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日本人が忘れていること

新聞を読んでいたら『ワンチュク国王から教わったこと』(PHP)の広告が目に入った。惹句には「思いやり、謙虚さ、誇り、リーダーシップ、そして本当の幸せ…日本人が忘れていたことを思い出させてくれる希望の贈り物」とある。ワンチュク国王とはブータン王国の王様で、2011年11月に新妻の王妃を伴って来日、国会における、東日本大震災で傷ついた国民を励ます演説によって、一躍国民にその名を知られるようになったことは記憶に新しい。同時に、ブータンが「幸福度が世界一高い国である」という報道も相まって、いちやくワンチュク国王夫妻とブータンの好感度がアップした。

それはそうと、私が気になったのがこの本の惹句の中の一節、「日本人が忘れていたことを思い出させてくれる」という部分だ。いつか聞いたことがあるなあと記憶を甦らせていくと1980年代に遡る。当時私は中国文学を学ぶ学生であった。中国語もかじっており中国の地を踏んだこともある。その時に実際に見たり聞いたりしたことなのだが、日本人の特に高齢者の方々の中に、やたらと中国を礼賛する一群が存在していた。かれらの言い分はだいたいこんな感じだった。

曰く「赤い頬をした農村の少年少女たちのあどけない瞳が懐かしい」「化粧っ気のない中国の若い娘さんときたらなんと素朴で清潔なことか」「それに比べて日本の若い娘たちは…」「外で遊ばなくなった日本の子どもたちは何か大切なものを失った」「素朴な生活、つつましい暮らしの中で家族が一同に食卓を囲む。かつては日本もそうだった」等々…

かれらは一様に「中国の人民は夢と希望に燃えている。まるで戦後の日本のようだ」「中国には、日本が失ってしまったものがたくさん残っている」「とても懐かしくとても嬉しい」「だから中国は良い国である」…つまりかれらは、かつて自分たちの周りに当たり前のように存在し、高度経済成長とともにいつのまにか見失ってしまった古き良き日本の面影を、当時の中国と中国人たちに見出していたのである。私たちは20代の生意気な若僧(若僧とは、いつだって生意気なものである)だったので、こういう高齢者の方々を「中国大好き爺さん婆さん」と揶揄していた。

その気持ちは今も変わりはない。当時の中国大好き爺さん婆さんたちが涙を流さんばかりに感激した、「日本が失ったものを体現する中国人たち」は、ただ単に情報から遮断され海外の事情はおろか、北京や上海という大都会のことさえ知らなかった。知らないし物資もないから化粧もしないのである。なぜかれら中国の国民がそのような境遇に置かれているのか、なぜ農村の人びとは都市へ行かないのか、なぜこのように「理不尽に」不自由(不便ではない)なのか、私たち中国学に首を突っ込んでいた若者なら多少の知識はあった。尤も私たちの中にもマジメに日中友好を夢見る連中がいた。いてもおかしくはない。いたっていい。しかし冷静に文献を読み、教師や同級生たちと議論してみればわかることであった。そんな簡単なものではないと。そして私もまた歳を経たいま、かの中国大好き爺さん婆さんたちの気持ちが少しはわかるようになってきた。

あれからもう30年近く時が流れた。それでもいまだに「日本人が忘れていたこと」を「思い出させてくれる」「外国の人びと」がいて、いちいち私たちはそのノスタルジーを輸入に頼っている。もういいんじゃないか、そんなこと。もともと私たちにはそんな高邁で素晴らしい社会などなかったのではないか。思い出は常に美化される。私たちはきっと適当に仲良しで適当に助け合い、適当にいがみ合い適当に傷つけ合ってきたのだ。そうに違いない。それでいいではないか。

ほんとうに日本人が誇りを取り戻すとしたら、外国からの輸入などに頼るのではなく、自前でやったほうがいい。しかも外国人を排斥するようなやり方ではなく、西洋文明のような一神教ではない寛容を旨とする多神教の国として、世界の中の日本として毅然と襟を正していけばいい。などということをぼんやりと思ったGW最終日の夕暮れ。

