密集している。住宅地は今でも車で通るには道が狭く入り組んでいるため、花形敬は旧大山街道に車を駐車して、アパートまで歩くつもりだったのではないか。そうだとすると、花形敬が車を駐めた場所は、二子56番地へまっすぐ続く露地の入り口の森谷酒店(二子264番地)あたりだったと推測できる。報復の標的になっていた花形敬にとって、アパートは隠れ家だったはずだから、すぐ近くに車を駐車しないだけの慎重さは持っていたはずだ。そして何度も尾行を繰り返したであろう刺客は花形敬がいつも車を駐車する場所を確認し、事件当夜、たまたまそこに駐車されていたトラックの陰に隠れて花形敬がやって来るのを待ち伏せていた、と推察される。ここで刺客に襲われた花形敬は致命傷を負ったままこの露地に逃げ込み、二子56番地あたりで力尽きた。刺された場所から倒れた場所まで200メートル、というのはこの推測ではちょっと矛盾するが、とにかくこのルートがいちばんわかりやすい。そのほかの仮定では、腹を刺された花形敬は鮮血を滴らせ乍ら、曲がりくねった露地を走り抜けることになる。通常ならいざ知らず、致命傷を負わされたという切迫した状況では、この一本道を走り抜けると考えるのが妥当だろう。

奇しくもその二子56番地は、私がかつて棲んでいたアパートから50メートルも離れていない場所であった。
私は伝説の男・花形敬が血にまみれて死んだすぐそばに暮していたのだ。

※写真は現在の二子56番地附近(現川崎市高津区二子1丁目)
dsc00669

Shall we dance ?(2)

事務室から出てきたのは四十代後半くらいの落ち着いた感じの女性、こちらの用件に答えて曰く「番地や施設名が掲載されている地図、ですか。ゼンリンの住宅地図みたいなものですね、、、うーん、そもそもゼンリンの住宅地図じたいが昭和35年頃からしか発行されていないんですよ」そして彼女は書庫から昭和40年前後の住宅地図数冊を出してきてくれた。「ここの図書館ではこれしか資料がないんですが、区役所分室の資料室には郷土史料が揃っています。よろしかったら電話して探してもらいますよ」と言うのでついでにお願いすることにした。礼を述べて閲覧席で住宅地図をなめるように見るが、進駐軍が引き揚げてから十年以上も経った頃の地図、もちろんダンスホールなど掲載されてはいない。まあせっかくだからコピーでもとっておくかとコピー機のところに行くと、さきほどの司書が近寄ってきて「資料室から連絡がありまして、お出でになれれば資料を用意しておきますということです。ええ、駅の近くの○○ビルの裏です。それじゃこれから直接行かれると連絡しておきますね。それから、最近は著作権が厳しくなっていますので、資料をコピーするときは申し込み用紙に記入してください。特にゼンリンはうるさいので(苦笑)、、、」そうそう、ゼンリンはうるさいんだよな、と同業者の私も心の中で苦笑い。ふたたび礼を言ったときに名札をみたら、彼女はなんと図書館長だった。図書館長みずから最前線で働くのか。良いことではあるが、それだけ専任職員が減らされているのだろう。

コピーを取り終えて区役所分室までとぼとぼと歩く。繁華街の裏手にぽつんと建っている区役所分室のなかに資料室はある。誰も閲覧者のいない寂しいところだったが、のこのこと入っていくとジャンパーを着たオジサンがにこやかに迎えてくれた。「ああ、お待ちしてました。昭和二十三年頃の地図はあるんですけど、ただ住宅地図じゃあないんですよ。これじゃあダメですかね(笑)」机の上に広げられた地図は残念乍ら地形図なので、ダンスホールがどこにあるかなどは皆目見当もつかない。それでもオジサンはこちらの希望に応えるべく、あれやこれやと資料を引っ張り出してきてくれる。大正時代の多摩川両岸の商業広告(一枚ものの図)があった。これはなかなかのもので、簡単な地図も掲載されており、料亭や待合いの場所と名前がばっちり掲載されている。うーん、二子玉川界隈にも料亭が立ち並んでいたのだなあ。田山花袋の『東京近郊;一日の行楽』の記述どおり、ここは東京市民の行楽地だったことがよくわかる。しかし私が見たいのは昭和二十三年頃の地図なのだ。しょうがないので地図はあきらめて、文献資料をいろいろと調べることにする。ところが戦前の三業地だった頃の記録は豊富にあるのだが、戦後はどのように変化していったかという記録がない。次第に窓の外が暗くなってきて閉室時間が近づいてきた。しょうがない、今日はこれくらいにしてまたそのうち中央図書館にでも調べに行ってくるか、と思い始めた頃、一冊の本をパラパラとめくっていた私は小さくアッ、と叫んだ。

「戦後この亀屋はアメリカ進駐軍に接収され、リバーサイドというダンスホールになり、GIと日本の女が肩を組んで歩く姿がめだったという」(杉山康彦『川崎の文学を歩く』多摩川新聞社 , 1992)

