2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック

歌舞伎町のルサンチマン

 東京都立中央図書館の企画展示「驚きの発見~図書館で見つけたこれも本なの~」を見学してきた。折本や巻子本、変形本に面白い付録という展示内容なんだろうなあと思っていたがまあその通りだった。しかしまず最初に目に入った『日清食品50年史』…興味のある方はググってみてね、吃驚するから…に興味津々。司書のお姉さんにいろいろ質問してしまった。

 会場内には折本、巻子本などがいろいろあるのだが特に珍しくはない。まあそんなもんだろうなあ、と多寡を括って会場をうろうろしているうちに『新宿盛り場地図』(新宿区立歴史博物館, 2005)が目にとまった。おおこれは面白い!明治〜大正〜昭和の新宿界隈の写真が掲載されているなかに中村屋の写真があった。瓦屋根の二階建て、まるで高級料亭のような佇まい。これが高級インドカリーの中村屋、亡命してきたラース・ビハリ・ボースが厨房でスパイスを調合してたのかね。

 次に出くわしたのが『東京中央電話局電話番号簿』(東京中央電話局, 1910)。これが面白い!例えば陸軍の軍医をお勤めになられていた森林太郎さん(職業:官吏)の電話番号は下谷九四六番。法制局参事官であられた柳田國男さん(職業:官吏)の電話番号は番町一〇番。小説家・夏目金之助さんの名前は見当たらなかったが、夏目さんが「彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」と書いた三代目柳家小さん師匠(職業:落語家)の電話番号は下谷一九五四番。

 それから面白かったのが調査報告書のあれこれ。『世帯主こづかい実態調査』(国民生活センター, 1987)、『芸能人の生活と意識 芸能人実態調査報告書』(日本芸能実演家団体協議会, 1974)、『酒に関する意識調査』(日本経済新聞企画調査部, 1977)…なんでこんな調査を???というものも散見される。その中で面白かったのが『歌舞伎町実態調査報告書』(歌舞伎町商店街振興組合, 1973)。歌舞伎町のさまざまな調査が書かれていて面白そう。借りて読みたい本である。

 その中に歌舞伎町の将来について頁を割いた箇所があった。一読したがこれが面白い。真面目な文章なんですけどね。思い切り要約すると「歌舞伎町は銀座や浅草に比べて歴史も浅く格下である、例えば銀座は金持ちや気取った人たちの街であり郊外で歴史の浅い新宿歌舞伎町は銀座をモデルにする必要はない、歌舞伎町は何でも気安い安上がりな娯楽の街、サラリーマンが仕事帰りにふらっと立ち寄って楽しめる街なんだからよお、ケッ、ざけんなよバーロー!」と、まるで往年の昭和軽薄体の騎手だった椎名誠みたいだけど、まあそういう主旨のことが真面目な文体で書かれているのです。真面目な報告書の行間から抑え切れないルサンチマンが…会場で立ち読みし乍ら笑いをこらえるのに苦労しました。これ借りて読みたい!

おかしなことにはおかしいと言おう。

 2/17(日)の午後から「反・反韓デモアピール」をしに新大久保へ出かけてきた。在特会(在日特権を許さない市民の会)が新大久保で反韓デモを行うのに併せて、歩道から差別をやめよう、仲良くしようというプラカードを静かに掲げるアピール。ツイッターで呼びかけられ3〜40人くらいは集まったようだ。
 
 在特会の反韓デモは、実際に目撃した人もいるだろうが、ほんとに気分が悪くなるくらい酷いヘイトスピーチの嵐が吹き荒れる。「朝鮮人は日本から出て行け!」「チョンコは半島に帰れ!」「韓国人は日本で商売するな!」…こういう罵詈雑言を、朝鮮学校の校門の前や新大久保などのコリアンタウンで、在日韓国・朝鮮人たちの目の前で連呼し行進するのである。去る2/9(土)にも新大久保で在特会のデモでは、韓国人の経営する店や店員を殆ど暴行寸前で恫喝、脅迫する映像がネットに流されその酷さが話題になった。今までも酷かったのだけれどこのときはほんとに酷かった。しかも周囲にいる警官や機動隊員が、逮捕はおろか止めることすらしないのである。これはおかしい。今回ツイッターで、こんな酷いことが白昼堂々日本の首都で行われているのに、誰も抗議の声や行動を示さないのはおかしいぞ、ということでこのアピールが実行された。