「真実」に惑わされるな

徒然なるままに読んでいた片岡義男の名著に唸りっ放し。例えばこんな文章。時代を超えただいじなことが書かれていると思う。

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 1968年に、ハンク・スノウ(Hank Snow 1914-1999)やマーティ・ロビンス(Marty Robbins 1925-1982)はジョージ・ウォレス(George Corley Wallace 1919-1998)に投票し、巡業さきではウォレスの宣伝を盛んにやった。テックス・リター(Tex Ritter 1905-1974)やロイ・エイカフ(Roy Acuff 1903-1992)は、ニクソン大統領の就任式に、大統領から個人的に招待された。ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash 1932-2003)は、「アメリカ政府がやっていることだから」という理由でヴェトナム戦争に賛成している。マーティ・ロビンスは、『ラヴシック・ブルース』をじつにうまくうたい、ヴェトナム戦争に反対している。理由は、「アメリカが勝ったら、またひとつやしなうべき国を背負いこむことになるから」なのだ。
 このようなメンタリティの人たちにとってたとえばジャン・ハワード(Jan Howard 1930- )がうたう『私の息子』という歌など、最も「真実」にちかいものなのだ。この歌は、ジャンが実際にヴェトナムへ戦争しにいっている自分の息子からもらった手紙を材料にしてつくった歌で、歌ができてレコードになってから、その息子は戦死してしまった。
 『私の息子』はジャン・ハワードのおハコになっている。感きわまって、途中で泣き出すこともあり、アナウンサーとかそのときのショウの主役が「じつはジャンの息子がヴェトナムでその命をアメリカにささげたのです、ジャンも息子も立派ですね」というようなことを、必ず言う。
 観客は、ワッとくる。きたところでジャンは泣きながらソデにひっこみ、バンドは『兵士の恋人』のような、アメリカを讃えるたぐいの曲を、派手に演奏する。また、ワーッと拍手や歓声がくる。『私の息子』のレコード売上げがあがり、ジャン・ハワードのリクエストがふえる。観客は、「真実」に同化したとたんに、カネを失っている。しかし、そのことには、まず気がつかない。気がついていたら、ナッシュヴィル・サウンドが、ナッシュヴィルに対して年間純益一億ドルの産業になるはずがないのだ。
 このような調子だから、「真実」であればどんなことでもソングになる。カントリー・アンド・ウェスタンにうたわれている世界の広さは、ここに原因がある。

(中略)

 戦争で息子が死んだら、かわいそうだと感じるのは人間として基本的な感情で、そのかぎりでは真実なのだが、かわいそうだ、ほんとだ、かわいそうだ、と言っているだけでは、どこへも出口のない袋小路でどうどうめぐりをしているにすぎず、基本的な感情の同化はあっても、その同化は、ヴェトナム戦争に対してはむしろ目かくしになるのだ。どちらかと言えば決して金持ちではないアングロサクソンの世帯持ち、つまり、サイレント・マジョリティの、保守性は、頑迷にここにある。『グランド・オール・オプリイ』のステージにはじめてドラムを登場させるとき、三脚にのせたスネアドラムひとつで演奏者は腰かけずに立って叩くのであればよろしいと、長い論争のあとで決定した保守性と同質だ。(片岡義男『ぼくはプレスリーが大好き』三一書房, 1971)
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(筆者注)
ハンク・スノウ、マーティ・ロビンス、テックス・リター、ロイ・エイカフ、ジョニー・キャッシュ、ジャン・ハワード…いずれもカントリーミュージックの歌手。
ジョージ・ウォレス…元アラバマ州知事。人種差別主義者として有名。
グランド・オール・オプリイ…1925年から放送が開始されたラジオ番組。カントリーミュージックの公開放送番組として知られる。

中国全人代に思うこと。

温首相が危機感「文化大革命、再び起こるかも」

温家宝は、1989年の天安門事件の時に、趙紫陽総書記(後に失脚)の側近としてあの悲劇の現場にいた。うるさ型として保守派から嫌われている。権力闘争の凄まじさは日本の比ではない。現代日本の政治家は、中国に勝てるような知力も根性も持ってないだろうね。

副作用

今日は休みを取って朝からかかりつけの病院で糖尿病の定期検診。結果は血糖値81、HbA1cが5.1とともに良好な状態を維持している。また中性脂肪も下がっている。しかも体重がなんと60kg(適正体重!)まで落ちた! ということは半年で15kg減だ。ふだんの食事の内容が野菜6割、肉3割、主食(炭水化物)1割だと確実に痩せる。しかもカロリーをちゃんと考えて食べるって重要なんだなあ。病になって知る健康の大切さ。いいじゃないか人間だもの(爆笑)それにもともと間食の習慣ないし。まあ副作用としては、体脂肪が急激に減ったせいで、今年の冬の寒さが身にこたえたことかな(苦笑)

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神保町の夜

昨日は都内で会合があった。夕方に会合が終り都営地下鉄三田線に乗って神保町で降りた。半蔵門線に乗り換えると帰宅できるのだが、やはり私の足は改札を出てそのまま地上へと向っていた。神保町を素通りはできない(苦笑)。