かつて溝口に亀屋という旅館があった。国木田独歩が書いた『忘れえぬ人々』という短篇小説は、溝口の亀屋という旅館が舞台になっている。二子の渡し舟で多摩川を渡った主人公は、大山街道沿いにあった亀屋で一泊した。そのときに宿で出会った青年との邂逅を綴ったちょっと暗い印象の小説。ところがこの亀屋のほかにもうひとつ、溝口の手前の二子にも田山花袋お気に入りの亀屋があった。こちらは料亭兼宿屋だったようだが、田山花袋が『東京近郊;一日の行楽』で書いているのは二子の亀屋のほうだ。二子の亀屋はかつての二子の渡しの真ん前に位置していた。いまはもちろん渡しは無くなってしまい、渡し場だった痕跡を示す記念碑が建っている。現在はこの先に二子橋がかかっていて道路に並行して東急田園都市線が走っている。まさに東京と川崎をつなぐ要所だったのだ。そして問題はこの「二子の亀屋」だったのである。

そうか、リバーサイドは二子の亀屋のことだったのか! そうだよなあ、いくら進駐軍がやってきたといっても、おいそれとダンスホールなどおっ建てやしなかっただろう。もともとあったホテルやクラブを接収して、戦時中は仕事にあぶれていた日本人の洋楽ミュージシャンたちが、息を吹き返したように演奏を繰り広げていたのだ。ジョージ川口とビッグフォーなどのジャズバンドが空前のジャズブームに乗って、ボストンバッグに入りきらないほどの札束を一晩で稼いでいた、という伝説があるくらいだ。同じように二子の料亭だった亀屋も、進駐軍御用達のダンスホールに仕立て上げられ、タンゴの女王藤沢嵐子も二子の亀屋、いやダンスホール「リバーサイド」でタンゴを歌っていたのだ。二子の亀屋だった辺りは、その後区画整理されてかつての面影は消滅し、蕎麦屋や小料理屋が密集している。かつて亀屋の敷地だったところも、つい最近まではガソリンスタンドだったが、いまではそこもマンションへと変貌を遂げた。そうかあ、あのマンションが亀屋で、国木田独歩が冬の夕暮れにとぼとぼとこの前を通り過ぎ、田山花袋が愛人を連れて酒を呑み、宇野浩二や岡本一平、久保田万太郎といった文人が行楽に出かけ、戦後はリバーサイドと名前を変え、夜な夜なGIと日本人ミュージシャンが入り乱れていたのか。そうかそうか、そうだったのか。でもまさか料亭がダンスホールとはねえ、、、占領されるとはそういうことなのだ、と納得。薄暗くなってきた資料室で私は独り深く頷いたのである。

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Shall we dance ?

近所に二子新地という街がある。川向こうは二子玉川といういたってお洒落な街だが、こちらは急行電車も止まらない多摩川河畔の小さな街。東急田園都市線の各駅で、つい最近までエレベーターはおろかエスカレータすら設置されていなかったという疎外された街でもある。それでもこの街の歴史は古く、江戸時代に流行した大山参りの街道沿いにあるため、多摩川の渡し場として栄えていた。どうりで道が縦横無尽、というよりはてんでんばらばら東西南北に走っている。もともと農村だった土地の名残りだ。青葉台、鷺沼、たまぷらーざといった高度成長期に造成された、いわゆるニュータウンとは一線を画する街並。うっかりするといまでも道に迷ったりしてしまう。戦前の東京地図をみると、多摩川を挟んで両岸には料亭が立ち並んでいたことがわかる。田山花袋の『東京近郊;一日の行楽』によれば、明治から大正の頃は、清流だった多摩川での鮎釣りや川遊び、川魚料理を出す料亭などで賑わっていたという。

宿場町で料亭とくれば芸者、芸者とくればとうぜん置屋、そして待合。そう、「新地」という地名でもわかるように此所は花柳街でもあったのだ。といっても今は花柳街のよすがを残す物件はほとんど残っていない。それでも古い地図をたよりに花柳街だったあたりを散歩し乍ら丹念にあたりを見渡すと、かすかに往時の名残りが見受けられる。

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川沿いのアパートは黒板塀に囲まれた敷地内にある。黒板塀というのは料亭につきものだから、このアパートはもともと料亭があったところに建てられているのだ。しかも近代的なアパートに似つかわしくない黒板塀の玄関に富士山がある。なんのことかというと、欄間に富士山をかたどった建築意匠をごぞんじであろう。こんなのは普通の民家にはない。たいていが商売をやっている家にあるのだ。

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さらに裏露地に入るとやはり黒板塀の家がある。しかも造りがみごとに料亭なのである。広い敷地に複数の棟があって、それが渡り廊下と一体化した座敷で繋がっている。今は民家らしいがここも三業地(料亭・置屋・待合の三業種がある街)の名残りをとどめている。もう一軒黒板塀の家があって、此所は今でも料亭として営業しているらしい。