 大久保通りに現れた在特会に向けて、というか沿道にいる日本人や韓国・朝鮮人の方々にも、差別はやめよう、仲良くしようぜ!、このままでいいのか?等々、思い思いのプラカードを無言で掲げた。反韓デモ隊からは、そりゃもうひどい勢いで罵詈雑言を浴びせられた(笑)けど、周りにいる人たちはみな頷いてくれた、と思っている。ツイッターでもよかった、安心した、という反応がたくさん見られたのでひと安心。

 韓国人とおぼしき青年が「この団体はどういう団体なのですか?」と尋ねてきたので「ツイッターの呼びかけで集まった有志です、団体ってほどじゃないけどね」と答えたら意外そうな顔をしていた。遊びに来ていた学生らしい若者たちも「そうですよねえ、あの人たち(在特会)はおかしいですよ!」とニッコリ笑ってくれた。やっぱりおかしいことに対してはおかしい、と声をあげないとダメだよなあ。

「韓国人出て行け」VS「民族差別は悲しい」 新大久保で応酬


 という文章を書いて、今日2/24(日)、大阪のコリアンタウン鶴橋でさらに兇悪なヘイトスピーチが白昼堂々と行われた。ツイッターでざっとタイムラインを追ったがなんとも気分の悪くなるような罵詈雑言、というかこれ、なんで逮捕されないんだろう。もう脅迫だよ。

【大阪・鶴橋】 「民族差別はアカン」 排外主義者にカウンター

アンコウ鍋

友人たちとアンコウ料理を食べに行ってきた。上野駅に集合してスーパーひたちで一路水戸へ。水戸で土浦在の友人夫婦と落ち合い、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に乗り換えて大洗で下車。住宅街の中にあるお店でアンコウ鍋を囲みつつ乾杯。アンコウの唐揚げ、アンコウの友酢、生あんきも等々、たいへん美味しゅうございました。その後は、かねふくめんたいパークや大洗磯前神社などを散策し、美味しい団子を食べ、水戸へ戻ってから再び夕餉の美味しいお酒を飲んで帰宅。たまには美味しいものを食べなくちゃね。

今日という日は、残りの人生の最初の日だ。

田中章義著『世界で1000年生きている言葉』(PHP文庫)より…

実を食べて、その木を植えた人を思う。(ベトナム)
神様は決して目を閉じない。(ジャマイカ)
良い木に近づけば、良い日陰が得られる。(コスタリカ)
仕事をして人となる。上り坂を越えて駿馬となる。(モンゴル)
今日という日は、残りの人生の最初の日だ。(イタリア)
人は何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世を去っていく。(イスラエル)
愛することは長く、憎むことは短く(ビルマ)
魚を欲しがる友人に毎日魚をあげるより、魚の獲り方を教えてあげたほうがいい。(ベナン)
山のほうからはやってこない。こちらから山へ行け。(フィリピン)
与えようとする人が与えられる。(ブラジル)
太陽に顔を向けろ。影はあなたの後ろにできるから。(ニュージーランド)
息がある限り希望がある。(ネパール)
年寄りたちが犯した罪の罰をこどもたちが受ける。(デンマーク)
愚かな人々とともに歌うより、賢い人とともに泣くほうがよい。(セルビア)

イタリアの言葉は良い。あらゆる意味で今日を楽しむべし。
ニュージーランドの言葉は先住民マオリ族に伝わる、困難に背を向けると影ばかり見続けることになるという意味。
ネパールの言葉は座右の銘にしたい。越後人はしぶといぞ(笑)。
そしてデンマークとセルビアの言葉に思わず襟を正す。