もう外は夜の帳が降りていたので古書店のハシゴはせず、中国図書の内山書店と東方書店を覗いて数冊の本を購う。それから東京堂書店に足を踏み入れて驚いた。改装を控えて売場が縮小されているのに驚いたのではない。1階売場に「港の人」全点フェアが展開されていたことに驚いたのだ。

「港の人」とは妙な名だが鎌倉にある出版社の名前だ。日本語学、教育学の学術書や詩集や芸術など優れた人文書の出版でも知られる(あまり知られてないか…)出版社である。私が図書館員だから知っているというのもあるのだが、とにかく書店で「港の人」の全点フェアを打つなどという試みをすることじたいがすばらしい。ズラリと並んだ「港の人」の刊行物を眺めているうちに、あれもほしいこれもほしいという気持ちになってくる。危ない危ない(苦笑)高鳴る胸を鎮め有山達也『装幀のなかの絵』(四月と十月文庫)をレジに持っていった。渋い本だなあ。

その他に小池昌代と四元康祐の詩のリレー『対詩 詩と生活』(思潮社)を見つけて購う。これも良い本だ。暫く携帯して読もうではないか。ああ人里離れた一軒家で詩を読み乍ら暮らしたい。そのためにはいま一生懸命働かねばならんのお。

帰宅途中の電車の中で左手親指の爪の脇が少し裂けているのに気がついた。この寒さと乾燥そして糖尿病の影響もあるのだろう。ちょっと痛みもあったので帰宅してゆっくりと入浴して温め風呂上がりに薬を塗って寝た。その夜のことである。うつらうつらし始めるとともに指の先がズキズキと痛んできた。アレレと思っているうちに親指の付け根まで痛みが広がってきた。あっという間に他の指の付け根や掌にも激痛が走る。正直な話こんな激痛は生まれて初めての経験だ。とうとう一睡もできぬまま朝を迎える。痛くて痛くてもう泣きそうであるが心臓がどくんどくんと血液を流れ出すたびに痛みは続く。手首から先を切り落としたいくらいである。ズキズキと痛む手を使い乍ら朝食を作り白い息を吐き乍ら病院へ向った。糖尿病に起因しているのなら内科かそれとも外科でいいのかなよくわからないのでとりあえず内科の予約を取り受付へ。受付のお姉さんは私の症状を聞くとうーんそれは内科ではないですね外科かな皮膚科かなとりあえず総合受付でもういちど予約を取り直してくれという。そりゃそうだと総合受付に行き書類に記入しようやく皮膚科を受診することができた。あまりにも手が痛くて頭がおかしくなりそう。皮膚科の若い医師は私の指先を見るなりああ腫れてますねこれは内出血してますね血と膿が溜まって血流も悪くなってますね雑菌も入っているなあまず血を出しましょうと言って太い針を私の爪の先にぶすっと刺したら汚い色の血と膿がどばどばと出た。もちろん痛い(笑)それどころか医師はさらに私の指先をぐいぐいと押して血と膿を絞り出すではないか。何をするんですかあいててててて人殺し。おばちゃんの看護士さんはああ痛いですよねでもすぐ終わりますよほら終わったと私の腕を抑えて呟いた。医者とはたいしたものである。投薬もせず麻酔も打たず血と膿を出しきってしまうだけであれだけの痛みが激減してしまった。鎮痛剤と塗り薬を処方してもらい惚けた頭で職場に電話をし午後から出勤しますと伝えて歩き出す。立春を過ぎてもまだまだ寒い2月である。

その街のこども

1995年1月17日早朝、私は布団の中で半ば覚醒していた。窓の外はまだ暗く、起きるには早いなあとうすらぼんやりと考えていたら、部屋がユラリ、と揺れた。私は(あ、地震だ…)と思った。当時私は築50年以上の、それこそ表通りをダンプカーが通るだけでも窓枠がカタカタ鳴るようなボロ家に棲んでいた。枕元の時計を見たら、蛍光色の針が午前5時45前後を示していたことを覚えている。それからまた眠りに落ちて7時ちょっと前に起きた。トーストを焼いて珈琲を啜り乍らテレビのスイッチを入れたら、街のあちこちから煙が上がり高速道路が倒壊している映像が映し出された。ちょっとの間、何のことなのかよくわからなかったが、早朝に京阪神地区を襲った大地震で壊滅的な被害を受けた神戸市の映像だということを、アナウンサーが落ち着いた声で伝えていた。「…本日午前5時46分頃、神戸を中心とする地震が発生…マグニチュードは7と推定され…」(あ、今朝の地震…)後で知ったことだが東京の震度は1を記録していた。