さて突然だが、ここで日本のタンゴ歌手の草分け藤沢嵐子の回想。

「昭和二十三年でしたね。多摩川の上流に二子新地前(管理人註:以前は「二子新地前」という駅名だった)というところがありますでしょ。あそこに『リバーサイド』ってダンスホールがあって、私、すこしうたってたことがあるんです。ところが多摩川の向こう岸にもダンスホールがあって、そちらはアメリカ兵のGI専門で日本人は入れないんですネ。こちらの『リバーサイド』はもちろん日本人専門です。そこでMP(憲兵)が橋を渡って見まわりに来るんです。『リバーサイド』にはGIがいてはいけない。あちらのダンスホールに日本人がいてはいけない。でも実際は、うちのバンマスなんかあちらの演奏を聞きにいくし、GIは『リバーサイド』におにぎり食べに来るし、けっこういり乱れてあっちこっちしてました。MPが来るとGIを物陰に隠したりしてね、情がうつるんですよ」(青木誠『ぼくらのラテンミュージック〜ものがたり日本中南米音楽史』リットーミュージック)

かつて二子新地にダンスホールがあった!
ダンスホールというと、バンドが演奏してて綺麗なオネエチャンがいっぱいいて、天井からミラーボールが下がっていて、というイメージがある。それはキャバレー? まあいいや。さていったいどのあたりにダンスホールがあったのだろうか? 現在のゴチャゴチャした街並からは想像もつかない。ゴチャゴチャしているのはいまに始まったことではなく、前述したように農村だった頃の名残り。世田谷区が良い例で、あのあたりは戦前は広大な農村地帯だったのである。もちろん山あり谷ありという起伏に富んだ地形でもあり、成城学園のような、最初から住宅地として区画整理されたところは別だが、ちょっと路地裏に入るととたんにわけがわからなくなる。

とりあえず近所の図書館へ出かけて郷土史料をあたることにした。図書館のオネエチャンに「昭和二十三年頃の二子新地界隈の地図はありますか? できたら施設や番地が載っているとありがたいんですが」と尋ねた。最近は公共図書館の司書職を育成せず、人件費を抑えるために業務の外部委託が猖獗を極めており、ご多聞に漏れずこの図書館も殆どが書店のネーム入りエプロンをつけたオネエチャンばかりだ。こういうレファレンスは委託業者の範疇ではなく、わずかに残っている専任の司書が担当することになっているようで、事務室から出てきた司書にもういちど用件を伝えたのだが、、、(続く)


時間よ止まれ

仕事帰りにときどき飯を喰いに行く食堂がある。二十年来通っているがぜんぜん外観も内装も変わらない昭和三十年代を彷彿とさせる食堂。吃驚するほど美味しくもないがかといって不味くもない。強いて言えば味が変わらない。不味くはなっていないのである。それだけでもたいしたものだ。もっともこちらの舌もたいしたものではない。

今年初めてこの店に入った。残業でくたびれて飯を喰って帰ろうという気になり、冷たい木枯らしに吹かれてドアを開ける。いつものいうに野菜炒め定食を注文して『週刊少年ジャンプ』をまとめ読み。といっても私は『こち亀』しか読まない。薄汚れたマンガ本が何冊か置いてあり、大衆食堂の定番『ゴルゴ13』も置いてある。そして私の目に信じられないものが飛び込んできた。

「なんでこれがここに、、、」

なんとそこにあったのは、みなもと太郎の『どろぼうちゃん』第2巻だった。といっても知らない人にはなんだかわかんないだろうが、みなもと太郎である。『007シリーズ』のパロディマンガ『ホモホモ7』のみなもと太郎。70年代のほのぼのとしたギャグマンガなのだが、なんでこの店にさり気なく置いてあるのだ? よくよく見ると他にも『俺の空』第4巻、『こち亀』の第5巻(なんと山止たつひこ名義!)、『まことちゃん』まである。この店は時間まで止まっているのか?

マチズモとアナクロニズムの権化『俺の空』では、安田一平とベッドで一戦交えた婦人警官が翌朝ベッドのなかでうっとりしていたり、イージーライダーみたいなレイバンのサングラスをかけた兄チャンが登場。『こち亀』の両津はまだ兇悪な顔をしているし、悪相コンビの戸塚巡査も頻繁に登場している。中川はランボルギーニ・カウンタックに乗っているし、交番の電話も黒電話だ。両津は浮浪者に向かって「おい、フータロー」と呼びかけている。しかし『まことちゃん』だけは時空を超えて爆発しているところが凄い。沢田家の面々のアナーキーさは永遠。

野菜炒め定食はこの二十年来まったく変わらない。それはそれでいいのだが、誰がこれらの古いマンガ本を持ってきたのだろう? それにしてもすべてが似合い過ぎているところが恐ろしい。

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