貧乏人の経済学

 『貧乏人の経済学』を読んでいろいろと目を開かれる思いがした。その中からひとつ、、、

===以下、引用===

 蚊帳を売るべきか無料で頒布すべきかについて、サックスとイースタリーが正反対の見方をするのは、偶然ではありません。ほとんどの富裕国専門家たちが開発援助や貧困に関する問題で取る立場というのは、その人固有の世界観に左右されることが多いのです。これは蚊帳の値段と言った、厳密な答えがあるはずの具体的な問題の場合ですらそうです。ほんのちょっとだけ戯画化するなら、ジェフリー・サックスは(国連、WHO、開発援助業界の担当部分と同様に)援助額を増やしたいと思っていて、モノ(肥料、蚊帳、学校のコンピューターなど)は無料であげるべきだし、貧乏人はわたしたち(あるいはサックスや国連)が彼らにとってよいと思うことをするよう促されるべきだ、と一般に思っています。例えば、子供たちには学校で給食をあげよう、そうすれば親たちも子供を学校に通わせ続けたいと思うようになる、というわけです。
 その対極にいるのはイースタリーやモヨや、共和党系シンクタンクのアメリカン・エンタープライズ研究所などのような存在で、彼らは援助には反対です。それは政府を腐敗させるかたというだけでなくて、もっと基本的な部分で、彼らは人々の自由を尊重すべきだと信じているからです。向こうがほしがっていないものを、無理強いしても無駄です。子供が学校に通いたがらないのは、教育を受けても意味がないからにちがいない、というわけです。(『貧乏人の経済学』アビジット・V・バナジー、エスター・デュプロ著、山形浩生訳、みすず書房, 2012)

===以上、引用終り===

 学生たちに本を読め読めと常々言っているわけだが、果たして読書の無理強いは意味があるのだろうか?と思ったわけです。彼らにとって読書は「よいことだ」であるはずだから(言い方はどうあれ)「読め」と押し付けているのではないか。彼らの自由を尊重すべきであるなら、読書にたいして意味はないと思っているなら無理強いしても…と思ってしまう。難しいなあ。

啖呵

吉原幸子『啖呵』......これが欲しいが/あれをえらぶ/そんな いい加減のものぢゃない/もっときびしい 地獄なんだ/抱くことが 答へではなくなるやうな/みてごらん/地獄なんだよ えらんだものが/メスだからね 二つのメス/メスは メスを 切れないからね/金属の音がするだけ/金属のなみだが 流れるだけさ/甘ったれるんぢゃない/酔ふんぢゃない/ひとの傷口に 薬を塗るんぢゃない/〈みんなの孤独〉なんて なれ合ひさ/あへぐ鼻孔に 唇をあてて/病気を啜りだすことができてさへ/この傷は なほせない/じぶんで メスになって 切りひらいて/ひとりひとりの 地獄があるだけさ......ときどき本棚から吉原幸子の詩集を取り出して『啖呵』を読む。読むたびに心がひりひりする。

深い言葉

「小さい時、大きくなったら(北京の)北海公園の整備をする人になりたいと言った。僕は既に武術チャンピオンだったけど、静かな公園で花に水をやる仕事を任せられたなら、人と争う事もなく静かで美しい人生を送れるだろうと思ったからだ」ジェット・リー(李連杰)

嗚呼、上野駅

 ポレポレ東中野へ『七人の刑事 終着駅の女』(日活/1965)を観に行った。ツイッターで話題になっていた…と言ってもごくわずかな映画ファンだけだろうが…作品である。どのように話題になっていたかというと…出演者やストーリーよりも1965年当時の国鉄上野駅でその殆どのロケを行い、しかもそのロケも大部分が隠し撮りと思われ、当時の上野駅構内や周辺の風俗(人びとや街並、音声等)がそのまま記録されている、テーマ音楽も何もなく一種異様な雰囲気を持った作品、これまで一度もソフト化されたことがなく、また今後もされる予定もないレア中のレア作品…とくればこれは観に行くしかないでしょう。しかも当時の鉄道風景がてんこ盛りである。ちなみに『七人の刑事』は、あの有名な「むーむー、むむむ、むむむ、むむむ、む~♩」というテーマソングでお馴染みの刑事ドラマで、これは幾つか作られたという劇場版。

 一言で言うと、なんとも不思議な雰囲気を持った映画だ。駅のホームで起こった殺人事件の犯人を捜すわけだが、その設定、動機、犯人、トリックには何の目新しさも仕掛けもない。ヒーローもヒロインも出てこない。言うなれば東北地方が未だ首都圏に収奪される土地であった頃の、故郷で食い詰めた東北人が、故郷から常磐線や東北本線に乗り、新天地を求めてたどり着いた終着駅の上野界隈で、首都圏の社会構造のなかで更に搾取され続け、社会の底辺に蹴落とされる。今回の被害者の女性だけでなく、犯人に仕立て上げられて死ぬチンピラ(平田大三郎)も、暴力団組織から売春を強いられていた女(笹森礼子)も、失踪した娘を捜して上京する老婆(北林谷栄)も、みんな首都圏に夢や希望を収奪された東北人なのだ。