『その街のこども』(2010)を観た。阪神淡路大震災から15年が経った冬、神戸の街で出逢ったふたりの男女(森山未來、佐藤江梨子)が、お互いの震災体験を語り乍ら地震が起きた日から15年目の早朝を迎える。美夏(佐藤)は神戸で行われる震災追悼集会に参列するため、13年ぶりに神戸の地を踏んだ。建設会社に勤める勇治(森山)は広島へ出張する途中で神戸に途中下車した。勇治と美夏はともに神戸で震災を経験し、ふたりともその後神戸を離れて東京に移り住んだ。そしてあの日から15年、ふたりはふとしたことから神戸の街で初めて出逢った。勇治も美夏も震災の記憶に背を向けてきた。ふたりとも震災で家族や友人、生活を失い傷つき故郷を離れた。終電を逃したふたりは美夏の祖母が住む御影まで夜の街を歩く。歩き乍らふたりは震災の記憶を語り合う。歩き乍ら語り乍らふたりは再び震災に神戸に向き合い始める。

殆ど森山未來と佐藤江梨子…どちらも当時神戸に住んでいて震災を経験している…ふたりの語りでドラマは進行していく。ふたりは過去に背を向けてきたが、次第にふたりの気持ちは辛かった過去に向き合い始める。喪失と再生の夜は過ぎ夜明けはもうすぐそこまで来ている。鼻の奥がツーンとして、ふと涙が出そうになる。東日本大震災からそろそろ1年が経つ。再び「その街のこども」がおおぜい生み出されてしまったことを憂うとともに、いつの日かあの日のあの記憶に向き合い乗り越えていってほしいと思う。そのために、残された私たちには何ができるだろうか。

オフィシャルサイト http://sonomachi.com/

首が飛んでも動いて見せまさァ

久しぶりに映画館に出かけた。たぶん2年ぶりくらいだと思う。かつては毎週映画を観に行っていた時期もあったのだが。まあそれはおいといて、今日は『幕末太陽傳』(1957日活)の特別上映を観に行った。これは日活創立100周年記念特別上映作品として、最新技術でリマスターされたデジタル修復版の上映である。全国のテアトルシネマ系映画館で上映され、首都圏では新宿、有楽町と大森で上映される。私は10年ぶりにキネカ大森に出かけてきた。

第1回(10:10)上映なのでさすがに観客は少なく100席の館内に20人くらいだったろうか。予想通りご老人率が高く8割が70歳以上だった。懐かしい映画を観に来たのであろう。私が座って上映を待っているとすぐ前の列にご高齢のご婦人が7〜8名並んでお座りになられた。これはイカンと映画上映直前にそそくさと一番後の隅っこに移動。絶対、上映中に「フランキー堺」「あれまあ」「若いわねー」「南田洋子」「えーと誰だっけこの役者」「懐かしいわ」「岡田真澄!」などと、誰に言うでもなく自動的に呟き出すに決まっている。

もうご存知の方も多い有名な映画である。時は幕末、文久2年というから1862年、明治の御代まであと数年という時代設定。場所は東海道品川宿の岡場所、相模屋に登楼した佐平次(フランキー堺)一行は呑めや歌えのどんちゃん騒ぎを繰り広げる。翌日勘定を貰いに来た若い衆を煙に巻き、いよいよ懐には一文の銭もないと開き直って遊廓に居残りを決め込んでしまう。そしてこの佐平次ときたら、お膳の上げ下げから客の揉め事ヒマつぶしのお相手、女郎衆の恋文の代筆から起請文の印刷、おまけに勤王の志士たちから借金のカタを取りあげてくるわの大活躍…

実はこの佐平次、居残りを稼業にしている男なのである…とくれば落語好きにはお馴染み『居残り佐平次』を下敷きにした映画。ストーリーはこの佐平次を中心に進んでいくが、はめ込まれるピースはみな落語ネタ。『品川心中』『三枚起請』『文七元結』『お見立て』…ところどころに『だくだく』や『付馬』まで出てくる。どんちゃん騒ぎの場面で、芸者のバチを取りあげて、ドラムスティックよろしくくるくる回してゴキゲンな佐平次。さすが元・与田輝夫とシックス・レモンズのドラマー。勘定の心配ばかりしている西村晃、呑気に騒ぐ熊倉一雄も良い感じ。

