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2006年1月

古典と私

 先日新宿末廣亭の高座で三笑亭夢丸がこんなことを言っていた。
「こないだ買ったたこ焼きが八個で四百円、てことは一個五十円。初席も朝から藝人が六十人から出てきて木戸銭が三千円、てことは、、、一人五十円(笑)、、、なかには火が通ってなかったりたこが入ってないのもある(笑)」

 昨年もあちこちへ落語を聴きに出かけた。せいぜい月に1〜2回程度ではあるが、まあいっぱしの落語ファンと言えるかな。寄席に通い続けてようやくわかったことがある。それは、寄席とは退屈を楽しむ場所である、ということ。寄席の椅子に座ってハナからトリまでえんえんと高座を眺めていても、楽しい時間、面白い時間などそうそうあるものではない。寄席で面白くない噺家が独演会ではやたらと面白かったりする。寄席で面白かった噺家も独演会ではたいして面白くなく、前座をつとめた噺家がやたらと面白かったりする。若い頃にはよくわからなかった噺も、あるていど歳をとるとじんわりと心にしみてきて吃驚したりする。

 落語は円熟の藝、ということばがある。それじゃ若手の落語はダメなのかというと実はそんなことはなくて、いい歳した噺家のくせにどうしてこうも退屈なのかとがっかりさせられたりもする。三遊亭圓丈が“古典の時代は終わった”などとぶちあげても、古典落語の面白さを存分に磨きあげた噺家もいれば、ただたんに古典にしがみついているだけとしか思えない噺家もいる。幸か不幸か立川談志の『芝浜』をナマで聴いてしまったらもう他の『芝浜』は聴けないし、何度も聴いたはずの『紺屋高尾』も、立川談春の高座を聴いたあとにはすべてそれが基準になってしまう。じじつその後で聴いたいくつかの『紺屋高尾』のつまらないこと! 古今亭志ん五、柳家権太楼の活き活きとした与太郎を聴いてしまうと、それ以外の与太郎がただのバカに成り下がってしまう。柳家小さんの枯淡老熟の極みに達した『笠碁』は若手には演じられない。演じるとしたらあの薄い茶漬けのような噺をどう再構築するのかという興味しか持てない。春風亭昇太が『笠碁』を淡々と演じても(演じるはずもないが)それはそれでつまらない。同世代の林家正蔵が薄い茶漬けみたいな噺ばかりしているのは納得できる。決して面白くも可笑しくもない藝風だが、あの姿勢をずっと続けていけば数十年後にはそれなりに美味しい茶漬けに化ける可能性もある。

 長いあいだ古典落語を聴き続けてきてわかってきたことがある。それは「面白くない古典落語はただ古典をなぞっているだけ」ということ。江戸の風情がどうの人情がどうのと言われても、それを現代に再現することは不可能だ。古今亭志ん朝亡きあと、言葉だけで江戸の大晦日を表現出来得る稀有な噺家はもういない。川柳川柳や昔昔亭桃太郎のようにベテランであり乍ら古典はさっぱりという人もいる。川柳の古典落語は実につまらないが、桃太郎の古典は題材が古典というだけでいつもの桃太郎落語だから面白い。

 いまの噺家に再現でき得る、いや表現でき得るのは時代を越えた街の風情や人情しかない。私は江戸の風情とか情緒は嫌いではないが、江戸東京博物館のような落語に興味はない。

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