 七人の刑事は真犯人を逮捕することはできたが、濡れ衣を着せられたチンピラを救うことはできず、チンピラと故郷に帰るはずだった女を地獄から救い出すこともできなかった。絶望しきった女は無表情でまた新たな地獄を探して雑踏へと消えていき、老婆の娘はいまだに見つからない。上野駅には次から次へと東北から新天地を求めて東北人が上京し、その大半が夢破れ傷ついていくことが暗示される。七人の刑事は、上野駅構内に設けられた捜査本部で、憔悴した表情で冷や酒をあおりスルメを齧る。上野駅に集まる人びとのインタビューとおぼしき切ない声が画面に重なり映画は終わる。爽快感も何もない。陰影の濃いモノクロ映像が、ただただ都会の絶望感を際立たせる。

 芦田伸介、堀雄二、菅原謙二、佐藤英夫らお馴染みの面々に加え、今回は八人目の刑事とも言うべき大滝秀治(!)が加わって良い味出している。その他、草薙幸二郎、梅野泰靖、三崎千恵子ら名傍役が出演。

その方がいいよ

外国人参政権を頑に拒絶する声が根強いのだけれど、その参政権を行使しない国民が4割近くいるのだ。日本はもう鎖国を止めないとほんとうに世界の孤児になる。北朝鮮を笑えない国になってしまうぞ。多くの外国人がともに暮らしていける国を目指した方がいい。その方が絶対に楽しい国になる。若者たちも世界はこの狭い国だけじゃないことがわかるだろう。グローバル人材を育成するということは、日本も閉鎖社会を打破して外国人を自国民同様に受け入れることが必要だ。

備忘録

民主主義の皮肉、不条理というか、民主化することによって極端な原理主義国家が生まれる可能性がある。かつてドイツもワイマール憲法のもとで民主的にヒトラーが率いるナチスドイツが生まれた。(池上彰)

見上げているのか、見下ろしているのか?

てっぺんに上ったらあとは下るだけなんだから、上ったり下ったりすることも人生の道と違いますか?(大阿闍梨 酒井雄哉)

本に関する本を薦めてみる

あのさ、もう読んだかもしれないけどさ、こんな本はいかがでしょうか? 長尾真『電子図書館 [新装版]』(岩波書店)…初版は1994年に刊行されてるんだよね、もうこれは予言の書と呼んでもさしつかえないくらいの本。それから長田弘『読書からはじまる』(NHKライブラリー)…長田弘は詩人なんだけど、読書についてもいろいろ発言したり文章を書いたりしている。この本は読書の本質を的確に捉えた読書論。まるで長編叙事詩を読んでいるかのような気分になります。

誘惑とは常に甘いもの

市場が支配する社会の中で認められることがないのであれば、違うところに、自分を根拠づける何かを求めるのは自然なことでしょう。ナショナリズムが甘い誘惑になりやすいのは努力がいらないからです。日本人であることは「生まれ持ったアイデンティティ」だからです。これは強烈な吸引力があるでしょう。つまり国をほめるということは、そこに生まれた自分をほめることと一緒です。だからみんな引き寄せられます。(南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』)

What's going on?

音声ファイルを整理していたら、2011年3月15日のTBSラジオ深夜放送、東日本大震災特番の録音があった。落ち着いた声の女性DJが、震災関連情報を伝え乍ら洋楽をかけていた。

かかっていたのは、マーヴィン・ゲイ『What's going on』、カーペンターズ『It's going to take some time(小さな愛の願い)』、ディオンヌ・ワーウィック『I say a little prayer(小さな願い)』…なるほどなあと思わせる選曲だった。特にマーヴィン・ゲイの名曲は、タイトルといい内容といい絶妙の選曲だ。まさにあの時は毎日 What's going on(何が起こっているんだ?) だったものなあ。

話は変わるが、いま自民党が再び政権の座についた。新保守主義が支持されているのだろう。それはいいのだが、何やらきなくさい匂いが漂って来る。いまこそ What's going on と叫ばなくてはダメだと思う。

私はひとりでも叫ぶよ。What's going on?