閑話休題。相模屋に居残りを決め込むのは佐平次だけにあらず、総髪に二本差しの勤王の志士たちもここを根城にしている。居残り役は高杉晋作(石原裕次郎)でその他小林旭、二谷英明も勤王の志士たちを演じている。板頭(ナンバーワンね)の座を争う遊女のおそめ(左幸子)とこはる(南田洋子)、劇中で演じる肉弾相打つキャットファイトは迫力満点! 博打好きの父親の借金のカタに奉公しているおひさ(芦川いづみ)と、稼業を嫌う相模屋の若旦那徳三郎(梅野泰靖)の恋物語、常に苦虫を噛み潰している相模屋伝兵衛(金子信雄)とお辰(山岡久乃)は徳三郎に手を焼いている。爆笑を誘うのは何と言っても川島雄三映画常連の小沢昭一。今回は貸本屋の金蔵…おそめに心中を持ちかけられて、最後はすげなく品川の海に突き落とされる情けない男を見事に演じている。場内のご婦人方は小沢昭一の怪演に爆笑していた。さすが。

高杉たちは横浜にある異人館の焼き討ちを計画しているのだが、何としてもその異人館の絵図面が欲しい。最後は佐平次が思わぬところから絵図面を手に入れてくるのだが、ここに至るまでの傍若無人の暴れっぷりは極めて壮快。小林旭も、つい先日鬼籍に入った二谷英明も若さいっぱいの演技だ。佐平次から勘定を取りはぐれたばかりか、その後の佐平次に悉く祝儀を取られ続ける廓の若衆(岡田真澄、高原駿雄)、番頭の善八(織田政雄)も適材適所。やり手婆の菅井きん、そうとは知らず息子の馴染みの女郎に入れ込む殿山泰司、願人坊主の井上昭文と榎木兵衛(いよっ!日活名脇役!)最後に登場する杢兵衛旦那の市村俊幸はジャズピアニストあがり、ラストシーンでのやりとりは、ドラマーあがりのフランキー堺と火花を散らすセッションといったところか。

何遍も観ているのだが、今回久しぶりに映画館で観て、改めてこの映画の素晴らしさを実感した。いつも陽気で気の回る佐平次は、実は労咳(結核)を病んでいるという設定。廓の中で元気いっぱい走り回っていても、いったん自分の行灯部屋に入るとその表情が一変、一瞬、鬼気迫る暗い表情を見せるところは背筋がゾクゾクっとする。死と隣り合わせの明るさということなのだろう。品川沖の舟の上で石原裕次郎と駆け引きするシーンでは「てめぇ一人の才覚で世渡りするからにゃ、へへっ、首が飛んでも動いて見せまさァ」という、あの有名な啖呵を切るところなんざ、何遍観ても「いよッ!フランキー!」と大向こうから声がかかろうってもんだね。

今まであまり気にとめなかったのだが、女郎に売られるのを佐平次に助けてもらいたいおひさが、タダとは言わない十両払いますと言うシーン。十両はいっぺんには払えないから一年に一両ずつ、十年かかって払いますと言うと、佐平次が「十年たったら世の中も変わるぜ」と返す。これに続くおひさのセリフ「時代が変われば私も変わります」…なんだかしみじみと心に沁みた。「時代が変われば私も変わる」…私は少しは変われたのだろうか。最後は、墓場から東海道をひた走って画面から遠ざかっていく有名なラストシーンでエンドマーク。

監督は鬼才川島雄三。ちなみに映画の冒頭は現代(昭和32年当時)の品川宿が映し出される。実はこのシーン、売春防止法成立前夜の品川遊廓を撮影しているのである。現代の品川遊廓から江戸時代の品川遊廓へとカメラは遡る。そしてラストシーンも、実は川島監督は、佐平次が墓場のセットを通り抜け撮影スタジオの扉を開けて、現代の品川遊廓の通りを、着物を着たまま走り去って行き、それを映画の登場人物たちが現代の服装をして見送っているというシーンにしたかった。しかしあまりに斬新過ぎるということでスタッフや役者たちの猛反対に遭い、やむなくそのラストシーンは幻と消えたという有名なエピソードがある。後にフランキー堺は、あのとき監督の言う通りにやらせたほうがよかったと思う、と述懐していたそうである。

幕末太陽傳公式サイト http://www.nikkatsu.com/bakumatsu/

2012年が始まる

立川談志がいない時代が始まった。
とはいえ時代はどんどん先に進むし私もまだまだ死にそうな気配はない。
今年もよろしくお願い申し上げます。

訃報2題

談志ショックも覚めやらぬうちに訃報が続く。
森田芳光監督死去。やっぱり『のようなもの』が印象的だった。
上田馬之助死去。プロレスが泥臭い芸能だった頃を象徴するような悪役レスラーだった。
この2人の死はキツいわあ。

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