年頭の辭

「駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」(茨木のり子「自分の感受性くらい」)

「よく覚えとけ。 現実は正解なんだ。 時代が悪いの、世の中がおかしいといったところで仕方ない。 現実は事実だ」(立川談志)

今回はどこまで行くのやら

釣魚島不法上陸にともない中国各地で反日大遊行(反日デモ行進)が呼びかけられている。ポスターはいずれも同一テンプレートで、元ネタは映画『南京!南京!』(2009)のポスター。官製デモだと思うが、果たして今回は何処まで黙認されるのか?しかも秋には胡錦濤体制から習近平体制への移行が予定され、重慶事件での薄煕来失脚に象徴される胡派vs習派の権力闘争も絡んで余談を許さない。更には民主党政権が何処までダメな政権なのかが明らかになるだろう。
中國網民「發起多個城市反日遊行」

暑い熱い夏

先週の日曜日、7.29脱原発国会大包囲に参加した。日比谷公園からデモ行進、国会議事堂周辺にて包囲網形成…の予定がまさかのバリケード決壊。無数の人びとが国会議事堂前の車道に溢れ出した。まさにカーニバル状態。警察官もどうすることもできず。まあ、あれだけの人がいるんだから、最初から車道を開放しておけばよかったのに…と思うも後の祭り。車道に溢れ出した人びとは、闇に潜む国会議事堂に向って、思い思いに雄叫びをあげ続けるのだった。暑い熱い夏の夜。

この夏に読もうと思っている本

龍應台『台湾海峡 一九四九』(白水社)
赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社)
ヤロスラフ・ハシェク『プラハ冗談党レポート:法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』(トランスビュー)
アラン・ムーアヘッド『恐るべき空白』(早川書房)
増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)
邱永漢『象牙の箸』(中公文庫)
堀田善衛『上海にて』(ちくま学芸文庫)
ルース・ベネディクト『菊と刀』(講談社学術文庫)

浮かれて出ましたディック・ミネ

ディック・ミネが昭和10から15年にかけて吹き込んだジャズソングの数々を収録したディック・ミネの『エンパイヤ・オブ・ジャズ』(テイチク/TECH-37270/71)…これは凄いです。驚異的です。サザンオールスターズの桑田佳祐のデビューよりも衝撃的。

レバ刺し

夕方から都内で用事を済ませて新宿三丁目界隈でいっぱい引っ掛けた。先月まであったレバ刺しがみごとにメニューから消えている。表面を炙って中身はレアというレバテキもない。訊いたらレバ刺しはもちろんのことレバテキも自粛したとのこと。レバ串も「中までしっかり焼きますので…」と言われてしまう。私はどっちでもいいんだけどご苦労なことである。蒸し暑い梅雨の夜に酎ハイと焼きとんで飲んだくれ。でもこの店だけじゃないがメニューにレバ刺しはないけどガツ刺しとかタン刺しはあるんだよな。なんだかよくわからないレバ刺し禁止である。

夜の散歩

13日の金曜日の夜。地下鉄永田町1番出口から地上に上がると警察官があっちの方向へ行ってくれと指示。なんで自分の行きたいところへ行けないのか。警察官はうようよと歩道を封鎖している。金曜日の夜に国会周辺を散歩したいだけなんだけどな。散歩したいのに警官はあっちから行けこっちはダメとうるさい。とうとう人の流れは停まってしまった。多くの警察官たちが交差点を封鎖して渡らせてくれないのである。何をそんなに恐れている?何をそんなに焦っている。世界にこの醜態をさらけ出してまでもデモを制圧する。さすがに公権力。警察は治安と秩序を維持する組織であり治安と秩序の維持とはとりもなおさず国民が国家に服従することを意味する。仕事はイヤなものでありつまらないものでもある。職務に忠実な警察官の諸君ごくろうさま。まあそんなことを現場の警察官に言っても無理だ。かれらは上層部の決定と指示で動いているのである。それはそうと人混みのなかでトラメガを抱えて大音量で「再稼働反対!」という文句を繰り返す爺さんうるさいからやめてくれないか。マイクを握った青年が叫ぶ。「ここに集まったみなさんは“原発反対か賛成か”という二者択一の意見を持っている人ではありませんね?もちろん私たちには“原発反対”しかあり得ません!」おいおい私は違うよ。二者択一という前提を自ら棄ててはいけない。どちらを選ぶかがだいじなんだよ。でも私たちは主張するんだよ。黙っていては認めたことになる。私は嫌だ。だからこの蒸し暑い夜に国会周辺を散歩しに来たのさ。

世界が滅びる日に

『世界が滅びる日に』石原吉郎

世界が滅びる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ

雨の降る品川駅

『雨の降る品川駅』
               中野重治
辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する

李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母の国にかえる

君らの国の川はさむい冬に凍る
君らの叛逆する心は別れの一瞬に凍る

海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる
鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる

君らは雨にぬれて君らを追う日本天皇を思い出す
君らは雨にぬれて 鬚 眼鏡 猫脊の彼を思い出す

ふりしぶく雨のなかに綠のシグナルはあがる
ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる

雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる
雨は君らの熱い頰にきえる

君らのくろい影は改札口をよぎる
君らの白いモスソは步廊の闇にひるがえる

シグナルは色をかえる
君らは乗りこむ
君らは出発する
君らは去る

さようなら 辛
さようなら 金
さようなら 李
さようなら 女の李

行ってあのかたい 厚い なめらかな氷をたたきわれ
ながく堰かれていた水をしてほとばしらしめよ
日本プロレタリア-トのうしろ盾まえ盾
さようなら
報復の歡喜に泣きわらう日まで

アーネスト・ボーグナイン

米国の映画俳優アーネスト・ボーグナイン死去。岩の塊みたいな強烈な面構えの名傍役。『地上より永遠に』『ワイルドバンチ』『北国の帝王』『ポセイドン・アドベンチャー』などなど…私の大好きな役者のひとりだった。享年95。アーメン。

尖閣諸島と大熊猫

上野動物園のパンダといえばリーリー(力力)とシンシン(真真)。これは来日後に日本国内で公募されて命名されたのだが、本来の名前はビーリー(比力:bili)とシェンニュィ(仙女:xiannü)。リーリーとシンシンは言わば日本国内で営業するための藝名であり、いずれ中国へ帰国したら本名の比力と仙女に戻るわけだ。まあ言ってみれば東南アジアから興行ビザで来日したタレントみたいなものである。

ところで二頭のあいだに生まれた幼獣の命名についても、民間から公募されることになりそうとのこと。しかし幼獣の命名については中国の了承が必要という一項があるため、あまり日本的な命名は見送られる可能性が高い。まあシンシンという名前も「真」という漢字音が「シン」だからだが、漢語音では「真」は zhen である。子音のzh-は日本語には存在せず、むりやりカタカナ表記すれば「ジェン」であり「シン」(shin)ではない。だから「真真」は shinshin ではなく zhenzhen なので、いずれ帰国すれば「シンシン」という存在は消滅してしまう。どうせシンシンにするなら、例えば「杏杏:xingxing」、「幸幸:xingxing」などにしておけばよかったと強く思う。上野動物園側には、中国産の稀少動物の命名に関する知識も配慮も不足していたということだ。

ところで最近、東京都知事の石原慎太郎が「パンダの名前なんかどうでもいい、どうせなら(尖閣諸島由来の)『センセン、カクカク』にしろ」と吠えて、これに喜ぶバカな嫌中派が大喝采しているが、実にくだらない。まあそれはそうと尖閣(jiange)という命名について考えてみる。まず「尖:jian」だが「尖」(とがる)という漢字を重ねて「尖尖(センセン)」というのは意味がわからない。次に「閣:ge」だが、母音の e は曖昧母音でありこれも日本語音には無い。よってカタカナ表記ができない。むりやり表記すればグー、またはゴーだが gu と go と ge は全く違う発音なのである。そもそも「閣」とは「高い建物」という意味なので、これを重ねて「閣閣」とする理由が不明。よって石原都知事の命名方法は全く無意味というか意味不明ということになる。

上野動物園に在籍した歴代のパンダたちだが、カンカン(康康:kangkang)、ランラン(蘭蘭:lanlan)、ホアンホアン(歓歓:huanhuan)、フェイフェイ(飛飛:feifei)トントン(童童:tongtong)、ユウユウ(悠悠:youyou)は漢字も音も巧い組み合わせとなっていた。今回生まれた幼獣についても、無理矢理な日本漢字音など採用することなく、漢字の意味と漢語の発音を巧く組み合わせた命名が求められる。

書店ばかり目につく

雨。昼から一橋大学。委員会、会議など。大学近くにある増田書店の品揃えは相変わらず素晴らしい。顧客が店を育てるんだろうな。西国分寺にてしずちゃんと飲む。たぶん7〜8年ぶりの再会。フェイスブックってすごいねwなどと飲みつつ話す。ひさしぶりに会ったので『第一阿房列車』をおみやげにあげる。中央線〜南武線を乗り継いで帰宅。立川駅構内にPaper Wallがオープンしていた。

平反六四

また今年も6月4日が経巡ってきた。もう23年経ったのかという思いである。
鄧小平の呪縛は薄れ江沢民の影も薄くなった。胡錦濤と温家宝体制もきしみを見せ始めたが、これから習近平体制への移行も着々と進んでいる。また保守派の薄煕来失脚という政変も世界を驚かせた。
中国共産党による天安門事件の全面否定はおそらくあり得ないだろうが、文化大革命のように一部否定ということもあり得るのかもしれぬ。そして何より平反六四(天安門事件の無実の罪をすすぐ)がいつ実現するのか。
今日はあの日を頭の片隅に置いて一日を過ごす。

日本人が忘れていること

新聞を読んでいたら『ワンチュク国王から教わったこと』(PHP)の広告が目に入った。惹句には「思いやり、謙虚さ、誇り、リーダーシップ、そして本当の幸せ…日本人が忘れていたことを思い出させてくれる希望の贈り物」とある。ワンチュク国王とはブータン王国の王様で、2011年11月に新妻の王妃を伴って来日、国会における、東日本大震災で傷ついた国民を励ます演説によって、一躍国民にその名を知られるようになったことは記憶に新しい。同時に、ブータンが「幸福度が世界一高い国である」という報道も相まって、いちやくワンチュク国王夫妻とブータンの好感度がアップした。

それはそうと、私が気になったのがこの本の惹句の中の一節、「日本人が忘れていたことを思い出させてくれる」という部分だ。いつか聞いたことがあるなあと記憶を甦らせていくと1980年代に遡る。当時私は中国文学を学ぶ学生であった。中国語もかじっており中国の地を踏んだこともある。その時に実際に見たり聞いたりしたことなのだが、日本人の特に高齢者の方々の中に、やたらと中国を礼賛する一群が存在していた。かれらの言い分はだいたいこんな感じだった。

曰く「赤い頬をした農村の少年少女たちのあどけない瞳が懐かしい」「化粧っ気のない中国の若い娘さんときたらなんと素朴で清潔なことか」「それに比べて日本の若い娘たちは…」「外で遊ばなくなった日本の子どもたちは何か大切なものを失った」「素朴な生活、つつましい暮らしの中で家族が一同に食卓を囲む。かつては日本もそうだった」等々…

かれらは一様に「中国の人民は夢と希望に燃えている。まるで戦後の日本のようだ」「中国には、日本が失ってしまったものがたくさん残っている」「とても懐かしくとても嬉しい」「だから中国は良い国である」…つまりかれらは、かつて自分たちの周りに当たり前のように存在し、高度経済成長とともにいつのまにか見失ってしまった古き良き日本の面影を、当時の中国と中国人たちに見出していたのである。私たちは20代の生意気な若僧(若僧とは、いつだって生意気なものである)だったので、こういう高齢者の方々を「中国大好き爺さん婆さん」と揶揄していた。

その気持ちは今も変わりはない。当時の中国大好き爺さん婆さんたちが涙を流さんばかりに感激した、「日本が失ったものを体現する中国人たち」は、ただ単に情報から遮断され海外の事情はおろか、北京や上海という大都会のことさえ知らなかった。知らないし物資もないから化粧もしないのである。なぜかれら中国の国民がそのような境遇に置かれているのか、なぜ農村の人びとは都市へ行かないのか、なぜこのように「理不尽に」不自由(不便ではない)なのか、私たち中国学に首を突っ込んでいた若者なら多少の知識はあった。尤も私たちの中にもマジメに日中友好を夢見る連中がいた。いてもおかしくはない。いたっていい。しかし冷静に文献を読み、教師や同級生たちと議論してみればわかることであった。そんな簡単なものではないと。そして私もまた歳を経たいま、かの中国大好き爺さん婆さんたちの気持ちが少しはわかるようになってきた。

あれからもう30年近く時が流れた。それでもいまだに「日本人が忘れていたこと」を「思い出させてくれる」「外国の人びと」がいて、いちいち私たちはそのノスタルジーを輸入に頼っている。もういいんじゃないか、そんなこと。もともと私たちにはそんな高邁で素晴らしい社会などなかったのではないか。思い出は常に美化される。私たちはきっと適当に仲良しで適当に助け合い、適当にいがみ合い適当に傷つけ合ってきたのだ。そうに違いない。それでいいではないか。

ほんとうに日本人が誇りを取り戻すとしたら、外国からの輸入などに頼るのではなく、自前でやったほうがいい。しかも外国人を排斥するようなやり方ではなく、西洋文明のような一神教ではない寛容を旨とする多神教の国として、世界の中の日本として毅然と襟を正していけばいい。などということをぼんやりと思ったGW最終日の夕暮れ。

「真実」に惑わされるな

徒然なるままに読んでいた片岡義男の名著に唸りっ放し。例えばこんな文章。時代を超えただいじなことが書かれていると思う。

==============================
 1968年に、ハンク・スノウ(Hank Snow 1914-1999)やマーティ・ロビンス(Marty Robbins 1925-1982)はジョージ・ウォレス(George Corley Wallace 1919-1998)に投票し、巡業さきではウォレスの宣伝を盛んにやった。テックス・リター(Tex Ritter 1905-1974)やロイ・エイカフ(Roy Acuff 1903-1992)は、ニクソン大統領の就任式に、大統領から個人的に招待された。ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash 1932-2003)は、「アメリカ政府がやっていることだから」という理由でヴェトナム戦争に賛成している。マーティ・ロビンスは、『ラヴシック・ブルース』をじつにうまくうたい、ヴェトナム戦争に反対している。理由は、「アメリカが勝ったら、またひとつやしなうべき国を背負いこむことになるから」なのだ。
 このようなメンタリティの人たちにとってたとえばジャン・ハワード(Jan Howard 1930- )がうたう『私の息子』という歌など、最も「真実」にちかいものなのだ。この歌は、ジャンが実際にヴェトナムへ戦争しにいっている自分の息子からもらった手紙を材料にしてつくった歌で、歌ができてレコードになってから、その息子は戦死してしまった。
 『私の息子』はジャン・ハワードのおハコになっている。感きわまって、途中で泣き出すこともあり、アナウンサーとかそのときのショウの主役が「じつはジャンの息子がヴェトナムでその命をアメリカにささげたのです、ジャンも息子も立派ですね」というようなことを、必ず言う。
 観客は、ワッとくる。きたところでジャンは泣きながらソデにひっこみ、バンドは『兵士の恋人』のような、アメリカを讃えるたぐいの曲を、派手に演奏する。また、ワーッと拍手や歓声がくる。『私の息子』のレコード売上げがあがり、ジャン・ハワードのリクエストがふえる。観客は、「真実」に同化したとたんに、カネを失っている。しかし、そのことには、まず気がつかない。気がついていたら、ナッシュヴィル・サウンドが、ナッシュヴィルに対して年間純益一億ドルの産業になるはずがないのだ。
 このような調子だから、「真実」であればどんなことでもソングになる。カントリー・アンド・ウェスタンにうたわれている世界の広さは、ここに原因がある。

(中略)

 戦争で息子が死んだら、かわいそうだと感じるのは人間として基本的な感情で、そのかぎりでは真実なのだが、かわいそうだ、ほんとだ、かわいそうだ、と言っているだけでは、どこへも出口のない袋小路でどうどうめぐりをしているにすぎず、基本的な感情の同化はあっても、その同化は、ヴェトナム戦争に対してはむしろ目かくしになるのだ。どちらかと言えば決して金持ちではないアングロサクソンの世帯持ち、つまり、サイレント・マジョリティの、保守性は、頑迷にここにある。『グランド・オール・オプリイ』のステージにはじめてドラムを登場させるとき、三脚にのせたスネアドラムひとつで演奏者は腰かけずに立って叩くのであればよろしいと、長い論争のあとで決定した保守性と同質だ。(片岡義男『ぼくはプレスリーが大好き』三一書房, 1971)
==============================

(筆者注)
ハンク・スノウ、マーティ・ロビンス、テックス・リター、ロイ・エイカフ、ジョニー・キャッシュ、ジャン・ハワード…いずれもカントリーミュージックの歌手。
ジョージ・ウォレス…元アラバマ州知事。人種差別主義者として有名。
グランド・オール・オプリイ…1925年から放送が開始されたラジオ番組。カントリーミュージックの公開放送番組として知られる。

中国全人代に思うこと。

温首相が危機感「文化大革命、再び起こるかも」

温家宝は、1989年の天安門事件の時に、趙紫陽総書記(後に失脚)の側近としてあの悲劇の現場にいた。うるさ型として保守派から嫌われている。権力闘争の凄まじさは日本の比ではない。現代日本の政治家は、中国に勝てるような知力も根性も持ってないだろうね。

«副作用